【戦い・事件編】葦屋浦の戦い――鎧を手放して船を買った下河辺行平、原田種直との九州攻防

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戦い・事件

第143回

第143回

元暦2年(1185年)2月1日、葦屋浦。

九州へ進んだ源範頼の軍勢が、平家方の武士たちと衝突した。

源氏方の先陣には北条小四郎義時、下河辺庄司行平、渋谷庄司重国、品河三郎らがいた。

迎え撃ったのは、大宰少弐原田種直と、その子の賀摩兵衛尉らである。

原田種直は筑前国に勢力を持つ武士で、長年にわたり平家の九州支配を支えてきた人物だった。

『吾妻鏡』元暦2年2月1日条によれば、種直父子は兵を率いて源氏方へ戦いを挑んだ。

応戦したのは下河辺行平と渋谷重国らだった。

彼らは敵の周囲を駆け回り、矢を放ったという。

種直方も攻めかかったが、渋谷重国の射撃を受けて敗れた。

さらに行平は、美気三郎敦種という武士を討ち取ったと記されている。

この行平は、数日前に自分の甲冑を手放していた。

深刻な兵糧不足に陥っていた源氏軍には、海を渡るための船も足りなかった。

行平は甲冑を手放して小船を買い、誰よりも早く敵地へ向かおうとしたのである。

なぜ鎧を捨ててまで先陣を望むのか。

周囲から不審に思われた行平は、命を惜しむつもりはないと答えたという。

大将の船に乗れば、その船の動きに従わなければならない。

自分の船なら、進む時機も退く時機も自分で決められる。

行平はそのために小船を手に入れた。

一ノ谷で源氏が大勝してから、およそ1年。

平家はまだ瀬戸内海に船団を残し、九州にも原田種直ら有力な味方を持っていた。

範頼軍は遠征が長引くにつれて食料を失い、帰国を望む武士まで現れていた。

その苦しい遠征の末に起こったのが、葦屋浦の戦いだった。

一ノ谷の敗北後も西国に残った平家

寿永3年(1184年)2月7日、源平両軍は摂津国の一ノ谷で激突した。

東の生田の森では源範頼の軍勢が攻め込み、西側の一ノ谷方面では源義経らが平家の陣地へ迫った。

平家軍は各所で敗れ、多くの一門の武将を失った。

平忠度、平敦盛、平経正、平通盛らが討死し、清盛の子・平重衡は源氏方に生け捕られた。

平家は、都落ち後にようやく取り戻した福原周辺の拠点を再び失った。

宗盛や知盛ら生き延びた武将たちは、安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ退いた。

しかし、瀬戸内海ではなお平家の船団が活動していた。

屋島には宗盛らが安徳天皇を奉じ、長門国の彦島には知盛が軍勢を配置していたと伝わる。

彦島は現在の山口県下関市にあり、関門海峡に面する島である。

海峡の向こうには九州が広がっていた。

九州には、清盛の時代から平家に従う武士たちがいた。

筑前国の原田氏、遠賀川河口の山鹿氏、豊前国の板井氏などである。

彼らはそれぞれの土地に武士団を抱え、平家の西国支配を支えていた。

また、平家にとって瀬戸内海の航路は重要な戦力でもあった。

船を使えば、陸上を進む源氏軍よりも早く兵を移動させることができる。

一ノ谷で大敗した平家は、残された船団と西国の武士たちを頼りに抵抗を続けていた。

源範頼が率いた二度目の西国遠征

元暦元年(1184年)9月、源頼朝は弟の範頼を再び西国へ派遣した。

範頼は一ノ谷の戦いで大手軍を率いた武将である。

今回は山陽道を西へ進み、平家の残存勢力を追討する役目を担った。

軍勢には北条義時、足利義兼、小山朝政、千葉常胤、下河辺行平、渋谷重国、和田義盛ら、東国の有力武士が加わっていた。

範頼軍は京都から播磨国へ進み、さらに備前国方面へ向かった。

その途中、備前国児島の藤戸で平家軍との戦闘が起こっている。

藤戸の戦いでは、佐々木三郎盛綱が馬に乗ったまま海を渡り、平家方を敗走させたと伝わる。

『吾妻鏡』では12月7日、『平家物語』では9月26日の出来事として記されており、日付には違いがある。

源氏方は藤戸で勝利したものの、屋島や彦島の平家軍を追討するには、さらに西へ進まなければならなかった。

そして範頼軍は、深刻な問題を抱えることになる。

兵糧が足りなくなったのである。

兵糧が尽き、帰国を望む武士たち

範頼軍は東国から集めた武士たちを率い、遠く離れた西国で戦っていた。

軍勢が進むほど、鎌倉との距離は長くなる。

現地で兵糧を調達しようとしても、平家方の勢力が残る地域では思うように集められなかった。

また、瀬戸内海の船を十分に確保できないことも、進軍を妨げていた。

『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、前年11月14日に範頼が出した書状が鎌倉へ届いたことが記されている。

その内容は厳しいものだった。

兵糧が欠乏し、軍勢の統制が乱れている。

東国の武士たちは故郷を恋しがり、過半が帰国を望んでいるという。

一ノ谷で勝利した源氏の武士たちも、終わりの見えない西国遠征に疲れていた。

範頼は頼朝へ援助を求めた。

兵糧に加え、乗馬も送ってほしいと訴えている。

しかし、鎌倉から西国へ物資を運ぶには時間がかかる。

範頼は軍勢を維持しながら、現地で協力してくれる武士たちを探さなければならなかった。

頼朝が求めた九州の武士たちとの協力

範頼の報告を受けた頼朝は、正月6日付で返書を送った。

『吾妻鏡』には、その内容が詳しく収められている。

頼朝が重視したのは、九州の武士たちを味方につけることだった。

東国から派遣した軍勢だけで、西国各地の平家方を追討し続けるのは難しい。

九州の武士たちが協力すれば、兵や船、食料を現地で集められる。

頼朝は範頼に対し、九州の人々に恨まれないよう振る舞い、味方になろうとする者を丁重に扱うよう求めた。

また、安徳天皇の身柄にも注意を払っていた。

平家が奉じる安徳天皇や一門の女性たちを無事に迎え取るため、軽率な軍事行動を戒めている。

一ノ谷で大勝したからといって、平家を侮ってはならない。

頼朝はそう考えていた。

範頼には九州方面、義経には四国方面の平家追討を担当させる方針も示されていた。

西国各地の武士を味方につけながら、平家の拠点を攻める。

そのためにも範頼軍は、まず九州へ渡る必要があった。

赤間関で止まった範頼軍

元暦2年正月12日、範頼軍は長門国の赤間関へ到達した。

赤間関は現在の山口県下関市付近にあたり、関門海峡を挟んで九州と向かい合っている。

範頼はそこから海を渡り、九州へ進もうとしていた。

ところが、船がなかった。

兵糧も欠乏していた。

『吾妻鏡』には、範頼軍が数日間足止めされ、東国の武士たちが帰郷を望むようになったと記されている。

その中には和田義盛もいた。

義盛は相模国三浦氏の一族で、頼朝の挙兵以来、各地の戦いに参加してきた武士だった。

鎌倉幕府では侍所の別当を務めた有力者でもある。

その義盛まで、密かに鎌倉へ帰ろうと考えていたという。

範頼はこのままでは軍勢を維持できないと判断した。

そこで、九州にいる源氏方の武士たちへ船の提供を求めることになる。

頼りにしたのは豊後国の臼杵惟隆と緒方惟栄だった。

範頼軍を助けた豊後の臼杵兄弟

臼杵二郎惟隆と緒方三郎惟栄は、豊後国に勢力を持つ大神氏の一族である。

惟隆が兄、惟栄が弟にあたる。

二人は豊後国の武士たちを従え、九州で有力な立場にあった。

特に緒方惟栄は、平家の都落ち後に九州で抵抗した人物として知られている。

寿永2年(1183年)、平家は安徳天皇を奉じて九州へ下り、大宰府周辺を拠点に勢力を立て直そうとした。

しかし、豊後国の緒方惟栄らがこれに従わなかった。

平家は九州で安定した拠点を築くことができず、再び瀬戸内海へ退いている。

その惟栄と兄の惟隆が、今度は範頼軍を助けることになった。

範頼は二人に船の提供を求めた。

そして正月26日、待ち望んでいた船が届けられた。

八十二艘の船と兵糧米

『吾妻鏡』元暦2年正月26日条には、臼杵惟隆と緒方惟栄らが82艘の兵船を提供したと記されている。

さらに周防国の住人、宇佐那木上七遠隆が兵糧米を献じた。

船と食料を得た範頼軍は、豊後国への渡海を始めた。

『吾妻鏡』には、このとき渡海に加わった武士たちの名が列挙されている。

北条義時、足利義兼、小山朝政、結城朝光、千葉常胤、下河辺行平、渋谷重国、和田義盛、比企能員らが含まれていた。

これまで赤間関で足止めされていた軍勢が、ようやく九州へ向けて動き出したのである。

ただし、82艘の船に何人の武士や従者、馬を乗せたのかは明らかでない。

また、『吾妻鏡』は正月26日条に渡海の記事を記す一方、2月1日条にも範頼が豊後国へ渡ったと記している。

先発隊と後続の部隊に分かれて渡った可能性もあるが、渡海の詳しい日程までは確定できない。

その船を得たとき、下河辺行平が思い切った行動に出た。

鎧を手放して小船を買った下河辺行平

下河辺行平は、下総国下河辺荘を本拠とした武士である。

下河辺氏は源頼朝の挙兵以来、鎌倉方に従っていた。

行平も各地の軍事行動に参加し、弓馬に優れた武士として知られていた。

『吾妻鏡』正月26日条によれば、行平も兵糧が尽きて困窮していた。

しかし、行平が選んだのは、軍勢から離れて帰国することではなかった。

自分の甲冑を手放し、小船を買い取ったのである。

『吾妻鏡』には、次の言葉がある。

「投甲冑買取小舩」

甲冑を手放し、小船を買ったという記録である。

行平はその船に乗り、真っ先に漕ぎ出そうとした。

周囲の武士たちは驚いた。

鎧を着けずに敵地へ向かえば、身を守るものがない。

大将の船に乗り、甲冑を着けて戦場へ向かえばよいではないか。

そう問いかけられた行平は、もともと自分の命を惜しんではいないと答えたという。

行平が望んだのは、自分の判断で進退を決められる船だった。

大将の船に乗れば、船を出す時機も向かう場所も大将の命令に従うことになる。

自分の船なら、誰よりも早く敵地へ向かえる。

行平は甲冑を手放してでも、先陣を果たそうとしていたのである。

三浦義澄も先陣を望んだ

先陣を望んだのは行平だけだった。

同じ正月26日条には、三浦義澄の話も残されている。

義澄は相模国三浦郡を本拠とする有力武士で、頼朝の挙兵以来、源氏方を支えてきた。

範頼は九州へ渡るにあたり、後方の周防国にも兵を残すことにした。

周防国は京都や鎌倉との連絡を保つうえで重要な土地だった。

九州へ向かった軍勢への兵糧の輸送や、後方の警備を担う者が必要だったのである。

千葉常胤は、その役目に三浦義澄を推薦した。

義澄は勇敢で、多くの兵を率いていたからである。

しかし、義澄は不満を述べた。

自分も先陣を望んでいたという。

周防国に残れば、敵地へ攻め込んで軍功を立てる機会を失う。

それを惜しんだのである。

範頼は義澄の勇敢さを認めながらも、周防国に残るよう命じた。

義澄は最終的に命令に従い、陣を構えたと伝わる。

自分の船を買って先陣を目指す行平。

後方に残ることを惜しむ義澄。

『吾妻鏡』には、軍功を求める東国武士たちの行動が記されている。

六十八歳の千葉常胤も海を渡る

範頼軍には、千葉常胤も加わっていた。

常胤は下総国千葉荘を本拠とし、頼朝の挙兵を支えた有力武士である。

元暦2年には数え68歳だった。

『吾妻鏡』正月26日条によれば、常胤は老齢を顧みず、風波を越えて海を渡ったという。

また、加藤景廉は病を患いながら遠征に従ったと記されている。

東国から長い道のりを進んできた武士たちにとって、九州への渡海は新たな難関だった。

甲冑や武器を携え、馬を運び、船の中で兵糧を確保しなければならない。

それでも範頼軍は九州へ向かった。

その先陣を務めたのが、北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河三郎らだった。

原田種直と平家の九州支配

範頼軍を迎え撃った原田種直は、筑前国の有力武士だった。

原田氏は大蔵氏の流れをくむ一族とされ、大宰府の府官として活動しながら各地に所領を広げていた。

大宰府は古代以来、九州の政治や外交を担ってきた役所である。

平安時代後期になると、在地の有力者が大宰府の実務を担い、周辺の土地や武士団に勢力を持つようになっていた。

原田氏もその一族だった。

原田種直は大宰府の大監として知られ、『吾妻鏡』の葦屋浦合戦の記事では「太宰少貳種直」と記されている。

平清盛の時代から平家に従い、九州の武士たちをまとめる立場にあった。

平家は大宰府の府官や九州各地の在地武士を味方につけ、海上交通や荘園の支配を進めていた。

九州には原田氏のほか、豊前国の板井氏や筑前国の山鹿氏、肥前国の松浦党など、平家と関わりの深い武士たちがいた。

種直はその九州支配を支える人物の一人だった。

平家の都落ちにも従った種直

寿永2年(1183年)7月、木曾義仲の進撃によって平家は京都を離れた。

宗盛らは安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ下った。

その後、平家一門は九州へ入り、大宰府周辺で勢力を立て直そうとした。

このとき種直は平家に従い、軍勢を率いて一門を支えたと伝わっている。

しかし、九州の武士たちがすべて平家に従ったわけではなかった。

豊後国の緒方惟栄らは平家に抵抗し、肥後国でも反平家の動きが起こっていた。

平家は九州で安定した拠点を築くことができず、再び瀬戸内海へ退いていく。

種直はその後も平家方の有力武士として活動を続けた。

やがて元暦2年、源範頼の軍勢が九州へ進んでくる。

種直は今度は源氏軍を迎え撃つ立場となった。

二月一日、葦屋浦で両軍が激突

元暦2年2月1日。

『吾妻鏡』は、この日に範頼軍が豊後国へ渡り、葦屋浦で平家方と戦ったと記している。

源氏方の先陣を務めたのは北条小四郎、下河辺庄司、渋谷庄司、品河三郎らだった。

北条小四郎は北条義時。

後に鎌倉幕府の執権となる人物で、このころは頼朝に従う武士として各地の戦いに参加していた。

下河辺庄司は行平、渋谷庄司は重国である。

品河三郎は品川清実とされ、武蔵国品川郷に関わる武士だった。

この先陣が葦屋浦へ進んだところ、平家方の軍勢と遭遇した。

大宰少弐原田種直と、その子の賀摩兵衛尉らだった。

『吾妻鏡』によれば、種直父子は兵を率いて現れ、源氏方に戦いを挑んだという。

両軍の兵数は記されていない。

原田氏がどの場所に陣を構えていたのか、海岸からどのように源氏軍へ迫ったのかもわからない。

ただ、源氏方の先陣が進んだところへ、平家に従う原田氏の軍勢が立ちはだかったことは記録に残されている。

九州へ渡った範頼軍は、ここで平家方との戦闘を迎えた。

種直の子・賀摩兵衛尉

『吾妻鏡』には、種直とともに戦った人物として賀摩兵衛尉の名がある。

種直の子と記されている武士である。

後世の地域史では、賀摩兵衛尉を種益とする記述が見られる。

賀摩は筑前国の嘉摩郡に関係する呼称と考えられる。

嘉摩郡は現在の福岡県飯塚市や嘉麻市などにあたる地域である。

原田氏の一族は筑前国各地に関わり、それぞれの土地で武士団を形成していた。

種直と賀摩兵衛尉の親子も、その一族の軍勢を率いていたと考えられる。

ただし、『吾妻鏡』は賀摩兵衛尉の実名を記していない。

また、種直父子がどのように兵を配置し、それぞれ何人の武士を指揮したのかも不明である。

葦屋浦での両軍の細かな布陣については、記録が残されていない。

戦闘の経過として『吾妻鏡』が伝えるのは、下河辺行平と渋谷重国らの働きである。

下河辺行平と渋谷重国の騎射

原田種直らが戦いを挑むと、源氏方はすぐに応戦した。

『吾妻鏡』には、行平と重国らが駆け回って矢を放ったと記されている。

「行平重國等廻懸射之」

下河辺行平と渋谷重国らが、敵の周囲を動きながら射撃したという内容である。

平安時代末期の武士にとって、弓馬の技量は重要だった。

馬上から弓を射る戦いでは、敵との距離を保ち、移動しながら矢を放つことが求められた。

敵が接近すれば位置を変え、再び矢を射かける。

行平はこうした弓馬に優れた武士として知られている。

渋谷重国も相模国渋谷荘を本拠とする有力武士だった。

渋谷氏は秩父氏の流れをくむ一族で、頼朝のもとで活動していた。

『吾妻鏡』によれば、種直方も攻めかかったが、渋谷重国の射撃によって敗れたという。

源氏方は敵の攻撃を退け、葦屋浦で勝利を収めた。

ただし、双方の軍勢がどのくらいの時間戦ったのかは記されていない。

源氏方の戦死者数も、平家方の損害の全体も明らかでない。

その中で、一人の武士の討取りだけは名前が残されている。

行平に討たれた美気三郎敦種

『吾妻鏡』元暦2年2月1日条には、葦屋浦の戦いで下河辺行平が美気三郎敦種を討ち取ったと記されている。

敦種は原田種直方に加わっていた武士だった。

しかし、その詳しい出自は明らかでない。

後世の系図には原田氏の一族とするものもあるが、人物関係には異同がある。

『吾妻鏡』の記事から確認できるのは、美気三郎敦種が行平に討たれたという事実である。

また、名前を種敦とする後世の解説も見られる。

ここでは『吾妻鏡』の表記に従い、敦種とする。

行平が敦種をどのように討ったのかについても、詳しい記述はない。

弓で射たのか、接近して太刀を使ったのか、組み討ちになったのかはわからない。

『吾妻鏡』は討取りの事実を簡潔に記すだけである。

それでも、この記録には下河辺行平の名前がはっきり残されている。

数日前、自分の甲冑を手放して小船を買い、先陣を望んでいた武士だった。

その行平が葦屋浦では敵の武士を討ち取ったという。

渋谷重国が鎌倉へ送った使者

葦屋浦の戦いから約1か月後、鎌倉へ西国からの飛脚が到着した。

元暦2年3月1日の夜だった。

『吾妻鏡』によれば、人々は西国で何か戦いがあったのではないかと考え、鎌倉の御所へ集まったという。

翌2日、使者の送り主が明らかになった。

渋谷重国だった。

使者は、範頼が正月に周防国から豊後国へ渡った際の戦功を報告した。

その内容は、重国が真っ先に海を渡り、原田種直を討ったというものだった。

ここには一つの問題が残る。

2月1日の合戦記事では、重国らの射撃によって原田方が敗れたと記されている。

そして3月2日条には、重国が種直を討ったという戦功報告がある。

この報告からは、重国が種直の討取りを自らの軍功として鎌倉へ伝えたことがわかる。

しかし、種直本人の最期については、別の伝承も残っている。

原田種直は葦屋浦で死んだのか

原田種直の最期については、史料や伝記資料によって記述が異なる。

一つは、葦屋浦の戦いで討死したという説である。

『吾妻鏡』3月2日条には、渋谷重国が種直を討ったと報告したことが記されている。

また、『日本人名大辞典』にも、元暦2年2月1日に葦屋浦で戦死したとする記述がある。

これに対し、種直は戦いを生き延び、平家滅亡後に降伏したという伝承も残されている。

後に許され、筑前国怡土郡に住んだとする系譜もある。

この説に従えば、種直は葦屋浦で命を落としていないことになる。

当時の戦功報告では、敵を討ち取ったという知らせが鎌倉へ送られることがあった。

葦屋浦でも、渋谷重国から種直の討取りが報告された。

一方、後世の伝承では種直の生存が語られている。

種直の死を確定できるだけの記録はそろっていない。

ただ、原田氏の軍勢が葦屋浦で源氏方に敗れたことは、『吾妻鏡』の合戦記事に明記されている。

原田氏は長く平家を支えた九州の有力武士団だった。

その軍勢が範頼軍に敗れたことは、平家にとって痛手となった。

葦屋浦は現在の芦屋町なのか

葦屋浦の戦いには、もう一つ大きな問題が残っている。

戦場の位置である。

一般には、現在の福岡県遠賀郡芦屋町で行われた合戦とされている。

芦屋町は遠賀川の河口に位置し、北側には響灘が広がっている。

古くから船の往来が盛んな土地で、平安時代末期には山鹿氏などの有力武士が周辺に勢力を持っていた。

この地域には芦屋という地名が現在も残り、源平合戦に関わる伝承も伝えられている。

芦屋町の地域史でも、元暦2年の葦屋浦合戦が取り上げられている。

そのため、遠賀川河口の芦屋を戦場とする見解が広く知られてきた。

しかし、『吾妻鏡』の記述を読むと、移動経路について疑問が生じる。

範頼軍は周防国から豊後国へ渡ったと記されている。

豊後国は現在の大分県を中心とする地域である。

一方、芦屋町は福岡県北部に位置する。

両者の間にはかなりの距離がある。

範頼軍は、どのような道を進んで葦屋浦へ到達したのか。

この問題から、戦場を別の場所に求める研究説も出されている。

豊前国中津周辺とする研究説

2015年刊行の菱沼一憲編著『源範頼』には、金澤正大による葦屋浦合戦を扱った論考が収められている。

金澤は、戦場を豊前国中津周辺に求める説を提示している。

根拠の一つとなるのが、『元暦文治記』に記された範頼軍の動向である。

この史料には、2月2日に範頼が宇佐へ到着したという記事がある。

宇佐は現在の大分県宇佐市周辺にあたる。

もし2月1日に現在の福岡県芦屋町で戦い、翌2日に宇佐へ到着していたとすれば、短期間で長い距離を移動したことになる。

この日程を考慮し、戦場を豊前国の海岸に求める見解が示されたのである。

ただし、『元暦文治記』は後世の写本によって伝えられており、記述の成立事情にも検討の余地がある。

また、中津周辺で当時の葦屋浦にあたる地点を確定することも難しい。

『吾妻鏡』の合戦記事には「葦屋浦」とあるものの、国名は明記されていない。

そのため、筑前国の芦屋とする説にも、豊前国に求める説にも、検討すべき問題が残されている。

範頼の本隊と先陣は同じ道を進んだのか

葦屋浦の位置を考える際には、範頼軍の進軍方法も問題となる。

『吾妻鏡』2月1日条は、北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河三郎らを先陣に立てたと記している。

そして、葦屋浦で戦ったのもこの先陣の武士たちだった。

範頼本人が葦屋浦にいたのか、軍勢の全員が同じ経路を進んでいたのかは明らかでない。

先遣隊が本隊より先に進み、別の経路を取った可能性もある。

また、正月26日に82艘の船を得たとはいえ、多数の武士や従者、馬を一度に渡すことは容易ではなかったはずである。

軍勢が何度かに分かれて渡ったことも考えられる。

仮に先遣隊が別行動を取っていたのであれば、範頼本人の宇佐到着日だけで葦屋浦の位置を決めることは難しくなる。

もっとも、別働隊の進軍路を詳しく記した史料も残されていない。

現在の芦屋町を戦場とする見解には地名と地域の伝承があり、豊前国説には範頼軍の移動日程から考えた理由がある。

葦屋浦がどこにあったのかという問題は、範頼軍の九州侵攻全体を考えるうえでも重要になっている。

遠賀川河口を支配していた山鹿秀遠

葦屋浦を現在の芦屋町と考える場合、もう一人注目すべき武士がいる。

山鹿秀遠である。

秀遠は筑前国遠賀郡の山鹿荘を本拠とした有力武士で、平家に従っていた。

山鹿荘は現在の福岡県芦屋町周辺にあたり、遠賀川河口の海上交通とも関わる土地だった。

山鹿氏はこの地域に広い勢力を持ち、多くの武士を従えていた。

秀遠は弓に優れた武将として知られ、平家の軍事行動にも参加している。

寿永2年(1183年)、平家が九州へ下った際には、秀遠が一門を山鹿に迎え入れ、保護したと伝えられている。

豊後国の緒方惟栄らの抵抗によって大宰府周辺を離れた平家にとって、山鹿は重要な寄港地だった。

秀遠はその後も平家に従い、壇ノ浦まで戦ったと伝わっている。

ただし、『吾妻鏡』の葦屋浦合戦の記事には秀遠の名は登場しない。

種直父子とともに葦屋浦で戦ったことを示す直接の記録も残されていない。

遠賀川河口が平家方の重要な勢力圏だったことと、秀遠が葦屋浦の合戦に参加したかどうかは分けて考える必要がある。

源氏方はなぜ勝利できたのか

『吾妻鏡』が伝える葦屋浦の戦いは、比較的短い記事である。

両軍の布陣や兵力は詳しく記されていない。

そのため、戦場全体の動きを復元することは難しい。

ただし、源氏方の勝利に関わる二つの事実は記録されている。

一つは、豊後の武士たちから船と兵糧を得たことだった。

臼杵惟隆と緒方惟栄らが82艘の兵船を提供したことで、赤間関で足止めされていた範頼軍は九州への渡海を進めることができた。

もう一つは、先陣の行平と重国らが戦闘で力を発揮したことである。

種直方が戦いを挑んだ際、行平と重国らは駆け回って矢を放った。

『吾妻鏡』は、原田方が渋谷重国の射撃を受けて敗れたと記している。

さらに行平は美気三郎敦種を討ち取った。

源氏方の勝利について、史料から具体的にたどれるのはこの部分である。

敵の兵数や地形の利用、包囲の有無などは明らかでない。

軍勢の規模を推測して勝因を説明するよりも、船の調達と先陣の働きを中心に捉えるのが妥当だろう。

勝利後も兵糧不足に苦しむ範頼

葦屋浦で勝利した後も、範頼軍の苦しい遠征は続いた。

『吾妻鏡』元暦2年3月9日条には、範頼が西国から頼朝へ送った報告が記されている。

範頼は平家の拠点へ近づくため豊後国へ渡ったものの、現地の住民が逃げ散ってしまい、兵糧を集められないと訴えていた。

軍勢が村へ近づくと、人々は戦いに巻き込まれることを恐れて逃げた。

そうなると、遠征軍は現地で食料を調達できなくなる。

和田義盛の一族や大多和義成、工藤祐経らの中には、帰還を望む者もいた。

範頼は彼らを引き留め、軍勢と行動をともにさせたという。

また、熊野別当湛増の動向にも不満を抱いていた。

湛増は源義経に協力していた人物だった。

範頼は、四国方面を義経、九州方面を自分が担当しているところへ、湛増まで九州の追討に加われば、自分の面目が損なわれると考えていた。

範頼は平家方との戦闘だけでなく、兵糧の不足や武士たちの帰還希望、ほかの武将との役割分担にも悩まされていた。

葦屋浦での勝利後も、九州遠征は容易には進まなかった。

頼朝が評価した老将と若い武士たち

3月11日、頼朝は範頼に返書を送った。

『吾妻鏡』には、西国遠征に参加した武士たちへの労いが記されている。

頼朝が特に高く評価したのは千葉常胤だった。

常胤は高齢にもかかわらず、長い遠征に耐えて九州へ渡っていた。

頼朝はその功績をたたえ、ほかの武士以上に大切に扱うよう範頼へ命じた。

さらに北条義時、小山朝政、小山宗政、中原親能、葛西清重、加藤景廉、工藤祐経ら12人にも丁重な書状を送っている。

彼らが西国で軍功を挙げたことを評価したのである。

ただし、この12人が全員、葦屋浦で直接戦ったという意味ではない。

頼朝がたたえたのは、九州への渡海や西国遠征全体での働きだった。

一方、葦屋浦での下河辺行平と渋谷重国の戦功は、2月1日条と3月2日条に残されている。

範頼軍では多くの武士が、それぞれの役目を担っていた。

その中で行平は、甲冑を手放して船を買い、先陣を望んだ人物として記録された。

義経が屋島へ向かう

範頼軍が九州で戦っていたころ、源義経は四国の屋島へ向かっていた。

元暦2年2月16日、義経は平家追討のため摂津国から船を出すことになった。

『吾妻鏡』によれば、義経は少数の船で暴風を越え、2月18日の明け方に阿波国へ到着したという。

そして2月19日、讃岐国の屋島へ攻め込んだ。

屋島には宗盛らが安徳天皇を奉じ、平家一門の軍勢を集めていた。

義経軍が陸上から急襲すると、平家方は安徳天皇や一門の人々を船へ移した。

その後、屋島周辺で両軍の戦闘が続く。

この戦いでは、佐藤継信の戦死や那須与一による扇の的の逸話が知られている。

屋島で敗れた平家は、さらに西へ退いた。

一方、範頼軍は九州で軍事行動を続けていた。

四国では義経が平家を追い、九州では範頼が在地の平家方と戦っていたのである。

門司関と彦島を守る平知盛

平家の新中納言知盛は、長門国の彦島を重要な拠点としていた。

『吾妻鏡』2月16日条には、知盛が九州の軍勢を率いて門司関を固め、彦島に陣を構えたと記されている。

門司関は九州と本州を結ぶ交通の要所だった。

平家がこの海峡を押さえていれば、九州の武士たちと協力し、船を利用して軍勢を移動させることができる。

しかし、範頼軍が九州へ進み、平家方の武士たちを破れば、その連携にも影響が及ぶ。

葦屋浦で原田種直らが敗れたことは、九州の平家方にとって打撃となった。

ただし、この合戦だけで彦島の平家軍が孤立したと断定することは難しい。

九州には、なお平家に従う武士たちが残っていた。

範頼軍も兵糧不足に苦しみ、現地の武士たちを味方につけながら戦わなければならなかった。

その間に、屋島から退いた平家の船団は長門方面へ向かった。

源平最後の決戦が近づいていた。

三月二十四日、壇ノ浦の決戦

元暦2年3月24日、源平両軍は長門国の壇ノ浦で激突した。

平家は船団を集め、源氏方の水軍と戦った。

『吾妻鏡』によれば、平家方には山鹿秀遠や松浦党らの軍勢も加わっていた。

筑前国の山鹿氏や肥前国の松浦党は、海上交通に関わる有力な武士たちだった。

平家はその力を利用して源氏軍を迎え撃った。

しかし、戦闘は源氏方の勝利に終わった。

安徳天皇は海へ沈み、平家一門の多くの武将が命を落とした。

知盛、教盛、資盛、有盛、行盛らもこの戦いで最期を迎えたと伝わる。

宗盛や清宗は生け捕られた。

平家の滅亡である。

壇ノ浦の戦いでは義経が源氏方の中心となって戦った。

一方、範頼は九州にいた。

範頼の軍勢は葦屋浦で原田氏の軍勢を破った後も、九州各地で平家方への対応を続けていたのである。

平家滅亡後も九州に残った範頼

壇ノ浦で平家が滅亡しても、範頼の仕事は終わらなかった。

九州には旧平家方の武士たちが残っていた。

その所領をどう扱うのか。

誰に恩賞を与え、どの武士を新たに従わせるのか。

頼朝は九州の支配体制を整える必要があった。

『吾妻鏡』元暦2年4月12日条には、範頼をしばらく九州にとどめ、旧平家方の所領などの処理を進めさせる方針が記されている。

平家が軍事的に滅亡しても、その支配下にあった土地や武士たちが一度に姿を消すわけではなかった。

九州各地で新たな支配関係を整える必要があったのである。

範頼は戦いに勝つだけでなく、現地の武士たちとの関係を築く役目も担っていた。

葦屋浦の戦いで源氏方に敗れた原田氏も、そうした変化の中に置かれた一族だった。

原田氏と山鹿氏が迎えた変化

平家の滅亡は、九州の武士たちにも大きな影響を与えた。

原田種直が属する原田氏は、長年にわたり平家の九州支配を支えてきた。

しかし、平家方として戦ったことから、従来の立場を維持することが難しくなった。

種直本人については葦屋浦での戦死説と、戦後に降伏して生き延びたという伝承が残されている。

一族のその後も、系図や地域史によって伝わる内容に違いがある。

一方、遠賀川流域では山鹿秀遠が平家方として活動していた。

秀遠は壇ノ浦まで平家に従い、戦ったと伝わっている。

平家滅亡後、山鹿氏の所領にも鎌倉方の支配が及んでいくことになる。

九州では旧平家方の所領に新たな地頭が置かれ、東国から進出した武士たちが土地の支配に関わるようになった。

ただし、各地の在地武士たちがすべて没落したわけではなく、従来の勢力を保ちながら鎌倉方へ従う一族もいた。

原田氏や山鹿氏のその後を考えるには、個々の所領や一族の動きを追う必要がある。

芦屋町に伝わる源平合戦の歴史

現在の福岡県遠賀郡芦屋町には、源平合戦に関する歴史が伝えられている。

町は遠賀川の河口に位置し、北側には響灘が広がる。

平安時代末期には山鹿秀遠の本拠が周辺にあり、平家の九州での活動とも深い関わりを持っていた。

芦屋町の歴史民俗資料館では、2022年に源平合戦を題材とする特別展「源平合戦 モノノフの時代」が開かれた。

そこでも葦屋浦の合戦や山鹿秀遠らの活動が取り上げられている。

一方、葦屋浦の正確な戦場については、豊前国中津周辺とする研究説もあり、今も検討が続いている。

『吾妻鏡』は戦場の細かな地形を記していない。

葦屋浦の海岸のどこで種直方が陣を構え、源氏の先陣がどこから攻めたのかまではわからない。

それでも、元暦2年2月1日に源氏方と原田氏の軍勢が葦屋浦で戦ったことは、『吾妻鏡』に残されている。

源平合戦の最後の年、九州でも平家方と源氏方の戦いが続いていたのである。

壇ノ浦の五十日前、九州で戦った武士たち

元暦2年2月1日、葦屋浦で源範頼の軍勢と原田種直父子の軍勢が戦った。

源氏方では北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河三郎らが先陣に立った。

『吾妻鏡』によれば、種直方が攻めかかると、行平と重国らは駆け回って矢を放ち、これを破った。

行平は美気三郎敦種を討ち取ったという。

また、後に渋谷重国から種直を討ったという戦功報告が鎌倉へ送られた。

ただし、種直本人の最期については生存・降伏説もあり、戦場の位置にも異説がある。

戦いの詳しい地形や兵力も明らかでない。

その一方で、範頼軍がどれほど苦しい遠征を続けていたかは、『吾妻鏡』に具体的に記されている。

兵糧は尽き、船も足りなかった。

和田義盛ら有力武士まで帰還を考え、範頼は頼朝へ援助を求めた。

その状況を変えたのが、臼杵惟隆や緒方惟栄らによる82艘の兵船の提供だった。

そして下河辺行平は、甲冑を手放して小船を買い、先陣を望んだ。

行平は葦屋浦で実際に敵の武士を討ち取ったと記録されている。

その18日後、義経軍は屋島を攻撃した。

さらに3月24日、壇ノ浦で平家は滅亡する。

平家最後の年、源氏方の軍勢は四国だけでなく、九州でも戦い続けていた。

葦屋浦で戦った北条義時は、後に鎌倉幕府の執権となる。

渋谷重国も、原田氏の軍勢を破った武士として『吾妻鏡』に名を残した。

そして下河辺行平。

正月26日条には、甲冑を手放して小船を買い、先陣を望んだ行平の言葉が記されている。

2月1日条には、その行平が美気三郎敦種を討ち取ったとある。

船も食料も不足していた範頼軍の中で、自分の鎧を手放してまで先陣を求めた武士。

その行動は、壇ノ浦の決戦を目前にした九州での戦いとともに記録されている。

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吾妻鏡ー鎌倉幕府「正史」の虚実
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絵はがき〈芦屋亀甲繋文真形釜〉筆
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