第31回
第31回
延暦13年(794)、桓武天皇は都を平安京へ移した。
平安京への遷都後も、朝廷の政治は揺れ動いた。
桓武天皇の死後、皇位を継いだ平城天皇は約3年で譲位する。
その後、前天皇である平城上皇と、新たに即位した嵯峨天皇の間で政治的な対立が深まっていった。
弘仁元年(810)。
その対立は、後世に「薬子の変」と呼ばれる政変へ発展する。
嵯峨天皇はこの政変を制し、朝廷内で政治的な主導権を確立した。
そして、その治世には蔵人所や検非違使といった新たな仕組みが整えられ、『弘仁格式』などの法制整備も進んでいく。
政治だけではない。
嵯峨天皇は漢詩や書を好み、空海や橘逸勢とともに後世「三筆」と呼ばれた。
『凌雲集』『文華秀麗集』といった漢詩集も編纂され、唐の影響を強く受けた宮廷文化が栄えた時代でもある。
嵯峨天皇とは、どのような天皇だったのか。
薬子の変を経て、平安朝廷はどのように変化していったのか。
今回は、第52代天皇・嵯峨天皇の生涯を追っていく。
1.桓武天皇の皇子として生まれる
嵯峨天皇は延暦5年(786)に生まれた。
諱は神野。
父は桓武天皇、母は皇后・藤原乙牟漏である。
同じ母から生まれた兄が安殿親王。
後の平城天皇だった。
延暦25年(806)、桓武天皇が崩御すると、安殿親王が平城天皇として即位する。
神野親王は皇太弟となった。
そして大同4年(809)、平城天皇が病気を理由に譲位すると、神野親王が皇位を継ぐ。
第52代・嵯峨天皇の誕生である。
即位時、嵯峨天皇は22歳だった。
2.譲位した平城上皇が平城京へ移る
嵯峨天皇の即位後、兄の平城天皇は上皇となった。
同じ809年の終わり頃、平城上皇は平安京を離れ、旧都・平城京へ移った。
ここから兄弟の関係は政治的な緊張を帯びていく。
平安京には現天皇である嵯峨天皇。
平城京には前天皇である平城上皇。
それぞれの周囲に官人が集まり、政治的な勢力が形成されていった。
平城上皇の近くにいた重要人物が、藤原薬子とその兄・藤原仲成である。
薬子は平城天皇の時代から政治に深く関わり、仲成も上皇側の有力な官人だった。
一方、嵯峨天皇の周囲では藤原冬嗣らが力を伸ばしていく。
やがて両者の対立は、都をどこに置くのかという問題にまで発展する。
3.薬子の変はなぜ起きたのか
「薬子の変」という名前からは、藤原薬子が中心となって起こした事件という印象を受けやすい。
実際の政治過程では、平城上皇自身も積極的に政治へ関与していた。
平城上皇は上皇となった後も政治への影響力を持ち、嵯峨天皇側との対立を深めていく。
その側近として大きな役割を果たしたのが、藤原薬子と藤原仲成だった。
そして弘仁元年(810)9月。
平城上皇は、都を平安京から平城京へ戻す方針を示す。
平安京遷都から、まだ16年。
桓武天皇が築いた新しい都を再び移すという大きな政治判断だった。
平城上皇自身の政治的な意思。
薬子・仲成兄妹を中心とする上皇側の活動。
そして嵯峨天皇側との対立。
これらが重なり、810年の政変へとつながっていった。
4.政変の前に設けられた蔵人所
両者の緊張が続く中、弘仁元年(810)3月、嵯峨天皇のもとで蔵人所が設けられた。
最初の蔵人頭となったのが、藤原冬嗣と巨勢野足である。
蔵人所は、天皇の近くで機密文書を扱い、詔勅の伝達などを担う機関だった。
天皇と太政官の間をつなぎ、天皇の意思を政治へ素早く反映させる役割を持つようになっていく。
平城上皇側との対立が続く状況で、嵯峨天皇に近い側近が重要な情報や命令を直接扱える仕組みが整えられたのである。
蔵人所はその後、平安時代の宮廷政治に欠かせない機関へ成長していく。
そして、最初の蔵人頭の一人だった藤原冬嗣も、嵯峨朝で急速に台頭していった。
5.810年9月――薬子の変
810年9月、平城上皇が平城京への遷都を命じると、朝廷は大きく揺れた。
嵯峨天皇はいったん上皇の命に従う姿勢を見せ、坂上田村麻呂らを造宮使に任命した。
しかし、平城上皇と嵯峨天皇の双方から政治的な命令が出される状況となり、対立は決定的となる。
9月10日、嵯峨天皇は対抗措置に踏み切った。
平城上皇側に近い官人を重要な役職から外し、自らに近い人物を軍事・行政上の要職へ配置する。
さらに伊勢・近江・美濃の国府や交通上の要地を固め、上皇側の動きを封じようとした。
藤原仲成は捕らえられ、その後射殺された。
薬子は官位を奪われる。
これに対して平城上皇は薬子とともに平城京を出発し、東国へ向かおうとした。
しかし、嵯峨天皇側はすでに進路を押さえていた。
上皇は平城京へ戻り、出家する。
薬子は自ら命を絶った。
政変は短期間で決着した。
これが後世に「薬子の変」と呼ばれる事件である。
嵯峨天皇はこの政変を制し、朝廷内での政治的な主導権を確立した。
6.薬子の変は皇位継承にも影響した
薬子の変は、その後の皇位継承にも大きな影響を与えた。
当時の皇太子は、平城上皇の皇子・高岳親王だった。
しかし政変後、高岳親王は皇太子を廃される。
代わって皇太弟となったのが、嵯峨天皇の異母弟・大伴親王である。
後の淳和天皇だった。
そして弘仁14年(823)、嵯峨天皇は大伴親王へ譲位する。
淳和天皇の即位である。
さらに淳和天皇の次には、嵯峨天皇の皇子・正良親王が仁明天皇として即位した。
810年の政変は、平城上皇の政治的な影響力を弱めるとともに、その後の皇位継承の流れを大きく変える出来事となった。
7.藤原冬嗣の台頭と藤原北家
嵯峨天皇の政治を語るうえで欠かせない人物が、藤原冬嗣である。
冬嗣は藤原北家の出身だった。
810年に蔵人頭となり、嵯峨天皇の信頼を得ながら昇進していく。
やがて大納言、右大臣へ進み、淳和天皇の時代には左大臣となった。
冬嗣の娘・順子は、嵯峨天皇の皇子・正良親王に入内した。
正良親王は後の仁明天皇である。
順子は仁明天皇の女御となり、後の文徳天皇となる道康親王を産んだ。
さらに冬嗣の子・藤原良房は、後に臣下として初めて摂政となる。
摂関政治が本格的に展開するのは、さらに後の時代である。
その基盤となる藤原北家の発展を考えるうえで、嵯峨天皇と藤原冬嗣の関係は重要だった。
一方、薬子や仲成が属した藤原式家は、薬子の変を境に政治的な力を大きく失っていく。
810年前後は、藤原氏内部の勢力関係にとっても大きな転換点だった。
8.検非違使――変化する平安京への対応
嵯峨天皇の治世には、朝廷の新しい仕組みも整えられていった。
その一つが検非違使である。
検非違使は主に平安京の犯罪捜査や犯人の追捕を担当し、後には裁判にも関わる強い権限を持つようになった。
現存する史料では弘仁7年(816)からその存在が確認でき、弘仁年間の中頃に成立したと考えられている。
蔵人所と検非違使には共通点がある。
どちらも律令に最初から規定された官職ではなく、後から設けられた「令外官」だった。
奈良時代に整えられた律令制度に新しい役職や機関を加え、現実の政治や社会に対応していったのである。
嵯峨天皇の治世は、律令国家の仕組みが時代に合わせて変化していく時期でもあった。
9.『弘仁格式』――律令を現実に合わせる
制度の見直しは、新しい役所を置くことだけにとどまらなかった。
法令の整理も進められた。
その代表が『弘仁格式』である。
律令制では、「格」が律令を補充・修正する法令、「式」が律令や格を実際に運用するための細則にあたる。
律令が作られてから時間が経つにつれ、その後に出された多くの法令を整理する必要が生じていた。
『弘仁格式』の編纂は桓武天皇の時代に始まった。
その後いったん中断したが、嵯峨天皇の時代に再開され、弘仁11年(820)に格10巻・式40巻が撰進された。
編纂の中心となった人物の一人が藤原冬嗣である。
その後も修訂が続けられ、天長7年(830)に施行された。
さらに承和7年(840)には、820年以降の新しい法令などを盛り込んだ改訂が行われている。
桓武朝から始まった法令整理を、嵯峨朝で大きく前進させた事業だった。
10.『新撰姓氏録』に記された1182氏
嵯峨天皇の治世に完成した重要な史料が、もう一つある。
『新撰姓氏録』である。
弘仁6年(815)、万多親王や藤原園人らによって朝廷へ献上された。
京と畿内に住む1182の氏族について、その出自や系譜を整理した書物である。
氏族は皇別・神別・諸蕃に分類された。
この編纂事業は、桓武天皇時代の延暦18年(799)に諸氏族へ本系帳の提出を命じたことから始まった。
弘仁5年(814)にはいったん完成し、その後さらに内容を補って翌815年に献上された。
嵯峨朝には、桓武天皇の時代から続いていた政策や制度整備を引き継ぎ、形にした事業も多い。
『新撰姓氏録』は現在も、古代の氏族や渡来系氏族を研究するうえで重要な史料となっている。
11.最初の賜姓源氏――嵯峨源氏
弘仁5年(814)、嵯峨天皇は皇子・皇女8人に源朝臣の姓を与え、臣籍へ降下させた。
これが、最初の賜姓源氏とされる嵯峨源氏である。
その後も源姓を与えられる皇子女が増え、男女32人が確認されている。
その中からは、源信、源常、源融など、朝廷で高い官位へ進む人物も現れた。
多数の皇子女すべてを親王・内親王として皇族に残せば、国家による待遇や経済的な負担も大きくなる。
嵯峨天皇は一部の皇子女を臣下とし、官人として朝廷へ組み込んだ。
源姓を与える仕組みは、その後の天皇たちにも受け継がれる。
仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などである。
後世に武士として有名になる清和源氏は、嵯峨源氏とは別の系統になる。
皇子女に源姓を与えて臣籍へ降ろす仕組みが本格化した点でも、嵯峨天皇の時代は重要だった。
12.漢詩を愛した嵯峨天皇
嵯峨天皇には、文化人としての顔もあった。
漢詩文を好み、自らも多くの漢詩を作っている。
弘仁5年(814)には、日本最初の勅撰漢詩集とされる『凌雲集』が成立した。
現存する『凌雲集』には91首が収められている。
そのうち嵯峨天皇の作品は22首。
作者の中で最も多い。
嵯峨天皇は漢詩を保護すると同時に、自らも積極的に創作していたのである。
さらに弘仁9年(818)には、嵯峨天皇の命によって藤原冬嗣らが『文華秀麗集』を編纂した。
こちらにも嵯峨天皇の漢詩が多く収められている。
当時の宮廷では、中国の文学や文化を学ぶことが政治家や知識人にとって重要だった。
嵯峨天皇自身が漢詩文を好んだこともあり、その宮廷では唐風文化が盛んになっていった。
後に「弘仁・貞観文化」と呼ばれる文化へとつながる時代である。
13.嵯峨天皇・空海・橘逸勢――三筆
嵯峨天皇は書の名手としても知られる。
後世、
嵯峨天皇
空海
橘逸勢
の三人は「三筆」と呼ばれるようになった。
嵯峨天皇の書として確実な遺品とされるのが『光定戒牒』である。
弘仁14年(823)、最澄の弟子・光定に与えられた戒牒で、嵯峨天皇の書を現在へ伝える貴重な史料でもある。
このほかにも嵯峨天皇の筆と伝えられる作品が残るが、真筆と確定していないものもある。
嵯峨天皇が書に強い関心を持ち、空海ら当時を代表する文化人と交流していたことは、その文化的な側面を考えるうえで重要である。
政治の中心にいた天皇自身が、漢詩や書の世界でも存在感を示していた。
14.空海に東寺を託す
嵯峨天皇と深い関係を持った宗教者の一人が空海だった。
空海は唐で密教を学び、大同元年(806)に帰国した。
嵯峨天皇は空海の学識や書に関心を示し、両者の交流が続いていく。
そして弘仁14年(823)1月19日。
嵯峨天皇は、平安京の官寺だった東寺を空海に託した。
空海は東寺を真言密教の根本道場として整えていく。
現在まで続く東寺と空海の深い結びつきは、ここから始まった。
嵯峨天皇の治世は、政治制度だけでなく、平安時代の宗教や文化にも大きな変化が生まれた時代だった。
15.823年、淳和天皇へ譲位
弘仁14年(823)。
嵯峨天皇は皇位を大伴親王へ譲った。
大伴親王は淳和天皇として即位する。
嵯峨天皇は上皇となった。
その後も朝廷で大きな権威を持ち続け、淳和天皇、さらに自らの皇子である仁明天皇の時代まで生きた。
皇位は、
嵯峨天皇
↓
弟の淳和天皇
↓
嵯峨天皇の皇子・仁明天皇
という形で継承された。
この皇位継承の関係は、後の朝廷政治にも大きな影響を与えることになる。
16.嵯峨上皇の死と承和の変
承和9年(842)7月15日。
嵯峨上皇は57歳(数え年)で崩御した。
そして、その直後に朝廷を揺るがす事件が起こる。
承和の変である。
当時の天皇は、嵯峨天皇の皇子・仁明天皇。
皇太子は、淳和天皇の皇子・恒貞親王だった。
ところが承和の変によって恒貞親王は皇太子を廃され、伴健岑や橘逸勢らが処罰された。
その後、仁明天皇の皇子・道康親王が皇太子となる。
後の文徳天皇である。
嵯峨上皇の死後すぐに皇位継承をめぐる政治状況が大きく変化したことは、嵯峨上皇が生前に持っていた政治的な重みを考えるうえでも重要である。
そして藤原冬嗣の子・藤原良房は、この後さらに政治的な力を伸ばしていく。
嵯峨天皇の時代に始まった変化は、その死後の朝廷にもつながっていった。
まとめ――嵯峨天皇は何をした天皇なのか
嵯峨天皇は延暦5年(786)、桓武天皇の皇子として生まれた。
兄は平城天皇。
大同4年(809)、兄から皇位を譲られ、第52代天皇となった。
その治世の始まりは、平城上皇との政治的な対立に揺れた。
平城上皇は旧都・平城京へ移り、藤原薬子や藤原仲成らがその周囲で大きな役割を担う。
両者の対立は深まり、弘仁元年(810)、薬子の変へ発展した。
平城上皇が平城京への遷都を命じると、嵯峨天皇はいったん対応する姿勢を見せた。
しかし朝廷から二つの政治的な命令が出される状況となり、9月10日、嵯峨天皇は対抗措置に踏み切る。
伊勢・近江・美濃などの要地を固め、平城上皇側の動きを封じた。
藤原仲成は処刑され、薬子は自ら命を絶ち、平城上皇は出家する。
この政変を経て、嵯峨天皇は朝廷内で政治的な主導権を確立した。
嵯峨天皇の時代には、政治の仕組みにも大きな変化が起きている。
810年には蔵人所が設けられ、藤原冬嗣が最初の蔵人頭の一人として台頭した。
弘仁年間には検非違使が現れ、平安京の犯罪捜査や犯人の追捕などを担うようになる。
820年には『弘仁格式』が撰進され、律令国家の法令整理が進められた。
815年には『新撰姓氏録』が完成する。
814年には皇子女の一部へ源姓を与え、最初の賜姓源氏とされる嵯峨源氏が生まれた。
文化面でも嵯峨天皇は大きな存在だった。
『凌雲集』には嵯峨天皇の漢詩が22首残り、現存本では作者の中で最も多い。
『文華秀麗集』の編纂も命じた。
書では空海・橘逸勢とともに、後世「三筆」と呼ばれる。
823年には空海へ東寺を託し、東寺が真言密教の根本道場として発展していく出発点を作った。
同じ823年。
嵯峨天皇は弟の大伴親王へ皇位を譲った。
大伴親王は淳和天皇となり、その後は嵯峨天皇の皇子・仁明天皇へ皇位が継承される。
嵯峨天皇の治世を見ると、平安時代初期の朝廷がどのように変化していったのかが見えてくる。
桓武天皇が平安京へ都を移した。
その新しい都で生じた政治的な対立を制し、現実に合わせて政治機構や法制度を整え、宮廷文化を発展させていった。
それが嵯峨天皇である。
薬子の変を制した天皇。
蔵人所や検非違使が整えられた時代の天皇。
藤原冬嗣を重用し、後の藤原北家発展につながる政治環境を作った天皇。
そして漢詩と書を愛し、空海らとともに唐風文化が栄えた宮廷の中心にいた天皇。
嵯峨天皇を知ることは、平安京遷都後の日本で、政治と文化がどのように形を変えていったのかを知ることでもある。
嵯峨天皇の時代をもっと深く知りたい方へ。
薬子の変から藤原北家の台頭、そして後の清和天皇へ――平安時代の天皇たちをたどると、この時代の流れがさらに見えてきます。
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