【戦い・事件編】古人大兄皇子――乙巳の変後、なぜ中大兄皇子に討たれたのか

戦い・事件

第8回

645年6月12日。

飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。

乙巳の変である。

入鹿の死を目の当たりにした一人の皇子が、自らの宮へ走って戻った。

舒明天皇の皇子・古人大兄皇子である。

『日本書紀』は、この時の古人大兄皇子の言葉を記している。

「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」

鞍作臣とは蘇我入鹿のことだった。

『日本書紀』は、この「韓人」について、三韓からの上表文を読み上げる儀式に乗じて入鹿が殺されたことを指すと注記している。

古人大兄皇子は「胸が痛む」と語り、そのまま寝所へ入り、門を閉ざして外へ出なかった。

それから約3か月後。

『日本書紀』は、古人大兄皇子が謀反を企てたと記す。

中大兄皇子は兵を送り、古人大兄皇子を討たせた。

さらに『日本書紀』が引用する別伝の一つでは、11月30日、古人大兄皇子は子とともに斬られ、妃妾も自害したという。

乙巳の変から、わずか5か月余り。

舒明天皇の皇子は、なぜこの年のうちに命を失うことになったのか。

舒明天皇と蘇我馬子の孫

古人大兄皇子は、舒明天皇の皇子として生まれた。

母は法提郎媛。

蘇我馬子の娘である。

『日本書紀』舒明紀は、馬子の娘・法提郎媛が古人皇子を生んだと明記している。

父方から天皇家、母方から蘇我氏の血を引く皇子だった。

一方、舒明天皇と宝皇女との間には、葛城皇子、間人皇女、大海人皇子が生まれている。

葛城皇子が、後の中大兄皇子である。

古人大兄皇子と中大兄皇子は、ともに舒明天皇を父に持つ異母兄弟だった。

641年――舒明天皇崩御

641年、舒明天皇が崩御した。

翌642年に即位したのは、古人大兄皇子でも中大兄皇子でもなかった。

舒明天皇の皇后だった宝皇女である。

第35代・皇極天皇だった。

皇極朝では、蘇我蝦夷とその子・蘇我入鹿が強い政治力を持つ。

『日本書紀』は642年、入鹿について自ら国政を執り、その威勢は父・蝦夷を上回ったと記している。

そして翌643年。

古人大兄皇子の名が、皇位をめぐる動きの中にはっきり現れる。

643年――入鹿は古人大兄皇子を天皇に立てようとした

皇極2年、643年。

蘇我入鹿は斑鳩の山背大兄王を攻撃した。

山背大兄王は厩戸皇子、いわゆる聖徳太子の子である。

『日本書紀』は、この時の入鹿の目的について明確に記している。

上宮王家を滅ぼし、古人大兄皇子を天皇に立てようとしたという。

古人大兄皇子は、蘇我入鹿が皇位につけようとしていた皇子だった。

山背大兄王は一度、生駒山へ逃れた。

入鹿が自ら捜索へ向かおうとした時、古人大兄皇子が現れる。

そして、

「鼠は穴に伏してこそ生きる。穴を失えば死ぬ」

という趣旨の言葉を入鹿へ語った。

入鹿はこの言葉を受け、自ら山へ入るのをやめた。

ただし、『日本書紀』が山背大兄王排除を企てた主体として記すのは蘇我入鹿である。

古人大兄皇子自身が山背大兄王を滅ぼす計画を立てたとは記されていない。

その後、山背大兄王は斑鳩寺へ戻り、一族とともに命を絶った。

こうして643年、古人大兄皇子は蘇我入鹿が次の天皇に立てようとした人物として史料に現れる。

645年6月12日――蘇我入鹿が殺される

その2年後。

皇極4年6月12日。

飛鳥板蓋宮で、三韓からの上表文を読み上げる儀式が行われた。

中大兄皇子と中臣鎌足らは、この場で蘇我入鹿を殺害する計画を進めていた。

中大兄皇子は長槍を持ち、中臣鎌足は弓矢を手にする。

蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始める。

佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿へ斬りかかり、中大兄皇子も自ら攻撃に加わった。

傷を負った入鹿は皇極天皇の御座へ進み、自分に何の罪があるのか審理してほしいと訴えた。

皇極天皇が中大兄皇子に理由を尋ねる。

中大兄皇子は、入鹿が皇族を滅ぼし、皇位を傾けようとしていると答えた。

皇極天皇が殿中へ退くと、入鹿は殺された。

この場には古人大兄皇子もいた。

入鹿が殺されると、古人大兄皇子は自らの宮へ走って戻った。

そして、

「韓人が鞍作臣を殺した。胸が痛む」

という趣旨の言葉を残した。

そのまま寝所へ入り、門を閉ざした。

翌6月13日。

蘇我蝦夷は甘樫丘の邸宅に火を放ち、自害した。

蘇我馬子から蝦夷、入鹿へ続いた本宗家の政治的な権勢は崩れた。

6月14日――皇位を辞退する

乙巳の変から2日後。

6月14日、皇極天皇は退位を決めた。

皇位を譲ろうとした相手は中大兄皇子だった。

中大兄皇子は中臣鎌足へ相談する。

鎌足は、古人大兄皇子が中大兄皇子より年長であり、軽皇子は叔父にあたることを指摘した。

兄や叔父を差し置いて中大兄皇子が先に即位することを避け、軽皇子を立てるよう勧めた。

中大兄皇子はこれを受け入れた。

皇極天皇から皇位を譲られた軽皇子は、さらに古人大兄皇子へ皇位を譲ろうとした。

ここで古人大兄皇子自身が辞退する。

古人大兄皇子は皇極天皇の前へ進み、自分は出家して吉野へ入り、仏道を修めながら天皇を助けたいという趣旨の言葉を述べた。

そして腰に帯びていた大刀を解き、地面へ投げ出した。

法興寺の仏殿と塔の間へ入り、髭と髪を剃り落として袈裟を身につけた。

皇位を辞退する意思を、出家という形で示したのである。

古人大兄皇子が退いた後、軽皇子が第36代・孝徳天皇として即位した。

中大兄皇子は皇太子となる。

古人大兄皇子は吉野へ入った。

吉野へ退いた古人大兄皇子

古人大兄皇子が皇位を辞退し、吉野へ入ったのは乙巳の変直後だった。

その時点で『日本書紀』は、古人大兄皇子が反乱を企てていたとは記していない。

史料上では、皇位を辞退し、出家して吉野へ入った皇子として一度政治の表舞台から退いている。

ところが同じ645年9月。

古人大兄皇子の名は再び現れる。

今度は「謀反」の記事だった。

9月3日――『日本書紀』が謀反を記す

大化元年9月3日。

『日本書紀』は、古人大兄皇子らが謀反したと記す。

名前が挙げられているのは、

古人大兄皇子
蘇我田口川堀
物部朴井椎子
吉備笠垂
倭漢文麻呂
朴市秦田来津

らである。

古人大兄皇子が吉野へ入ってから、約3か月。

『日本書紀』本文では、この計画を明確に「謀反」として扱っている。

ただし、この段階の記事では計画の内容までは詳しく記されていない。

9月12日――吉備笠垂が自首する

9月12日。

謀反に加わっていた吉備笠垂が、中大兄皇子のもとへ自首した。

笠垂は、古人大兄皇子と蘇我田口川堀らが謀反を企て、自分もその仲間だったという趣旨の告白をした。

『日本書紀』には、笠垂が阿倍大臣と蘇我大臣のもとへ自首したとする別伝も併記されている。

報告を受けた中大兄皇子は兵を動かした。

菟田朴室古と高麗宮知に兵を率いさせ、古人大兄皇子らを討たせる。

6月14日に皇位を辞退して吉野へ入った古人大兄皇子は、9月には朝廷から討伐される側となった。

古人大兄皇子は何を企てていたのか

『日本書紀』本文は、古人大兄皇子らの行動を「謀反」と記している。

吉備笠垂も、自分がその仲間に加わっていたと自首した。

一方で、計画の具体的な内容は記されていない。

いつ挙兵する予定だったのか。

どの程度の兵力を集めていたのか。

古人大兄皇子自身がどこまで計画を主導したのか。

どのような形で中大兄皇子や孝徳天皇を排除しようとしていたのか。

そこまでは『日本書紀』本文から確認できない。

出家して吉野へ入った6月の時点から、すでに反乱を企てていたと示す記事もない。

史料から追えるのは、6月14日に皇位を辞退して出家し、吉野へ入り、9月3日に謀反の記事が現れ、9月12日に吉備笠垂が自首したという流れである。

古人大兄皇子の最期――本文は詳しく語らない

中大兄皇子が討伐軍を派遣した後、古人大兄皇子がどのように命を失ったのか。

『日本書紀』本文は、その最期を詳しく記していない。

具体的な死の状況を伝えているのは、『日本書紀』が引用する「或本」である。

その一つには、11月30日、中大兄皇子が阿倍渠曾倍臣と佐伯部子麻呂を遣わし、古人大兄皇子を攻撃させたとある。

率いた兵は30人。

古人大兄皇子は、その子とともに斬られた。

さらに妃や側室たちは首をくくって自害したという。

別の「或本」では、

「11月、吉野大兄王が謀反を企て、事件が発覚して処刑された」

と記される。

11月30日の斬殺という日付と、その子・妃妾の最期は、『日本書紀』本文ではなく、この別伝によって伝わる。

643年には皇位候補、645年には討伐対象へ

古人大兄皇子の姿が大きく浮かび上がるのは、643年から645年にかけてである。

643年。

蘇我入鹿は山背大兄王を滅ぼし、古人大兄皇子を天皇に立てようとした。

645年6月12日。

その入鹿が中大兄皇子らによって殺された。

古人大兄皇子は自らの宮へ戻り、「胸が痛む」と語った。

6月14日。

皇極天皇が退位すると、古人大兄皇子にも皇位が回ろうとした。

しかし古人大兄皇子は大刀を投げ出し、髪を剃り、出家して吉野へ入った。

9月3日。

『日本書紀』は、古人大兄皇子らの謀反を記す。

9月12日。

吉備笠垂が自首し、中大兄皇子は討伐軍を送った。

そして『日本書紀』の別伝によれば、11月30日、古人大兄皇子は子とともに斬られ、妃妾も自害した。

643年には蘇我入鹿が天皇に立てようとした皇子。

645年6月には、自ら皇位を辞退して吉野へ退いた皇子。

その古人大兄皇子は、同じ年の秋には「謀反」の名のもとに討伐された。

『日本書紀』は、その計画の全貌も、古人大兄皇子の胸中も記していない。

残されているのは、皇位をめぐる争いの中で古人大兄皇子が急速に立場を変え、乙巳の変が起きた645年のうちに姿を消したという記録である。

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