第154回
寿永2年(1183年)7月、京都。
平資盛は、長く親しくしてきた女性と人目を忍んで会っていた。
相手は建礼門院右京大夫。
平清盛の娘・徳子に仕え、和歌や音楽に親しんだ宮廷の女房だった。
資盛は平重盛の次男。清盛の孫であり、この年7月には従三位に昇っていた。
しかし、木曾義仲の軍勢が京都へ迫り、平氏一門は都を離れようとしていた。
『建礼門院右京大夫集』には、このころ資盛が右京大夫へ語った言葉が残されている。
「かかる世の騒ぎになりぬれば、はかなき数にならんことは、疑ひなきことなり」
これほど世が乱れた以上、自分もやがて死者の数に加わるだろう。
資盛はそう語ったという。
そして、もし自分が死んだなら、後世の供養をしてほしいと頼んだ。
「道の光も必ず思ひやれ」
死後の道を照らすよう、祈ってほしい。
さらに資盛は、西国へ向かった後のことも告げた。
「いづくの浦よりもせじ」
どの浦からも手紙は出すまい。
かつての暮らしや親しい人々を思い出せば、名残惜しさが募る。何もかも捨てたつもりで生きなければ、戦乱の中で心が揺らいでしまう。
便りを出さなかったとしても、心が離れたからだと思わないでほしい。
資盛はそう言い添えたという。
右京大夫は、涙ばかりがこぼれ、返す言葉もなかったと記している。
やがて平氏一門は京都を去った。
資盛も安徳天皇を奉じる一門に従い、西国へ向かった。
しかし翌年、右京大夫から手紙が届くと、資盛は返事を書いた。
そこには、生きていることさえ苦しいと訴える一首の歌があった。
それが、右京大夫のもとに届いた最後の返歌となる。
元暦2年(1185年)3月24日。
資盛は壇ノ浦で命を落とした。
右京大夫はその知らせを聞き、かつて資盛から受け取った手紙を集めた。
そして、その紙に経文を書き、亡くなった資盛の菩提を弔ったという。
都落ちの前に交わした約束を、右京大夫は忘れていなかった。
平重盛の次男――清盛の孫として生まれる
平資盛は、平重盛の次男として生まれた。
祖父は平清盛。
父の重盛は清盛の長男で、保元の乱、平治の乱に従い、朝廷では内大臣まで昇った人物だった。
資盛の生年には異説がある。
保元3年(1158年)ごろとする資料がある一方、『公卿補任』の年齢から応保元年(1161年)生まれとする説もある。
母は下総守・藤原親盛の娘。二条院に仕えた内侍と伝わる女性だった。
兄の維盛とは母が異なっていた。
弟には清経、有盛、師盛、忠房らがいる。
重盛は清盛の後継者と目され、独自の家人や所領を持っていた。
その嫡男が維盛であり、次男が資盛だった。
維盛は宮廷で青海波を舞い、その美貌を光源氏になぞらえられたことで知られる。
資盛も幼いころから朝廷へ出仕した。
仁安元年(1166年)11月21日、従五位下に叙される。
同年12月30日には越前守に任じられた。
越前国は重盛家と深い関係を持つ知行国だった。
資盛が幼くして国司に任じられた背景には、父の重盛と祖父の清盛の政治的な地位があった。
嘉応元年(1169年)には従五位上へ進む。
清盛の一門では、子や孫たちが早くから官位を与えられていた。
その資盛が、摂政の行列と衝突する事件を起こす。
嘉応2年(1170年)の殿下乗合事件である。
嘉応2年7月3日――摂政の行列と遭遇する
嘉応2年7月3日。
資盛の乗る牛車が、京都の道で摂政・藤原基房の行列と出会った。
基房は松殿基房とも呼ばれる摂関家の有力者で、当時の朝廷では特に高い地位にあった。
九条兼実の日記『玉葉』には、この日の出来事が記されている。
摂政の行列と出会えば、身分の低い者は車を降り、道を譲る必要があった。
ところが資盛の一行は、その礼を十分に尽くさなかったという。
基房の従者たちは無礼をとがめ、資盛の乗っていた車を壊した。
資盛の一行は、大きな恥辱を受けたのである。
平清盛の孫であっても、摂政の行列に対する礼を欠けば責められる。
宮廷には官位や身分に応じた秩序があり、摂政はその頂点に近い立場だった。
一方、清盛はすでに太政大臣まで昇り、平氏一門は朝廷で大きな勢力を持っていた。
資盛の一行が受けた辱めは、平氏と摂関家の対立に発展する。
『平家物語』巻第一「殿下乗合」にも、この事件が描かれている。
物語では、資盛が鷹狩りの帰りに基房の行列と出会い、従者たちから辱めを受けたという。
事件の時期や状況には『玉葉』との違いがある。
そして、さらに大きく異なるのが報復を命じた人物だった。
殿下乗合事件――清盛と重盛、報復したのは誰か
『平家物語』によれば、孫の資盛が辱めを受けたことを知った清盛は激怒した。
たとえ摂政であっても、自分の孫を辱めることは許さない。
清盛は報復を命じようとしたという。
しかし、父の重盛は清盛を諫めたと描かれる。
摂政の行列に対して礼を欠いたのは資盛の方である。
平氏の権勢を頼んで無礼を働いたのなら、叱られても仕方がない。
重盛はそう述べ、報復を思いとどまるよう求めたと物語は語る。
ところが清盛は重盛に隠れて武士たちを集め、基房の行列を襲わせたという。
一方、同時代の『玉葉』に残る経緯は異なる。
報復に動いたのは、資盛の父・重盛だった。
事件後、基房は自分の従者たちを処分し、事態を収めようとした。
車を壊した者たちの身柄を差し出し、随身らも処罰している。
しかし重盛は納得しなかった。
7月15日には、基房が外出する機会を狙って報復しようとする動きがあった。
基房は外出を取りやめ、難を避けたという。
その後、しばらく大きな事件は起こらなかった。
ところが10月21日、基房の行列が武士たちに襲われた。
この日、基房は高倉天皇の元服に関する評定へ向かっていた。
武士たちは基房の従者を馬から引き落とし、髻を切るなどの辱めを加えたという。
基房は参内を取りやめた。
そのため、予定されていた朝廷の評定も延期となった。
『玉葉』では、報復の主体を重盛とする。
『平家物語』では重盛が清廉な人物として描かれ、報復の責任は清盛へ移されている。
父と祖父の立場が、二つの史料で入れ替わっているのである。
資盛自身が報復を命じたという確かな記録は残されていない。
まだ少年だった資盛が摂政の行列と衝突したことをきっかけに、平氏の武士たちが報復へ動き、朝廷の政務まで妨げられた。
殿下乗合事件は、平氏一門の権勢と宮廷の秩序が衝突した出来事として記録された。
侍従から近衛少将へ――宮廷での昇進
事件の後も、資盛は官位を重ねた。
承安4年(1174年)12月4日、侍従を兼任する。
侍従は天皇の近くに仕え、宮廷の儀礼や行事にも関わる役職だった。
翌安元元年(1175年)には正五位下へ進む。
このころ清盛の娘・徳子は高倉天皇の中宮となり、平氏一門の公達たちも次々に宮中の役職を得ていた。
資盛もその一人だった。
治承2年(1178年)には、箏を演奏した記録が残る。
正月4日、高倉天皇の朝覲行幸で箏を弾いた。
さらに同年11月、徳子が言仁親王を産んだ後の祝いの場でも演奏している。
言仁親王は、のちの安徳天皇である。
このときの様子は『玉葉』にも記されている。
本来は別の公卿たちが楽器を演奏するはずだったが、あらかじめ資盛が箏を弾くことになっていたという。
九条兼実は、その取り決めに批判的な言葉を残した。
それでも、資盛が宮廷の音楽に携わり、演奏を任される人物だったことがわかる。
同年12月24日には右近衛権少将となった。
翌治承3年(1179年)には従四位下、治承4年(1180年)には従四位上へ進む。
資盛は重盛の子として宮廷へ出仕し、箏を弾き、和歌を詠む生活を送っていた。
しかし、そのころ一門を揺るがす出来事が起こる。
父の重盛が亡くなったのである。
治承3年――父・重盛の死と平氏一門の変化
治承3年(1179年)7月29日。
平重盛が亡くなった。
享年42歳。
重盛は清盛の長男であり、内大臣まで昇った人物だった。
後白河法皇との関係も深く、一門の中で清盛に次ぐ立場を占めていた。
その死によって、重盛家を取り巻く状況は変わった。
嫡男の維盛が父の家を継ぐ立場となり、資盛も引き続き朝廷で官位を重ねていく。
しかし、平氏一門全体の政治的な中心となったのは、重盛の弟・平宗盛だった。
宗盛は清盛の正室・平時子の子であり、高倉天皇の中宮・徳子の兄でもある。
官位も維盛や資盛より高かった。
同年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉した。
治承三年の政変である。
清盛は朝廷の人事を改め、一門の支配を強めた。
しかし翌治承4年(1180年)、各地で反平氏の挙兵が始まる。
5月には以仁王と源頼政が兵を挙げ、8月には源頼朝が伊豆で挙兵した。
兄の維盛は東国追討軍の大将となったが、富士川で軍勢が崩れ、西へ引き返した。
さらに治承5年(1181年)閏2月、祖父の清盛が死去する。
重盛と清盛を相次いで失い、平氏一門は宗盛のもとで戦いを続けることになった。
そのころ資盛には、宮廷で長く親しく交わっていた女性がいた。
建礼門院右京大夫である。
建礼門院右京大夫――資盛が親しく交わった女性
建礼門院右京大夫は、藤原伊行の娘だった。
伊行は世尊寺流の書家として知られ、書道や古典に通じた人物である。
母は箏の名手・夕霧。
右京大夫は書と音楽に親しむ家に育ち、和歌にも優れていた。
承安2年(1172年)、清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮となる。
右京大夫も徳子のもとへ出仕した。
中宮の宮廷には、多くの平氏の公達や公卿たちが出入りしていた。
右京大夫は徳子の兄弟や甥たちと顔を合わせ、歌を贈り合うようになる。
その中に平資盛がいた。
二人がいつから恋人として親しくなったのか、正確な時期はわからない。
しかし『建礼門院右京大夫集』には、資盛との交流が数多く記されている。
宮廷の行事で顔を合わせ、私的な手紙を交わすこともあった。
ただ、右京大夫は資盛だけと恋愛関係にあったわけではなかった。
歌人であり、似絵の名手でもあった藤原隆信との関係も、彼女の歌集に残されている。
また資盛には、持明院基家の娘を妻としたという系譜上の記録がある。
右京大夫と資盛の交際は、宮廷の人間関係や周囲の目にも左右されていた。
それでも二人の関係は続き、やがて平氏の都落ちを迎えることになる。
桜の枝と返歌――花見の日の資盛
『建礼門院右京大夫集』には、平氏の公達たちが花見をしたときの出来事も記されている。
近衛基通が藤原隆房、平重衡、平維盛、平資盛らを伴い、花を見に出かけた。
資盛もその一行に加わっていた。
翌日、見事な桜の枝が中宮方へ届けられる。
右京大夫は徳子の意向を受け、一首の歌を詠んだ。
「さそはれぬうさもわすれてひと枝の花にぞめづるくものうへ人」
花見に誘われなかった恨めしさも忘れ、宮中の人々は届けられた花を眺めている。
その歌に、藤原隆房と平資盛がそれぞれ返歌を寄せた。
資盛は次のように詠んでいる。
「もろともにたづねてもみよ一枝の花にこゝろのげにもうつらば」
一枝の花に本当に心を引かれたのなら、今度は一緒に花を訪ねてみてほしい。
資盛はそう誘った。
花見に集まる平氏の公達たち。
中宮方へ届けられた桜の枝。
その花をめぐって交わされた歌。
右京大夫が後年まとめた歌集には、戦乱が激しくなる前の宮廷生活も残されている。
資盛は箏を弾き、和歌を詠み、宮中の女房たちと歌を交わす青年だった。
やがて右京大夫が資盛を思い出して詠む歌は、失われた日々を悼むものへと変わっていく。
恋人同士の行き違い――資盛と右京大夫の歌
右京大夫と資盛の関係は、穏やかな場面ばかりが続いたわけでもなかった。
『建礼門院右京大夫集』には、相手の言葉に傷つき、会えない時間を嘆く歌も残る。
人目を避けて会おうとしても、思うように会えない。
資盛がほかの女性と親しくしているのではないかと疑うこともあった。
右京大夫は、相手を忘れようとしても忘れられず、思い悩んだことを記している。
資盛の方も右京大夫の態度に不満を抱き、行き違いが生じることがあったという。
二人の関係には、それぞれの宮仕えや周囲の人間関係も関わっていた。
資盛は重盛の次男として昇進を続け、将来を期待されていた。
一方、右京大夫は徳子の宮廷を離れた後も、知人たちと和歌を交わしていた。
恋人として親しくなってからも、自由に会えるとは限らなかった。
そうした日々を、右京大夫は後年になって歌と詞書にまとめている。
資盛との喜びも苦しみも、彼女の記憶に残っていた。
そして平氏の都落ちが近づくころ、二人が顔を合わせる機会はさらに少なくなった。
蔵人頭となった資盛――都落ち直前の昇進
治承4年(1180年)以降、各地で反平氏の挙兵が続いていた。
平氏は東国や北陸へ追討軍を送り、畿内でも寺社勢力への対応に追われている。
資盛はその間も朝廷での昇進を続けた。
養和元年(1181年)には正四位下へ進み、10月29日には右近衛権中将となる。
近衛府は天皇の警護や宮中の儀礼を担う組織であり、中将はその高い官職だった。
寿永2年(1183年)1月22日。
資盛は蔵人頭に任じられる。
蔵人頭は天皇の側近として重要な文書や命令を扱い、日々の政務を支える役職である。
資盛は宮廷の機密に関わる仕事を担うようになった。
しかし、同じ年の春、北陸で平氏軍が大敗する。
木曾義仲が京都へ迫り、都では平氏の支配が揺らぎ始めていた。
そのなかで資盛は7月3日、従三位へ昇進した。
この昇進によって蔵人頭を離れ、公卿の列に加わった。
右近衛権中将の職は引き続き務めている。
「小松新三位中将」と呼ばれるようになったのは、このためだった。
父の重盛は内大臣まで昇り、兄の維盛も三位中将となっていた。
資盛も三位に達した。
しかし、そのわずか二十二日後、平氏一門は京都を離れることになる。
「はかなき数にならん」――都落ちを前に語った死の予感
寿永2年7月。
木曾義仲の軍勢が京都へ迫っていた。
平氏の追討軍は倶利伽羅峠で大敗し、続く篠原でも敗れている。
都では、一門が西国へ向かうという噂が広がっていた。
資盛が蔵人頭を務めていたころ、右京大夫とは会いにくくなっていた。
周囲には、資盛との交際をやめるよう忠告する者もいたという。
二人は以前にも増して人目を避け、ようやく会えたときに言葉を交わしていた。
そんな折、資盛は自分の死について繰り返し語るようになった。
「かかる世の騒ぎになりぬれば、はかなき数にならんことは、疑ひなきことなり」
これほど世が乱れれば、自分もやがて死ぬことになるだろう。
資盛はそう語った。
そして右京大夫へ、もし亡くなったら、後世の供養をしてほしいと願ったという。
「道の光も必ず思ひやれ」
たとえ何とも思っていなかったとしても、長い間親しく言葉を交わしてきた情けとして、死後のことを祈ってほしい。
資盛はさらに、命がしばらく続いたとしても、昔の自分とは違う人間になったつもりで生きると告げた。
懐かしい人々を思えば、名残惜しさは尽きない。
そうなれば、どれほど心を強く持とうとしても、耐えられなくなるかもしれない。
だから何もかも思い捨てる。
資盛はそう決めたという。
そして、今後は便りを送らないと告げた。
「いづくの浦よりもせじ」
西国へ下った後、どの浦からも手紙は出すまい。
たとえ手紙が来なくても、右京大夫を軽く思っているからだと受け取らないでほしい。
そう言い添えた。
右京大夫は返す言葉もなく、ただ涙を流したと記している。
それから間もなく、平氏の都落ちが始まった。
寿永2年7月25日――平氏一門の都落ち
寿永2年7月24日夜から25日未明。
後白河法皇は京都を抜け出し、比叡山へ移った。
宗盛は都を守ることを断念する。
7月25日、安徳天皇と三種の神器を伴い、平氏一門は西国へ向かった。
資盛も兄の維盛や弟の有盛らとともに京都を離れた。
『平家物語』巻第七「維盛都落」には、兄の維盛が妻子との別れを惜しむ場面に、資盛らが登場する。
維盛の息子・六代と幼い娘は、父の鎧にしがみつき、離れようとしなかった。
そこへ資盛ら弟たちがやって来て、早く出発するよう促したという。
安徳天皇の行列は、すでに遠くまで進んでいた。
維盛は妻子を京都に残した。
一方、資盛が右京大夫へ告げた言葉は、彼女自身の歌集に残されている。
右京大夫は後に、平氏一門が都を去ったと聞いたときの気持ちを「夢のうちの夢」と表現した。
知らせを聞いても、現実のこととは思えなかったという。
周囲の人々も平氏の都落ちを悲しんでいた。
しかし、資盛との関係を知り、その別れの苦しさを理解してくれる相手は少なかった。
右京大夫は一人で思い悩み、仏に祈り続けたと記している。
資盛は西国へ向かった。
どの浦からも便りを出さないと告げたとおり、二人の往来はいったん途絶える。
しかし、資盛の消息がまったく伝わらなくなったわけではなかった。
西国へ退いた平氏――兄弟に相次ぐ悲報
京都を離れた平氏は、福原を経て九州へ向かった。
しかし豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、大宰府周辺で安定した拠点を築くことは難しかった。
一門は瀬戸内海へ戻り、讃岐国屋島を中心に軍勢を整えた。
寿永2年閏10月、平氏は備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破る。
続く11月には播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利した。
平氏は西国で勢力を立て直し、翌寿永3年(1184年)正月には福原周辺まで進出する。
資盛も一門とともに行動していたが、水島や室山でどのような役割を担ったのか、詳しい記録は残っていない。
2月7日。
源範頼・義経の軍勢が福原周辺の平氏軍を攻撃した。
一ノ谷の戦いである。
平氏は大敗した。
平忠度、平敦盛、平通盛らが討ち死にし、平重衡は捕らえられた。
宗盛らは安徳天皇を奉じ、屋島へ退いた。
資盛も西国で戦いを続けていた。
このころ、重盛の子供たちには悲しい知らせが相次いでいた。
弟の清経は、平氏の行く末を悲観し、豊前国柳ヶ浦で入水したと『平家物語』は伝える。
兄の維盛も一門を離れ、高野山で出家して熊野へ向かったという。
維盛については那智入水説のほか、病死したという異説も残る。
重盛の息子たちは、一人、また一人と一門から姿を消していった。
右京大夫も、資盛の兄弟たちの消息を聞いていた。
京都から知ることのできる西国の情報は限られていたが、戦いが続くたびに新たな悲報が届いた。
やがて右京大夫のもとへ、西国の資盛へ確かに手紙を届けられるという話が来る。
西国からの消息――「今は身を変へたると思ふ」
都落ちの後、資盛の消息が京都へ伝わることもあった。
『建礼門院右京大夫集』によれば、都を去った後の冬、わずかな伝手を通じて資盛の言葉が届いたという。
自分はもう、以前とは違う身になったと思っている。
皆にもそう思ってもらい、後世の供養を願いたい。
そのような内容だった。
資盛は都落ちの前から、自分が亡くなったら供養してほしいと右京大夫へ頼んでいた。
西国から届いた言葉にも、同じ願いが込められていた。
しかし右京大夫は、資盛のことを忘れられなかった。
兄弟たちの悲報が届き、平氏の行方もわからなくなっている。
その中で資盛がまだ生きていると知れば、思いはさらに募った。
そんな折、西国へ確かに便りを届けられる伝手が見つかった。
右京大夫は手紙を書くことにした。
資盛は、どの浦からも手紙を出さないと決めていた。
右京大夫も、その言葉を覚えている。
それでも今の思いを伝えずにはいられなかった。
彼女は一首の歌を添えた。
「おなじ世となほ思ふこそ」――右京大夫からの手紙
元暦元年(1184年)。
西国の資盛へ、右京大夫から手紙が送られた。
その中に次の歌があった。
「おなじ世となほ思ふこそかなしけれあるがあるにもあらぬこの世に」
今もあなたと同じ世に生きている。
そう思うことが、かえって悲しい。
生きていても、生きているとは思えないほど、苦しい世の中になってしまったのだから。
右京大夫は、遠く西国にいる資盛への思いを歌にした。
平氏は京都を失い、西国でも戦いが続いている。
資盛の兄弟たちが命を落としたという知らせも届いていた。
それでも資盛は、まだ生きている。
同じ世に生きていても、以前のように会うことはできなかった。
右京大夫はその悲しさを書き送った。
そして資盛から返事が届く。
都落ちの際、どの浦からも手紙は出さないと告げた資盛だった。
その資盛が、右京大夫の便りを受け取ったことを喜んでいたという。
『建礼門院右京大夫集』には、「さすがにうれしきよし言ひて」と記されている。
資盛は、手紙が届いてうれしかったと伝えてきた。
さらに一首の歌を添えた。
「あるほどがあるにもあらぬ」――最後の返歌
資盛が返した歌は、次のように伝わっている。
「あるほどがあるにもあらぬうちになほかく憂きことを見るぞかなしき」
生きていることが、生きているとも思えない。
その中で、なおもつらい出来事を見なければならないことが悲しい。
右京大夫が「あるがあるにもあらぬ」と書けば、資盛も「あるほどがあるにもあらぬ」と返した。
二人の歌には、同じ言葉が重ねられている。
資盛はその手紙の中で、先に亡くなった人々のことにも触れていたという。
西国では戦いが続き、一門の将来も見えなくなっていた。
資盛はその苦しさを歌に託した。
この歌は、後に『玉葉和歌集』にも収められている。
右京大夫は返書を読み、言葉にできない思いを抱いたと記した。
資盛は都落ちの前に、以前の自分を捨て、どの浦からも便りを送らないと語っていた。
しかし右京大夫から手紙が届くと、返事を書いた。
そこには、なお続く戦乱への苦しさが記されていた。
右京大夫のもとに残された、資盛からの最後の返歌となった。
藤戸の戦い――資盛の名が残る備前国の戦場
元暦元年(1184年)、平氏は備前国児島でも源氏軍と戦っていた。
藤戸の戦いである。
当時の児島は本州と陸続きになっておらず、源平両軍の間には海が横たわっていた。
源氏方の大将は源範頼。
平氏方は児島側に陣を構え、船を使って源氏軍を迎え撃とうとしていた。
『平家物語』巻第十「藤戸」では、平氏方の大将として資盛の名が登場する。
弟の有盛、忠房らとともに軍勢を率いたという。
さらに平盛嗣、伊藤忠光、伊藤景清らの武士が従っていたと記されている。
一方、『吾妻鏡』元暦元年12月7日条では、児島の軍勢を率いた人物は平行盛となっている。
行盛は清盛の次男・平基盛の子で、資盛の従兄弟にあたる。
両書では大将の名前も合戦の日付も異なっている。
『平家物語』では9月の出来事として描かれ、『吾妻鏡』では12月7日の戦いとして記される。
この合戦では、佐々木盛綱が馬で浅瀬を渡り、平氏の陣へ攻め込んだことが知られている。
『平家物語』には、その浅瀬を教えた漁師を盛綱が口封じのために殺したという話も残る。
ただし、資盛が藤戸のどの部隊を実際に率いていたのかは、史料によって異なるため確定しがたい。
少なくとも『平家物語』は、このころの資盛を、備前国で源氏と向き合った平氏方の大将の一人として描いている。
都落ちの際、右京大夫へ死後の供養を頼んだ資盛は、その後も西国で戦いに関わっていた。
そして翌年、平氏は屋島を失う。
元暦2年2月――屋島を失った平氏
元暦2年(1185年)2月。
源義経は軍勢を率いて阿波国へ渡り、讃岐国屋島へ迫った。
屋島は平氏が西国へ退いてから築いてきた主要な拠点だった。
義経軍は陸上から急襲した。
不意を突かれた平氏は海上へ退き、船団を移動させた。
『平家物語』には、那須与一が扇の的を射落とした話や、義経が海に流された弓を拾った逸話が残る。
しかし資盛が屋島でどのように戦ったのか、詳しい記録は乏しい。
屋島を失った平氏は、長門国彦島周辺へ向かった。
源範頼の軍勢も九州へ進出し、瀬戸内海の西側から平氏を圧迫していた。
平氏方の在地武士にも離反が相次ぐ。
安徳天皇を奉じる平氏は、海上を移動しながら最後の抵抗を続けた。
京都を離れてから、一年八か月ほどが過ぎていた。
その間、資盛は右京大夫へ最後の返歌を送っている。
しかし、再び京都へ戻ることはできなかった。
3月24日、平氏は壇ノ浦で源氏と向き合う。
壇ノ浦――弟の有盛、従兄弟の行盛とともに
元暦2年3月24日。
長門国赤間関の海上で、源氏と平氏の船団が激突した。
壇ノ浦の戦いである。
源氏方には源義経がいた。
平氏方では宗盛や知盛らが安徳天皇を奉じ、海上で戦った。
戦いが進むにつれ、平氏の船団は追い詰められていく。
やがて敗北は決定的となった。
安徳天皇は祖母の平時子に抱かれ、海へ沈んだ。
平知盛や平教盛ら、一門の武将たちも相次いで命を落とした。
『平家物語』巻第十一「能登殿最期」には、資盛の最期も記されている。
「小松新三位中将資盛、同じき少将有盛、従弟の左馬頭行盛」
資盛は弟の有盛、従兄弟の行盛とともにいた。
有盛は重盛の息子で、資盛の弟にあたる。
行盛は清盛の次男・基盛の子である。
『平家物語』は、三人が手を取り合って同じ場所で海へ沈んだと伝えている。
平氏一門の若い公達たちが、最後の戦場で運命をともにしたというのである。
ただし、実際に三人がどの船に乗り、どのような経過で命を落としたのかは明らかでない。
手を取り合って入水する場面は、『平家物語』によって伝えられたものである。
資盛は壇ノ浦で亡くなったと伝わる。
その最期を直接見届けた人物の記録は、現存していない。
しかし資盛の死は、やがて京都へ伝えられた。
そこには彼の帰りを待つ右京大夫がいた。
「ただほれぼれとのみおぼゆ」――右京大夫に届いた訃報
壇ノ浦で平氏が滅びたという知らせは、京都にも届いた。
資盛が亡くなったことも、やがて右京大夫の耳に入る。
『建礼門院右京大夫集』には、そのときの様子が記されている。
「またの年の春ぞ、まことにこの世のほかに聞き果てにし」
翌年の春、資盛がこの世の人ではなくなったと聞いた。
右京大夫はそのように書き始めている。
資盛が自分の死を予感していたことは、以前から知っていた。
都落ちの前には、自分も死者の数に加わるだろうと告げられていた。
西国からの最後の返歌にも、生き続ける苦しさが記されている。
それでも実際に訃報が届くと、右京大夫は何も考えられなくなったという。
「ただほれぼれとのみおぼゆ」
ただ、ぼう然とするばかりだった。
涙があふれても、人前では思うままに泣くことができなかった。
右京大夫は気分が悪いと言い、夜具を引きかぶって寝ていたという。
その間も泣き続けた。
忘れようとしても、資盛の姿が浮かんでくる。
かつて交わした言葉が、今も耳に聞こえるように感じられたと記している。
右京大夫は一首の歌を詠んだ。
「なべて世のはかなきことをかなしとはかかる夢みぬ人やいひけん」
世の中では、人が死ぬことを悲しいという。
それは、こんな夢のような悲しみに遭ったことのない人が言うのだろうか。
右京大夫は資盛の死をそのように嘆いた。
そして、都落ちの前に交わした約束を思い出す。
自分が死んだなら、後世の供養をしてほしい。
資盛が残した願いだった。
資盛の手紙を漉き返す――右京大夫の追善供養
右京大夫は、資盛から受け取った古い手紙を集めた。
『建礼門院右京大夫集』には、その紙を使った追善供養の様子が詳しく記されている。
右京大夫は残された手紙を選び出した。
そして紙を漉き返して写経用の料紙とし、そこへ経文を書いてもらったという。
古い手紙の紙を新しい紙に作り直し、仏に供える経典のために使ったのである。
一方、資盛の筆跡が残る紙をそのまま用いたこともあった。
文字が見える紙を捨てられず、その裏に自分の手で六体の地蔵を描いたという。
資盛が生前に書いた文字を見れば、交わした言葉が思い出される。
手紙を一枚ずつ選び出すことも、右京大夫にはつらい作業だった。
それでも供養を続けた。
二人の関係は、誰もが知っているものではなかった。
右京大夫は人目を避け、親しくない人々には知らせずに供養を営んだと記している。
都落ちの前、資盛は右京大夫へ願った。
「道の光も必ず思ひやれ」
死後の道を照らすよう、祈ってほしい。
右京大夫はその言葉を忘れなかった。
資盛の手紙を漉き返し、経文を書く紙とした。
筆跡を残した紙には、六体の地蔵を描いた。
亡くなった資盛のために、一人で供養を続けたのである。
草に覆われた邸宅跡――二人で見た柳と桜
資盛の死後、右京大夫は、かつて彼が暮らした場所を訪ねている。
『建礼門院右京大夫集』には、資盛の邸宅跡を訪れたときの様子が残る。
その一つが北山の別邸だった。
かつて資盛と右京大夫は、庭に植えられた柳や桜をともに眺めたという。
「東の庭に、柳桜のおなじたけなるをまぜて、あまた植ゑ並べたりし」
庭には、高さのそろった柳と桜が数多く植えられていた。
二人はある春、その木々を一緒に見た。
しかし今、その邸宅には資盛がいない。
柳と桜の梢だけが、以前と変わらない姿を残していた。
右京大夫はその木々を見て、一首の歌を詠んでいる。
「うゑてみし人はかれぬるあとになほ残る梢をみるも露けし」
ともに植えて眺めた人は、もう亡くなってしまった。
その人が去った後も残る梢を見ると、涙がこぼれる。
また別の機会には、資盛の邸宅跡を通りかかった。
以前の建物は失われ、草が深く茂っていたという。
秋の花が咲き、虫の声が重なっていた。
右京大夫は車を止め、しばらくその場所を眺めた。
かつて資盛が生きていたころには、何度も訪ねた場所だった。
今は建物も失われ、人の姿もない。
右京大夫はすぐには通り過ぎることができなかったと記している。
平重盛の家は、かつて清盛の後継者を出す家として重んじられていた。
しかし重盛は1179年に亡くなった。
兄の維盛は一門から離れ、熊野で亡くなったと伝わる。
そして資盛も壇ノ浦で命を落とした。
右京大夫が訪ねたのは、資盛のいなくなった後の邸宅跡だった。
庭には、二人がかつて見た柳と桜の梢が残っていた。
大原の建礼門院――かつての宮廷を思い出す
平氏が壇ノ浦で滅びた後、建礼門院徳子は京都へ戻された。
徳子は壇ノ浦で安徳天皇を失い、自らも海へ身を投げたが、源氏方に救われていた。
やがて出家し、大原で暮らすようになる。
右京大夫は、その徳子を訪ねた。
かつて右京大夫は徳子に仕え、多くの平氏の公達たちと顔を合わせていた。
資盛もその一人だった。
しかし壇ノ浦で資盛は亡くなり、徳子も安徳天皇や兄弟たちを失っている。
大原で再会した二人は、かつての宮廷生活を思い出したという。
右京大夫はそのときの思いを一首の歌にした。
「今や夢昔や夢と迷はれていかに思へどうつつとぞなき」
今が夢なのか、昔が夢だったのか。
どちらとも思い定めることができない。
かつて徳子が高倉天皇の中宮となり、平氏の公達たちが宮廷に集まっていた日々。
今は徳子が大原で暮らし、右京大夫は資盛を失っていた。
二人が再会した場所には、かつての華やかな宮廷はもうなかった。
それでも右京大夫は、資盛の追善供養を続けた。
『建礼門院右京大夫集』に残された資盛
右京大夫は、平氏の滅亡後も長く生きた。
建久年間には後鳥羽天皇の宮廷へ再び出仕したと考えられている。
その後も歌人たちと交流を続けた。
建永元年(1206年)、藤原定家の日記『明月記』には「七条院右京大夫」の名が見える。
また、藤原俊成の九十賀にも関わり、宮廷の歌人たちと交わっていた。
貞永元年(1232年)ごろには、藤原定家から家集の提出を求められたことが、歌集の末尾に記されている。
そのころまでに、右京大夫は自らの歌と詞書をまとめていた。
後に『建礼門院右京大夫集』として伝わる作品である。
そこには徳子に仕えた宮廷生活、藤原隆信らとの交流、平資盛との恋、都落ち、壇ノ浦の訃報、そして追善供養が収められた。
資盛がどのような歌を詠み、恋人へ何を伝えたのか。
その一部は、右京大夫の歌集を通じて今日まで伝わっている。
『平家物語』は、資盛が弟の有盛、従兄弟の行盛と手を取り合って壇ノ浦の海へ沈んだと記す。
一方、右京大夫の歌集には、西国から届いた資盛の返歌が残された。
「あるほどがあるにもあらぬうちになほかく憂きことを見るぞかなしき」
生きているとも思えない日々の中で、なおつらい出来事を見なければならない。
都落ちの前、資盛は右京大夫へ、どの浦からも便りを出さないと告げた。
しかし翌年、彼女から手紙が届くと、うれしかったと返事を書いた。
それが最後の便りとなった。
元暦2年3月24日、資盛は壇ノ浦で亡くなった。
右京大夫は資盛から受け取った手紙を集め、その紙に経文を書いて供養したという。
かつて資盛が自分の筆で書いた手紙は、漉き返され、写経の料紙となった。
筆跡を残したまま使われた紙もあった。
右京大夫はその文字を捨てることができず、裏に六体の地蔵を描いたと記している。
都落ちの前、資盛が彼女へ残した願い。
「道の光も必ず思ひやれ」
右京大夫はその言葉を忘れず、資盛の文字が残る紙に地蔵を描き、その菩提を弔い続けた。
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