第144回
第144回
元暦2年(1185年)2月19日、讃岐国屋島。
安徳天皇を奉じる平家一門のもとへ、源義経の軍勢が迫っていた。
屋島の対岸にある牟礼と高松の民家から、次々に火の手が上がった。
『吾妻鏡』によれば、義経は前日の早朝に阿波国へ上陸し、その日のうちに平家方の拠点を攻撃した。さらに夜を徹して阿波と讃岐の国境を越え、屋島まで進んできたという。
義経が率いていたのは150余騎と記される。
安徳天皇を守る平家の軍勢に比べれば、少数だった。
しかし、突然現れた源氏軍と立ち上る黒煙を見た平家方は、大軍が攻め寄せたと考えた。
平宗盛らは安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。
義経軍はその間に屋島の内裏へ攻め込み、建物を焼き払った。
黒煙が空へ立ち上り、昼の光を覆ったという。
しかし、平家方は源氏の兵が思いのほか少ないことに気づいた。
船を岸へ寄せ、再び攻撃を仕掛けた。
浜辺では源氏の騎馬武者が弓を引き、平家の武士たちは船上から矢を放った。
その戦闘で、義経に仕えていた佐藤継信が討死する。
『平家物語』では、平教経が義経を狙って放った矢を、継信が身代わりとなって受けたと伝えている。
さらに、那須与一による扇の的、悪七兵衛景清の錣引き、義経の弓流し。
屋島の戦いには、後世まで語り継がれる数々の逸話が残された。
平家は一ノ谷で大敗した後も、安徳天皇と三種の神器を保持し、屋島を拠点に抵抗を続けていた。
しかし、この戦いでその内裏が焼かれ、宗盛らは再び海上へ退くことになった。
屋島の戦いから、およそ1か月後。
源平両軍は長門国の壇ノ浦で最後の決戦を迎える。
一ノ谷で敗れた平家は屋島へ
寿永3年(1184年)2月7日、平家は摂津国の一ノ谷で大敗した。
東の生田の森には源範頼の軍勢が攻め込み、西側の一ノ谷方面では源義経らが平家の陣地を破った。
平家軍は福原周辺の防衛線を失い、多くの一門の武将が討死した。
平忠度、平敦盛、平経正、平通盛らが命を落とし、清盛の子である平重衡も源氏方に生け捕られた。
平家は、前年の都落ち後にようやく取り戻した福原を再び失った。
宗盛や知盛ら生き残った一門の武将たちは、船で西国へ退いていく。
しかし、安徳天皇と三種の神器は、なお平家の手中にあった。
瀬戸内海には平家の船団が残り、讃岐国や阿波国、伊予国などにも平家に従う武士たちがいた。
九州でも原田氏や山鹿氏、松浦党など、平家と関わりの深い勢力が活動を続けていた。
一ノ谷で源氏が大勝しても、西国の平家をすぐに追い詰めることはできなかった。
平家は船を利用し、瀬戸内海の島々や沿岸を移動することができた。
一方、東国から来た源氏の武士たちにとって、海を渡るには船の調達が欠かせなかった。
平家は残された船団と西国の武士たちを頼りに、屋島を拠点として抵抗を続けていた。
平家が拠点とした屋島
屋島は、現在の香川県高松市東部にある。
瀬戸内海に面した標高約292メートルの台地で、頂上部が平らな独特の形をしている。
現在は四国本土と陸続きになっているが、平安時代末期には海に囲まれた島だった。
屋島の東側には檀ノ浦と呼ばれる入り江があり、対岸には牟礼の海岸が広がっていた。
平家はこの一帯に船団を集め、屋島へ近づく敵を海上から迎え撃つことができた。
また、屋島は讃岐国から阿波国や伊予国方面へ移動するうえでも便利な場所だった。
平家は寿永2年(1183年)、木曾義仲の進撃によって京都を離れた後、九州で勢力を立て直そうとした。
しかし、豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、大宰府周辺に安定した拠点を築くことができなかった。
そこで瀬戸内海へ戻り、屋島を中心に軍勢を整えていった。
安徳天皇のための内裏も設けられ、宗盛ら平家一門が集まった。
内裏が整うまでの間、安徳天皇が牟礼の六萬寺に滞在したという寺伝も残っている。
屋島には安徳天皇を奉じる御所があり、その周囲には平家一門の屋敷や武士たちの陣地が置かれた。
海上には船団が控えていた。
平家にとって屋島は、西国で軍勢を維持し、源氏との戦いを続けるための重要な拠点だった。
安徳天皇と三種の神器
屋島にいた安徳天皇は、数え8歳だった。
父は高倉天皇、母は平清盛の娘である平徳子。
清盛の孫として生まれ、治承4年(1180年)に幼くして即位した。
平家は安徳天皇を奉じることで、朝廷の中枢における立場を保とうとしていた。
寿永2年の都落ちに際しては、三種の神器も西国へ運ばれた。
一方、京都では同年8月に後鳥羽天皇が即位している。
その結果、安徳天皇を奉じる平家の朝廷と、京都の後鳥羽天皇の朝廷が並び立つ状況となった。
後白河法皇や源頼朝にとって、安徳天皇と三種の神器を取り戻すことは重要な課題だった。
『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、頼朝が範頼へ送った返書が残されている。
頼朝はその中で、安徳天皇や平家の女性たちを傷つけることなく迎え取るよう求めていた。
平家を軍事的に追い詰めても、安徳天皇の身に危険が及んではならなかった。
しかし、宗盛らは天皇を奉じて船に乗り、海上を移動することができた。
源氏方が安徳天皇を捕らえるには、平家の船団を追い詰める必要があった。
範頼は九州へ、義経は四国へ
元暦元年(1184年)9月、源範頼は大軍を率いて再び西国へ向かった。
範頼軍は山陽道を西へ進み、備前国の藤戸で平家方と戦った。
藤戸では佐々木三郎盛綱が馬のまま海を渡り、平家軍を敗走させたと伝わる。
しかし、範頼軍はその後も苦戦した。
兵糧が不足し、船も足りなかった。
元暦2年正月には長門国の赤間関付近で足止めされ、東国から参加した武士たちの中には、帰国を望む者も増えていた。
そこで豊後国の臼杵惟隆や緒方惟栄らが82艘の兵船を提供した。
範頼軍はその援助を受け、九州へ渡ることになる。
2月1日には葦屋浦で原田種直ら平家方の武士たちと戦った。
『吾妻鏡』によれば、北条義時、下河辺行平、渋谷重国らが先陣を務め、原田氏の軍勢を破ったという。
一方、四国の屋島には宗盛らが安徳天皇を奉じていた。
長門国の彦島には知盛が九州の軍勢を集め、門司関方面を守っていたと伝わる。
源氏方は西国の複数の方面から平家を追うことになった。
九州方面では範頼が活動し、四国の屋島へ向かうのが義経だった。
義経、屋島への出陣を決める
朝廷から検非違使に任じられ、京都の警備などにも関わっていた。
後白河法皇との関係も深まり、平家追討を担う武将として朝廷からも期待されていた。
『平家物語』巻第十一「逆櫓」には、義経が後白河法皇のもとへ参上し、平家追討の決意を述べた場面がある。
平家がまだ西国で勢力を保っていることを憂い、海の果てまでも追討すると語ったという。
法皇はその言葉を聞き、速やかに平家を討つよう命じたと伝わる。
一方、出陣をめぐっては京都の警備を心配する声もあった。
九条兼実の日記『玉葉』には、後白河法皇が義経の出陣を制止しようとしたことが記されている。
京都から武士が減り、守りが手薄になることを懸念したためだった。
しかし、義経は出陣の方針を変えなかったという。
『吾妻鏡』元暦2年2月16日条にも、義経の出陣が記されている。
高階泰経は、大将自ら先陣を切る必要はないと諫めた。
ところが義経は、先陣で命を捨てる覚悟だと答えたという。
義経はこうして摂津国へ向かい、四国へ渡るための船を整えた。
梶原景時が提案した逆櫓
『平家物語』には、義経が渡海を前に梶原景時と対立したという話が残されている。
「逆櫓」である。
摂津国の渡辺津では、源氏方の武士たちが船を整え、海上での戦いについて相談していた。
その席で梶原景時は、船に逆櫓を取り付けようと提案したという。
逆櫓とは、船首と船尾の双方で櫓を使えるようにし、船を前後に動かしやすくする工夫である。
陸上なら馬の向きを変え、敵から離れることもできる。
しかし、船は急に向きを変えられない。
海上で敵に攻められたとき、すぐに退けなければ船ごと討たれる危険があった。
景時はそのために逆櫓を用意しようとした。
ところが義経は反対したという。
戦う前から逃げる支度をするのは、門出が悪い。
自分は普通の櫓で進むと語ったと伝わる。
景時は、進むべきときに進み、退くべきときに退くことができてこそ名将だと主張した。
一方、義経は退却の準備を嫌い、攻めて勝つことを重んじたという。
『平家物語』は、二人の激しい口論を描いている。
ただし、『吾妻鏡』の出陣記事には、この口論の詳しい経過は記されていない。
逆櫓をめぐる対立は、義経と景時の考え方の違いを描いた軍記物語の逸話として知られている。
義経と景時はその後も頼朝のもとで活動し、後に関係を悪化させていく。
暴風の中で決行された渡海
義経が船を出そうとしたとき、海は荒れていた。
『吾妻鏡』元暦2年2月18日条によれば、前日、義経が渡海しようとしたところ突然の暴風が起こり、多くの船が破損したという。
武士たちは出航をためらい、船を出そうとしなかった。
しかし、義経は渡海を決断した。
平家に攻撃を察知され、防備を固められる前に四国へ渡りたかったのだろう。
『吾妻鏡』には、義経が風波の危険を顧みず出航を命じたと記されている。
2月18日の丑の刻、五艘の船が海へ出た。
丑の刻は、現在のおおむね午前1時から3時ごろにあたる。
船はその日の卯の刻、阿波国の椿浦へ到着したという。
卯の刻は、おおむね午前5時から7時ごろである。
『吾妻鏡』は、通常なら三日かかる行程を短時間で渡ったと伝えている。
もっとも、摂津から阿波までの距離を考えると、この航海時間をそのまま実際の所要時間として受け取ることには疑問が残る。
出航日や到着日の記録がずれている可能性も考えられる。
それでも、義経が荒天の中で先発の船を出し、主力の船団に先んじて四国へ渡ったことは、屋島への急襲を考えるうえで重要である。
五艘の船と百五十余騎
『吾妻鏡』は、義経が五艘の船で渡海し、阿波国に150余騎を率いて上陸したと記している。
五艘で150余騎という数字には、検討すべき点がある。
馬や武具、兵糧に加え、船頭や水夫も乗り込む必要があった。
五艘だけで多数の騎馬武者を運んだとすれば、相応の大きさの船が必要になる。
また、『吾妻鏡』3月8日条には、義経の使者が阿波への渡海について150余艘と報告した記事もあり、同書の中にも船数の異なる記述が見られる。
どの数字が実際の船数に近いのか、正確な輸送状況まではわかっていない。
ただ、義経が主力の船団より早く四国へ渡り、少数の軍勢で屋島を攻撃したという経過は、複数の記録に伝えられている。
義経は阿波国へ上陸すると、軍勢を休ませることなく屋島へ向かった。
摂津から海を渡ることに成功しても、その先には平家方の武士たちが待っていた。
阿波国への上陸と近藤親家
『吾妻鏡』が記す義経の上陸地は、阿波国の椿浦である。
現在の徳島県阿南市椿泊周辺などに比定されている。
一方、『平家物語』では阿波国の勝浦に上陸したと描かれている。
両書で地名が異なっており、実際の上陸地点や進軍路には検討の余地がある。
阿波へ上陸した義経がまず求めたのは、現地の地理に詳しい案内役だった。
『吾妻鏡』には、近藤七親家という武士が登場する。
『平家物語』では近藤六親家と記されている。
通称には違いがあるが、いずれも阿波国の地理に詳しい人物として描かれている。
『平家物語』では、親家は初め平家方として義経の上陸を迎え撃とうとしていた。
しかし、義経軍に従うことになり、屋島への道を案内したという。
義経は親家から阿波国の道や平家方の拠点について情報を得たと伝わる。
屋島へ向かうには、阿波国から讃岐国へ通じる山道を越えなければならなかった。
しかも、その途中には平家に従う武士たちがいた。
義経は案内役を得ると、すぐに北へ向かった。
桜間介の城を攻める
阿波国で義経軍が攻撃したのが、桜間介の拠点だった。
『吾妻鏡』では桜庭介良遠と記され、『平家物語』では桜間介能遠という名で登場する。
良遠は、阿波民部重能とも呼ばれる田口成良の弟とされる。
田口氏は阿波国の有力武士で、平家の海上戦力を支えてきた一族だった。
桜間介もその一族として、阿波国に城を構えていたと伝わる。
『吾妻鏡』によれば、義経は桂浦で桜庭介良遠の城を攻めた。
良遠は城を捨てて逃走したという。
一方、『平家物語』では、城の周囲に堀や沼があり、義経軍が攻め込んだ経過が詳しく描かれている。
ただし、城の正確な位置や守備兵の数は明らかでない。
『吾妻鏡』には良遠が城を捨てたことが記されているが、激しい攻城戦がどれほど続いたのかまでは伝わっていない。
義経は阿波の平家方を退かせた後、そのまま屋島へ向かった。
屋島には安徳天皇と宗盛らがいた。
義経はその拠点を、平家方が十分に備える前に攻撃しようとしていた。
夜を徹して越えた阿波と讃岐の国境
『吾妻鏡』によれば、義経は2月18日から19日にかけて夜通し進軍した。
阿波国と讃岐国の境にある中山を越え、19日の辰の刻に屋島の内裏の対岸へ到着したという。
『平家物語』では、大坂越の山道を進んだと描かれている。
大坂越は、現在の徳島県鳴門市から香川県東かがわ市方面へ通じる峠道として知られている。
義経軍は阿波国で平家方の城を攻め、現地の案内役を得て山へ入った。
昼間に戦い、夜には山道を進んだことになる。
平家方が源氏軍の上陸を知り、進軍路に兵を配置すれば、屋島への攻撃は難しくなる。
義経はその時間を与えず、屋島へ迫った。
『吾妻鏡』に記された日程では、阿波国への上陸から屋島への攻撃まで、わずか一日ほどだった。
この進軍の速さが、屋島の戦況を大きく変えることになる。
二月十九日、牟礼と高松に火が上がる
元暦2年2月19日の朝、義経軍は屋島の対岸へ到着した。
『吾妻鏡』によれば、義経は牟礼と高松の民家を焼き払ったという。
屋島から見える対岸で、次々に火が上がった。
『平家物語』では、平家方が源氏の大軍による攻撃と思い込み、慌てて海上へ退いたと描かれている。
義経が率いていた軍勢は、『吾妻鏡』では150余騎とされている。
平家方はその兵数を十分に把握できていなかった。
海を隔てた対岸に突然源氏軍が現れ、周囲の民家に火を放った。
宗盛らは安徳天皇を守るため、船へ退くことを決めた。
『吾妻鏡』には、牟礼と高松の民家が焼かれたことで、安徳天皇が内裏を離れ、宗盛らが一門を率いて海上へ退いたと記されている。
その間に義経軍は屋島の陸上拠点へ迫った。
ただし、火を放たれたのは平家方の陣地だけではなかった。
牟礼や高松には戦いに直接参加していない住民も暮らしていた。
焼かれた家屋の数や住民の被害は記録に乏しいが、義経の攻撃は周辺の村落にも被害を与えたことになる。
安徳天皇を船へ移した宗盛
屋島の内裏には安徳天皇が滞在していた。
宗盛らは天皇を奉じ、平家一門の武士や公家たちとともに西国で生活していた。
その内裏へ源氏軍が迫った。
『吾妻鏡』によれば、安徳天皇は御所を離れ、宗盛らも一門を率いて海上へ退いた。
平家は多くの船を持っていた。
陸上の拠点を攻められても、船に乗って海へ出れば敵との距離を取ることができる。
また、安徳天皇を源氏軍の攻撃から遠ざけることもできた。
しかし、平家が船へ退いたことで、屋島の内裏を守る兵は少なくなった。
義経軍はその間に陸上へ進み、御所を攻撃した。
『平家物語』では、後になって義経軍の少なさを知った宗盛が、慌てて船へ退いたことを悔やんだと描かれている。
平家には、なお反撃できるだけの武士が残っていた。
それでも安徳天皇を危険にさらすわけにはいかなかった。
宗盛は船上へ退くことを選び、屋島の内裏を源氏軍に奪われた。
炎に包まれた平家の内裏
『吾妻鏡』2月19日条には、義経の家人たちが屋島の内裏を焼いたことが記されている。
佐藤継信・忠信の兄弟、後藤実基と基清らが、内裏や宗盛の休息所などへ火を放ったという。
建物からは黒煙が立ち上った。
『吾妻鏡』は、その火の勢いを次のように記している。
「黒煙天に聳え、白日光を蔽う」
黒煙が空へ立ち上り、昼の光を覆ったという。
平家は一ノ谷で大敗した後も、屋島に内裏を設け、安徳天皇を奉じてきた。
その御所が焼失した。
しかし、義経軍の攻撃はこれで終わらなかった。
平家方の船団は海上に残っていた。
宗盛や安徳天皇も船に移っていた。
屋島の内裏を失っても、平家には戦える武士たちが残されていた。
やがて義経軍が小勢であることが伝わると、平家方は船を岸へ寄せ、反撃を始めた。
海岸で再開した源平の戦闘
『吾妻鏡』によれば、義経は田代信綱、金子家忠、金子与一近則、伊勢三郎能盛らを伴い、海岸へ向かった。
『平家物語』では伊勢三郎を義盛と記すなど、人名の表記に違いがある。
平家方は船を岸へ寄せ、弓を射た。
源氏方も浜辺から矢を放つ。
海に浮かぶ船から攻撃する平家方に対し、義経軍は馬を進め、陸上から迎え撃った。
『吾妻鏡』には、越中次郎兵衛盛継と上総五郎兵衛忠光らが船から降り、内裏の門の前に陣を構えて戦ったと記されている。
『平家物語』でも、越中次郎兵衛盛嗣らが上陸し、源氏軍と戦ったと伝えている。
一度は海上へ退いた平家方だったが、再び陸へ上がり、義経軍を攻めた。
屋島の陣地をめぐって戦闘が続いたのである。
その中で、義経に仕えていた佐藤継信が討死する。
奥州から義経に従った佐藤兄弟
佐藤継信は、奥州にゆかりを持つ武士だった。
『平家物語』では嗣信、『吾妻鏡』では継信と記されている。
弟には佐藤四郎兵衛忠信がいた。
佐藤兄弟は奥州藤原氏と関係の深い一族として知られる。
後世の系譜では、父を佐藤基治と伝えている。
現在の福島県福島市飯坂町周辺にゆかりを持ち、信夫郡などで勢力を持っていた一族だった。
義経は若いころに奥州へ下り、藤原秀衡のもとで過ごした。
その後、兄の頼朝が挙兵すると、奥州を離れて頼朝のもとへ向かった。
佐藤兄弟も、義経に従って各地を転戦したと伝わる。
ただし、兄弟がいつから義経の家人となったのか、詳しい年月までは明らかでない。
屋島の戦いでは、継信と忠信がともに義経の軍勢へ加わっていた。
そして兄の継信が、平家方の矢を受けることになる。
義経を狙った平教経の強弓
『平家物語』によれば、屋島の海岸では平教経が弓を引いていた。
教経は平清盛の弟・教盛の子で、一ノ谷で討死した平通盛の弟にあたる。
『平家物語』では、平家一門の中でも強弓に優れた人物として描かれている。
教経は船の上から源義経を狙い、矢を放ったという。
義経は源氏方の大将だった。
その義経を討ち取れば、平家にとって大きな戦果となる。
教経は義経を狙い続けた。
しかし、義経の周囲には佐藤継信・忠信らの武士たちがいた。
『平家物語』によれば、継信は義経の前へ馬を進め、教経の矢を受けた。
矢は継信の左肩から右脇へと貫いたという。
継信は馬から落ちた。
ただし、継信を射た人物を教経とする詳しい経過は、『平家物語』によって伝えられたものである。
『吾妻鏡』にも継信の戦死は記されているが、矢を放った武将の名前までは挙げられていない。
佐藤継信の最期
『平家物語』によれば、継信が倒れると、平家方の菊王丸という若い従者が駆け寄った。
菊王丸は教経に仕えていた。
継信の首を取ろうと近づいたところ、弟の忠信が弓を引き、菊王丸を射たという。
菊王丸も深手を負い、命を落としたと伝わる。
一方、源氏方では負傷した継信が陣の後方へ運ばれた。
『平家物語』では、義経が馬から下り、継信のそばへ寄ったと描いている。
義経が最期に心残りはないかと尋ねると、継信は、義経が世に立つ姿を見られないことだけが残念だと語ったという。
さらに、屋島で主君の命に代わって討死したことが後世まで伝わるなら、それは武士として名誉だとも述べたと伝わる。
こうした最期の会話は、『平家物語』に残されたものである。
『吾妻鏡』にも、継信が屋島の戦闘中に射られ、命を落としたことは記されている。
義経はこの家人の死を深く悲しんだという。
義経が継信のために贈った名馬
継信の死を知った義経は、僧を招いて葬送を行わせた。
『吾妻鏡』によれば、継信は松の木の下に葬られたという。
さらに義経は、葬送に関わった僧へ一頭の馬を与えた。
「大夫黒」と呼ばれる名馬だった。
大夫黒は、もともと後白河院の厩にいた馬で、義経が戦場へ向かう際に与えられたものと記されている。
義経はその馬を大切にしていた。
継信を弔うため、愛馬を僧へ与えたのである。
『平家物語』にも、義経が継信の死を惜しみ、名馬を贈った話が残されている。
屋島で討死した継信は、後世には義経の身代わりとなった忠臣として広く知られるようになった。
現在の高松市牟礼町には、継信の墓と伝わる場所が残されている。
また、義経が贈った大夫黒の墓と伝えられる石塔もある。
継信の戦死と葬送の記録は、屋島に残る史跡とともに受け継がれてきた。
小勢と知った平家の反撃
屋島の内裏が焼かれた後も、平家方は船団を保っていた。
『平家物語』では、義経軍の少なさを知った宗盛らが、海上へ退いたことを悔やんだと描かれている。
義経の軍勢は、見たところ七、八十騎ほどだったという。
『吾妻鏡』では阿波国への上陸時の兵数を150余騎としており、数字には違いがある。
しかし、どちらの記録でも義経は小軍を率いていた。
一方、平家には多くの武士と船が残っていた。
源氏方が少ないとわかると、平家方は再び陸へ上がり、攻撃を試みた。
義経軍は内裏を焼くことには成功したが、平家の船団をその場で壊滅させることはできなかった。
平家方も陸上の拠点を取り戻せず、浜辺では両軍の戦闘が続いた。
その戦いの合間に起こったと『平家物語』が伝えるのが、那須与一の扇の的である。
平家の船に掲げられた扇
『平家物語』巻第十一「那須与一」によれば、屋島での戦闘が続いた日の夕方、平家方から一艘の小舟が岸へ近づいてきた。
美しく飾られた船だった。
その中から若い女房が姿を現した。
年齢は十八、九歳ほど。
女房は船の端に扇を立て、陸へ向かって手招きしたという。
扇は紅色で、日の出を描いたものだったと伝わる。
源氏方の武士たちは、その様子を見守っていた。
海上の小舟に扇を掲げ、源氏方へ手招きする。
平家が源氏の弓の腕前を試そうとしているのだと考えた。
義経はそこで、扇を射ることのできる武士を探させた。
しかし、相手は波間に揺れる小舟だった。
風が吹けば船も動き、扇の位置も変わる。
射損じれば源氏方の面目に関わる。
そこで呼び出されたのが、那須与一だった。
下野国の若武者・那須与一
那須与一は、下野国那須氏の一族として知られる武士である。
『平家物語』では、那須太郎資高の子・与一宗高と記されている。
那須氏は、現在の栃木県北部にあたる那須地域に勢力を持っていた。
与一は弓の名手として伝わっている。
『平家物語』では、屋島の戦いのころ、二十歳ほどだったという。
ただし、与一の詳しい生涯については確実な記録が少なく、後世の系譜や伝承に頼る部分も多い。
義経から扇を射るよう命じられた与一は、初め辞退したと伝わる。
射損じれば源氏方の恥になる。
もっと確実に射られる者へ命じてほしいと申し出たという。
しかし、義経は辞退を許さなかった。
命令に従わないのであれば鎌倉へ帰れと叱ったと伝わる。
与一はそれ以上辞退せず、弓を持って海岸へ進み出た。
波間に揺れる扇を狙う
『平家物語』によれば、与一は馬に乗って海へ入った。
扇を掲げた小舟は、沖の波間に浮かんでいた。
風が吹き、船は上下に揺れていた。
扇も風にあおられ、一定の位置にとどまらなかった。
与一は弓を構えたが、すぐには射られなかった。
そこで目を閉じ、神仏へ祈ったという。
「南無八幡大菩薩」
与一は八幡大菩薩や故郷の神々に祈願した。
もしこの矢を外せば、弓を折って自害する覚悟だったと伝わる。
やがて風が少し弱まり、扇の揺れも小さくなった。
与一は鏑矢をつがえ、弓を引き絞った。
そして矢を放つ。
『平家物語』によれば、矢は扇の要の近くを射切った。
扇は空へ舞い上がり、春風にあおられて海へ落ちたという。
平家方の武士たちは船端をたたき、感嘆した。
源氏方も箙をたたき、歓声を上げたと伝わる。
敵味方がともに一人の若武者の射芸をたたえた場面として、後世まで知られるようになった。
扇の的の後に射られた男
『平家物語』では、扇を射落とした後の出来事も記されている。
与一の見事な射撃を見た平家方から、一人の男が現れた。
男は扇が立てられていた場所に進み、舞を舞い始めたという。
源氏方の弓の腕前に感動した様子だったと伝わる。
ところが、義経はその男も射るよう命じたという。
与一は再び弓を引き、男を射倒した。
それまで歓声を上げていた平家方は、急に静まり返った。
一方、源氏方では再び歓声が上がったが、中には情けないことをしたと語る者もいたと『平家物語』は記している。
扇を射落としたとき、両軍は与一の腕前をたたえていた。
その直後、一人の男が矢に倒れた。
『平家物語』は、この二つの場面を続けて描いている。
那須与一の扇の的は、後世の絵画や能、歌舞伎などでも広く知られるようになった。
ただし、『吾妻鏡』の屋島合戦の記事には、この逸話は登場しない。
与一が実際に扇を射落としたことを確認できる同時代の記録も乏しい。
扇の的は、『平家物語』によって伝えられた屋島合戦の名場面である。
悪七兵衛景清の錣引き
屋島の戦いには、平家方の豪勇として知られる悪七兵衛景清も登場する。
景清は藤原氏の一族とされ、平家に従って活動した武士だった。
『平家物語』では、景清が源氏方の三穂屋十郎と戦ったと伝えている。
三穂屋十郎は馬を射られて落馬した。
そこへ景清が長刀を持って迫ったという。
三穂屋十郎は逃れようとしたが、景清はその兜の錣をつかんだ。
錣とは、兜の後ろに垂れ、首筋を守る部分である。
景清は力を込めて引いた。
しかし、錣が引きちぎれ、三穂屋十郎はそのまま逃げ延びたという。
景清は引きちぎった錣を掲げ、大声で自分の名を名乗ったと伝わる。
後世に「景清の錣引き」として知られる場面である。
この組討ちの詳しい経過は『平家物語』に記されたもので、『吾妻鏡』の屋島合戦記事には見られない。
景清はその後も能や歌舞伎などに取り上げられ、平家方の豪勇として語られていく。
義経が海へ落とした弓
屋島の戦いには、義経自身に関わる逸話も残されている。
「弓流し」である。
『平家物語』によれば、平家方が再び海岸へ攻め寄せたとき、義経も馬を進めて戦っていた。
船に乗った平家の武士たちは、熊手を使って源氏方の武士を引き寄せようとしていたという。
その戦闘中、義経は弓を海へ落としてしまった。
味方の武士たちは、弓を捨てて退くよう勧めた。
しかし義経は馬を進め、鞭を使って海に浮かぶ弓を引き寄せようとしたという。
敵の船が近くにあり、矢を射られる危険もあった。
それでも義経は弓を拾い上げたと伝わる。
味方の武士たちは、なぜ命を危険にさらしてまで弓を拾ったのかと尋ねた。
義経は、自分の弓が惜しかったからではないと答えたという。
自分の弓は、さほど強いものではなかった。
もし平家方に拾われ、源氏の大将の弓がこの程度かと笑われたら、それが恥ずかしかったのである。
『平家物語』は、義経が自分の名誉を守るために弓を拾ったと描いている。
この弓流しも『吾妻鏡』には記されていない。
しかし、義経の戦場での行動を伝える逸話として、後世まで広く知られるようになった。
義経の急襲が成功した理由
屋島の戦いで義経が勝利した大きな要因は、進軍の速さだった。
『吾妻鏡』によれば、義経は2月18日に阿波国へ上陸し、翌19日には屋島の対岸へ到着している。
その間に平家方の桜庭介良遠の拠点を攻め、現地の案内役を得て山を越えていた。
平家方が進軍路に兵を配置し、防備を整える前に屋島へ迫ったのである。
また、義経は屋島の船団へ海上から正面攻撃を仕掛けるのではなく、阿波から陸路で近づいた。
平家は瀬戸内海に多くの船を持ち、海上での戦いを得意としていた。
しかし、義経軍は四国へ上陸した後、山道を通って屋島の対岸へ現れた。
さらに牟礼と高松の民家へ火を放ち、平家方を動揺させた。
宗盛らは安徳天皇を守るために船へ退き、陸上の内裏を失った。
義経軍はその間に建物を焼き払った。
ただし、平家は船団を保ったまま海上へ退いていた。
その後も岸へ寄せて戦い、佐藤継信を討ち取るなど、反撃する力を残していた。
義経が奪ったのは、平家が安徳天皇を奉じてきた屋島の拠点だった。
宗盛らや安徳天皇を捕らえることはできず、平家の船団も残されていた。
平家は海上を移動しながら、さらに西へ退くことになる。
平家が逃した夜襲の機会
『平家物語』によれば、屋島で戦った夜、源氏方の武士たちは疲れ果てていた。
暴風の海を渡り、阿波国で戦い、山を越えて屋島まで進んできた。
その後も海岸で戦闘が続いていた。
武士たちは鎧や兜を枕にして眠ったという。
義経と伊勢三郎義盛らは、敵の夜襲を警戒していたと伝わる。
一方、平家方でも夜襲を考えたという話が残る。
教経らが攻撃を進めようとしたが、先陣をめぐって武士たちが争い、結局機会を逃したと『平家物語』は描いている。
ただし、この夜襲計画の詳しい経過は軍記物語によるものである。
『吾妻鏡』には、平家が大規模な夜襲を企てたという具体的な記事は見られない。
平家はその後も海上に船団を残していた。
義経も追撃を終えず、屋島の東にある志度方面へ軍勢を進めていく。
二月二十一日、志度への追撃
『吾妻鏡』元暦2年2月21日条には、屋島から退いた平家方が讃岐国の志度の道場に籠もったと記されている。
志度は現在の香川県さぬき市志度周辺にあたる。
屋島の東に位置し、瀬戸内海に面した地域である。
義経は80騎を率いて志度へ向かったという。
『平家物語』巻第十一「志度合戦」でも、義経が80余騎を選んで追撃したと描かれている。
平家方は義経の軍勢が少ないことを知り、再び上陸して戦おうとしたと伝わる。
しかし、源氏方の援軍が現れると、大軍が続いてくると考え、再び船へ退いたという。
この戦闘の詳しい描写は『平家物語』によるものだが、義経が志度方面へ追撃したことは『吾妻鏡』にも記されている。
屋島で内裏を失った平家は、志度でも源氏方の追撃を受けた。
そして、このころから平家に従っていた四国の武士たちの動きも変わり始める。
田内左衛門尉の降伏
『吾妻鏡』2月21日条には、平家方の田内左衛門尉が義経に降伏したと記されている。
田内左衛門尉は、阿波民部重能の一族として知られる。
『平家物語』では田内左衛門教能という名で登場する。
教能は平家方として伊予国の河野氏と戦っていたと伝わる。
屋島の敗北後、平家の勢力は四国で弱まり始めていた。
『平家物語』では、伊勢三郎義盛が教能のもとへ向かい、平家が滅亡したかのような偽りの情報を伝えて降伏させたという話が残る。
ただし、その説得の詳しい経過は軍記物語によるものである。
『吾妻鏡』から確認できるのは、田内左衛門尉が義経方へ帰伏したことである。
平家に従っていた有力武士が義経方へ移ったことは、四国の勢力関係にも影響を与えた。
屋島を失った平家は、周辺の武士たちからの支援も次第に得にくくなっていった。
河野通信、三十艘の兵船を率いて加わる
同じ2月21日、『吾妻鏡』には伊予国の河野四郎通信が義経方へ加わったことも記されている。
河野通信は、伊予国を本拠とする河野氏の有力武士だった。
河野氏は瀬戸内海の海上交通に関わり、船団を率いて活動していた一族である。
通信は以前から源氏方に心を寄せ、平家方と対立していた。
このとき通信は、30艘の兵船を率いて義経の軍勢に加わったという。
義経は少数の先発船団で阿波へ渡り、屋島の内裏を焼くことに成功した。
しかし、海上へ退いた平家の船団を追うには、さらに多くの船が必要だった。
河野通信の加勢によって、義経方は新たな海上戦力を得ることになった。
一方、平家は四国での重要な拠点を失い、味方の武士たちも減っていった。
屋島の戦いの後、源氏方は西へ退いた平家を追うため、船団を集めていく。
梶原景時ら百四十余艘が到着
元暦2年2月22日、梶原景時ら東国の武士たちが屋島へ到着した。
『吾妻鏡』には、その船数が140余艘だったと記されている。
景時は頼朝に従う有力武士で、一ノ谷の戦いなどにも参加していた。
『平家物語』では、渡海を前に義経と逆櫓をめぐって対立した人物として描かれている。
その景時らが屋島へ到着したのは、義経が内裏を焼いた3日後だった。
義経はすでに屋島を攻撃し、志度方面へ追撃していた。
『平家物語』には、遅れて到着した景時を義経が皮肉ったという逸話も残る。
ただし、その会話は軍記物語によるものである。
『吾妻鏡』では、景時らの船団が遅れて屋島へ到着したことが記録されている。
義経の先発隊とは別に進んでいた船団が、このころ四国へ到達したのである。
源氏方には河野通信の船団も加わっていた。
屋島で平家を退かせた義経は、今度は海上で追撃するための戦力を集めていた。
屋島を失った平家は西へ
屋島の敗北によって、平家は安徳天皇を奉じていた内裏を失った。
宗盛らは船に移り、さらに西へ退いた。
『平家物語』では、志度でも追撃を受けた平家が、行き場を失って海上をさまよう様子が描かれている。
しかし、長門国の彦島には平知盛の軍勢が残っていた。
平家は彦島を中心に船団を集め、最後の戦いに備えることになる。
九州にも山鹿秀遠や松浦党など、平家に従う武士たちがいた。
平家はなお海上で戦える兵力を持っていた。
ただし、福原に続いて屋島も失ったことで、陸上の重要な拠点は次々に失われていった。
四国では義経に降伏する武士が現れ、伊予国の河野氏も源氏方へ加わった。
一方、範頼軍は九州で平家方を追討し続けていた。
西国に残る平家の軍勢は、長門国の関門海峡方面へ集まっていくことになる。
最後の戦場、壇ノ浦へ
元暦2年3月24日、源平両軍は長門国の壇ノ浦で最後の決戦を迎えた。
壇ノ浦は現在の山口県下関市付近、関門海峡にあたる。
屋島の東麓にも檀ノ浦という地名が残るが、源平最後の海戦が行われた長門国の壇ノ浦とは別の場所である。
平家は山鹿秀遠や松浦党など、西国の水軍を集めて源氏方と戦った。
義経方にも河野通信らの船団が加わり、海上で激しい戦闘が繰り広げられた。
しかし、最後は源氏方が勝利した。
安徳天皇は海へ沈み、平家一門の多くの武将が命を落とした。
平知盛や平教盛らも、この戦いで最期を迎えた。
宗盛とその子の清宗は生け捕られた。
平家はここに滅亡する。
屋島の戦いから、およそ1か月後のことだった。
一ノ谷で敗れた平家は屋島へ退き、屋島で内裏を失うと、最後は長門国の海上で源氏軍を迎え撃った。
安徳天皇社に残る内裏の伝承
現在の高松市屋島東町には、安徳天皇社が残されている。
屋島の戦いの際、安徳天皇の内裏が置かれていた場所と伝わる神社である。
平家は寿永2年に屋島へ拠点を移し、安徳天皇を奉じていた。
元暦2年2月19日、義経軍はその内裏を攻撃し、焼き払ったと記録されている。
現在の安徳天皇社は、御所の跡を伝える場所として知られている。
ただし、内裏の正確な規模や建物の配置については、詳しい記録が残されていない。
現在の社殿も、当時の建物そのものではない。
また、屋島は国の史跡に指定されている。
昭和9年(1934年)11月10日に指定され、史跡には古代の屋嶋城や屋島寺のほか、源平合戦の古戦場も含まれている。
屋島の東麓には安徳天皇社のほか、佐藤継信や菊王丸に関わる石碑などが残されている。
佐藤継信と菊王丸の墓
高松市牟礼町には、佐藤継信の墓と伝わる場所がある。
継信は義経に仕え、屋島の戦いで討死した武士である。
『吾妻鏡』にも戦死と葬送の経過が記されている。
現在の墓所には、江戸時代に高松藩主となった松平頼重が建てた石碑が残されている。
高松市の文化財資料によれば、寛永20年(1643年)に松平頼重が新たな標石を建てた。
その後、正保2年(1645年)に池を築いた際、墓は現在の位置へ移されたという。
昭和6年(1931年)には、継信の子孫によって墓所の大規模な整備が行われた。
また、義経が継信の葬送に際して贈った大夫黒の墓と伝えられる石塔も残っている。
一方、屋島東麓には平家方の菊王丸の墓と伝わる場所がある。
『平家物語』によれば、菊王丸は教経に仕えた若い従者だった。
継信の首を取ろうとしたところ、弟の忠信に射られて命を落としたという。
菊王丸の最期の詳しい経過は『平家物語』によって伝えられたもので、実際の埋葬場所を確定できる同時代の記録は乏しい。
それでも屋島には、源氏方の継信と平家方の菊王丸、それぞれを弔う場所が残されている。
祈り岩と駒立岩
屋島の対岸にあたる高松市牟礼町には、那須与一の扇の的に関わる史跡が残されている。
祈り岩と駒立岩である。
祈り岩は、与一が扇を射る前に神仏へ祈った場所と伝わる。
駒立岩は、与一が馬を止め、海上の扇を狙った場所とされる。
駒立岩は、潮が引くと姿を現す岩として知られている。
この周辺には、義経が海へ落とした弓を拾ったと伝わる場所もある。
また、景清の錣引きに関わる伝承地も残されている。
いずれも『平家物語』の逸話と結びついて伝えられてきた史跡である。
与一が実際にどこから矢を放ったのか、義経がどこで弓を落としたのかを確定することは難しい。
しかし、屋島の戦いの物語は、現在の高松市に残る岩や地名、石碑とともに語り継がれている。
屋島に残された源平合戦の記憶
元暦2年2月19日、義経は屋島へ攻め込んだ。
『吾妻鏡』によれば、義経は少数の船で阿波国へ渡り、現地の案内役を得て山道を越えた。
そして屋島の対岸へ現れ、牟礼と高松の民家に火を放った。
宗盛らは安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。
その間に義経軍は屋島の内裏を焼き払った。
しかし、平家方も反撃し、海岸では戦闘が続いた。
その中で佐藤継信が討死した。
『平家物語』には、継信が義経の身代わりとなって平教経の矢を受けた話や、那須与一の扇の的、景清の錣引き、義経の弓流しなどが残されている。
戦闘の後、義経は志度方面へ退いた平家を追撃した。
田内左衛門尉が降伏し、河野通信は30艘の兵船を率いて義経方へ加わった。
さらに梶原景時らが140余艘の船団で屋島へ到着した。
義経は安徳天皇や宗盛を捕らえることこそできなかったが、平家を屋島から退かせた。
平家は船団を保ったまま長門方面へ向かい、最後の決戦に備えることになる。
その戦場が壇ノ浦だった。
屋島の戦いから約1か月後、源平両軍は関門海峡で激突した。
屋島で焼かれた内裏は、平家が安徳天皇を奉じ、西国で再起を図ってきた場所だった。
そこを失った平家は、さらに西の海へ退いていった。
現在の屋島東麓には安徳天皇社が残り、佐藤継信や菊王丸に関わる史跡が伝えられている。
対岸の牟礼には、那須与一の祈り岩や駒立岩、義経の弓流しに関わる場所が残る。
かつて平家の内裏が置かれた屋島と、義経が攻め込んだ対岸の海岸。
現在は四国本土と陸続きになった屋島の東麓に、源平両軍が戦った記録と伝承が残されている。
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