【人物編Vol.56】平清盛――武士で初めて太政大臣となった男が築いた「平氏の時代」

人物

第107回

治承4年(1180年)11月11日、数え3歳の安徳天皇が福原の新しい内裏へ入った。

京都を出てから、すでに5か月が過ぎている。天皇が最初に身を寄せたのは平頼盛の邸で、新しい御所はまだ影も形もなかった。ようやく内裏が整ったころ、東国では源頼朝が兵を集め、信濃では木曾義仲が動き、平氏の追討軍は富士川から引き返していた。

この新しい都を押し進めた平清盛は、数え63歳。

半世紀ほど前、大治4年(1129年)に12歳で官途へ入った少年は、保元・平治の二つの内乱をくぐり抜け、仁安2年(1167年)には太政大臣まで昇った。

娘の徳子を高倉天皇の中宮とし、その子・安徳天皇の即位によって天皇の外祖父にもなった。

平氏一門は公卿や受領を輩出し、西国には知行国と荘園が広がる。厳島神社には豪華な平家納経を奉納し、大輪田泊を改修して宋との交易を支え、福原には一門の邸宅が集まった。

清盛が築いたものは大きかった。

それだけに、最晩年の変化は激しい。

治承3年(1179年)には長男・重盛を失い、その4か月後には数千の兵を率いて京都へ入り、後白河法皇の院政を止める。翌1180年には以仁王と源頼政が挙兵し、頼朝や義仲も続いた。

6月に始まった福原への移転は11月に終わり、12月には南都への攻撃で東大寺・興福寺の堂塔が焼けた。

そして治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は内乱の行方を見届けないまま死去する。数え64歳だった。

『平家物語』を通して見る清盛は、「驕れる平家」を一身に背負う人物として現れる。実際の歩みはもっと複雑である。若いころから院に仕え、朝廷の官職を一段ずつ上がり、貴族社会の中へ深く入り込んだ。その仕組みを使って力を伸ばした清盛が、晩年には武力をもとに、朝廷の人事を組み替えるところまで進む。

その間に何があったのか。

1118年、平忠盛の子として生まれる

平清盛は元永元年(1118年)に生まれた。父は平忠盛、祖父は平正盛である。

この一族は桓武平氏の流れをくむ伊勢平氏で、正盛の代から白河院に仕えて勢力を伸ばした。

正盛は康和3年(1101年)に源義親の追討で名を上げ、忠盛も鳥羽院のもとで西国の国司を歴任する。清盛が生まれた時点で、平氏はすでに京都の院政と瀬戸内海沿岸の双方に足場を持っていた。

清盛の出生には、後世まで残る大きな謎がある。

白河法皇の落胤だったという説である。

『平家物語』には、白河院の寵愛を受けた祇園女御に関わる出生譚があり、13世紀に成立した『仏舎利相承系図』にも、祇園女御の妹が白河院の子を身ごもり、その女性が忠盛に与えられて清盛を産んだという趣旨の記述がある。

一方、系図類には母を藤原為忠の娘とする伝承もある。白河院が実父だったことを裏づける同時代の記録は残っていない。

保安元年(1120年)の『中右記』には、白河院周辺にいた忠盛の妻が亡くなった記事があり、この女性を清盛の母と結びつける説も出ている。落胤説は『平家物語』だけから生まれた単純な創作とも言い切れず、かといって事実と断定するところまでは進めない。

確かなのは、忠盛の家が白河・鳥羽院政と密接につながっていたことである。

大治4年(1129年)、清盛は従五位下に叙され、左兵衛佐となった。数え12歳。

ここから、60歳を越えるまで続く清盛の官歴が始まる。

忠盛から受け継いだ西国との結びつき

清盛の若い時代は、父・忠盛の活動と重なる。

保延元年(1135年)、忠盛が西国の海賊追討で功を立てると、その恩賞によって清盛は従四位下へ進んだ。数え18歳である。保延3年(1137年)には肥後守、久安2年(1146年)には安芸守となった。

肥後は九州、安芸は瀬戸内海西部に面する。

父の忠盛も備前、播磨など西国の国司を歴任し、瀬戸内海から九州へつながる交通と深く関わっていた。清盛はその人脈と経済基盤を引き継ぎ、さらに広げていく。

安芸守となった清盛と強く結びついたのが厳島神社である。

長寛2年(1164年)、平氏一門は法華経を中心とする33巻の「平家納経」を厳島神社へ奉納した。

金銀で飾った料紙、絵画、工芸をふんだんに用いた経巻で、現在も国宝として残る。

清盛の願文には長寛2年9月の年紀があり、彼自身の厳島信仰を伝える確かな資料でもある。

社殿の大規模な造営が行われたのは仁安3年(1168年)。神主・佐伯景弘の報告から、神殿などの規模を広げ、屋根の一部を檜皮葺に改めたことが分かる。

この造営には清盛の強い後援があり、現在につながる厳島神社の社殿配置の基礎がこの時期に整った。

武力だけで平氏の勢力が膨らんだわけではなかった。

国司として西国へ入る。寺社へ働きかける。海上交通を押さえる。

得た財を京都の官位や一門の活動へ結びつける。

忠盛の代に形を取り始めた動きが、清盛の時代にさらに大きくなっていく。

その一方、30歳の清盛は京都で大きな失敗も経験した。

1147年、祇園社の騒動で配流を求められる

久安3年(1147年)6月、清盛は祇園社へ田楽を奉納しようとした。現在の八坂神社である。

その場で清盛の郎等と祇園社の神人が衝突した。武装した郎等の入境をめぐって争いとなり、矢が社殿に当たり、負傷者も出たと同時代史料は伝える。

祇園社は延暦寺の末社にあたる。比叡山は強く反発し、清盛と父・忠盛の処罰を要求した。朝廷では配流まで議論され、延暦寺側は神輿を動かして圧力をかけようとする。

『平家物語』では清盛自身が神輿へ矢を射たかのような印象が強いが、『本朝世紀』『台記』などから確認できるのは清盛の郎等が起こした騒動である。

忠盛は下手人を差し出し、清盛には最終的に贖銅30斤が科された。京都から追われるところまでは至らなかった。

この事件で清盛が目の当たりにしたのは、大寺院が持つ政治力だった。神輿を掲げた強訴が朝廷の人事や裁定を左右し、武士の家の後継者であっても配流の危機に追い込まれる。

30年以上後、清盛は園城寺や興福寺を相手に軍勢を動かすことになる。その長い関係のおおもとに、祇園社の一件があった。

仁平3年(1153年)、父・忠盛が58歳で死去する。数え36歳の清盛が一門を率いる立場に移った。

保元・平治の乱――清盛が京都の武家の中心へ進む

忠盛の死から3年後、京都で保元の乱が起こった。

保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇の死を機に、崇徳上皇と後白河天皇、藤原頼長と藤原忠通らの対立が武力衝突へ進む。

清盛は後白河天皇方に加わり、同じ陣営には源義朝がいた。

清盛の叔父・平忠正は崇徳上皇方へ入った。

源氏でも義朝の父・為義、弟・為朝が崇徳方につく。

皇室も摂関家も武士も一族ごと二つに割れた戦いだった。

後白河方が勝利すると、忠正は処刑された。義朝も父・為義の処刑を命じられる。

勝った側の武士にも、重い後始末が残った。

清盛は戦後、播磨守となる。播磨は京都と西国をつなぐ瀬戸内海東部の要地で、肥後・安芸に続いて清盛の西国基盤を強める国となった。

3年後の平治元年(1159年)12月、今度は保元の乱で味方だった源義朝と戦う。

清盛が熊野参詣で京都を離れている間に、藤原信頼と義朝が兵を動かした。

信西は殺害され、後白河上皇と二条天皇も掌握される。

知らせを受けた清盛は帰京し、六波羅で情勢を見ながら反撃の機会を待った。

大きかったのは二条天皇の脱出である。

天皇は信頼・義朝方を離れ、清盛の六波羅へ入った。

後白河上皇も仁和寺へ移り、信頼方は天皇と上皇をともに失う。

清盛は朝廷側の軍事力として反撃し、義朝を京都から追い出した。

義朝は東国へ向かう途中で尾張にて殺害され、長男・義平も捕らえられて処刑。

13歳の頼朝は助命され、伊豆へ流された。

平治の乱のあと、京都で清盛と並ぶ規模の武家勢力はほとんど見えなくなる。

清盛自身の立場も大きく変わった。

50歳で太政大臣――武士が公卿社会の頂点へ入る

平治の乱後、清盛は急速に昇進した。

永暦元年(1160年)には正三位・参議となって公卿に列し、権中納言、権大納言を経て、仁安元年(1166年)には内大臣へ進む。

翌仁安2年(1167年)2月11日、太政大臣となった。数え50歳である。

武家の出身者が太政大臣に就いた前例はない。

もっとも、太政大臣在任は約3か月にとどまった。

清盛は5月に辞任し、翌仁安3年(1168年)2月には重病に倒れて出家する。法名は浄海。

死を覚悟した出家だったとみられるが、その後回復した。

官職を離れてからも影響力は衰えなかった。

むしろ清盛は、一門の官位、知行国、婚姻、家人を束ねる立場から政治を動かしていく。

このころから滞在が増えたのが摂津国福原、現在の神戸市兵庫区平野周辺である。

兵庫県立歴史博物館の整理では、仁安4年(1169年)春ごろから清盛は福原を主な居所とし、重要な用事があるときに京都へ上る生活を送ったとされる。

福原の南、約2.5キロの海辺には大輪田泊があった。

福原と大輪田泊――清盛が十年以上育てた海の拠点

大輪田泊は、清盛が一から造った港ではない。

古代から瀬戸内海航路の要所として使われ、弘仁年間には朝廷による修築も行われている。

弱点は東南からの風と波だった。船を安全に停泊させるには、港の外側を守る施設が必要になる。

清盛は大輪田泊を宋との交易に利用し、承安3年(1173年)ごろには私財を投じて改修を進めた。

港の前面に防波堤の役割を持つ人工島を築く工事も行われ、後に経ヶ島と呼ばれる。

『平家物語』には、人柱の代わりに一切経を書いた石を海へ沈めたので「経ヶ島」と呼ばれたという説話がある。松王丸の人柱伝説も後世に伝わった。現在の研究では島の正確な位置も工法も確定しておらず、伝説と港湾工事の実態は分けて見る必要がある。

福原の様子は発掘調査からも少しずつ見えてきた。祇園遺跡や楠・荒田町遺跡では、平安時代末期の建物、溝、園池、土器、中国製陶磁器などが出土している。

清盛の邸だけが置かれた山里ではなく、平氏一門や有力者の邸宅が集まる場所へ成長していた。

宋からは陶磁器、宋銭、書籍、薬品、香料などがもたらされ、日本からも交易品が海を渡った。

貿易の中心は博多にあったが、清盛は瀬戸内海航路の東端に近い大輪田泊を整え、京都に近い福原と海上交通を結びつけようとした。

1180年の福原遷都は、この土地と初めて関わった清盛が突然思いついた計画ではない。

少なくとも10年ほど前から、福原は清盛の生活と政治、海上交通が交わる場所になっていた。

妻の一族と娘たち――皇室・摂関家へ広がった平氏の縁

清盛の勢力を大きくしたもう一つの柱が婚姻だった。

清盛の妻・平時子の異母妹に平滋子がいる。

滋子は後白河上皇の寵愛を受け、応保元年(1161年)に憲仁親王を産んだ。仁安3年(1168年)、憲仁親王は数え8歳で即位し、高倉天皇となる。

清盛と高倉天皇の間に直接の血縁はない。

それでも、妻の妹が天皇の母となったことで、平氏と皇室の距離は一気に縮まった。

さらに承安元年(1171年)、清盛の娘・徳子が高倉天皇へ入内し、翌1172年には中宮となる。

摂関家との結びつきも強まった。

清盛の娘・盛子は摂政・近衛基実の妻となり、基実が永万2年(1166年)に死去した後、その家領や家政を伝領・管理する立場に置かれる。

清盛は皇室と摂関家の両方に娘を通じた足場を持った。

一門の男子も昇進していく。長男・重盛は内大臣、宗盛は右近衛大将、知盛や重衡らも公卿へ進み、弟の頼盛、教盛、経盛も要職に就いた。

『平家物語』が「一門の公卿十六人、殿上人三十余人」と誇張を交えて描くほど、1170年代の朝廷には平氏一門の名が並ぶようになった。

この時期、清盛と後白河院は基本的に協力関係を保っている。

高倉天皇の即位も徳子の入内も、院の政治と切り離して進められたものではなかった。

その関係を揺らしたのが、1176年から1179年にかけての出来事である。

滋子の死、鹿ケ谷事件――後白河院との距離が広がる

安元2年(1176年)7月、建春門院滋子が35歳で亡くなった。

滋子は高倉天皇の母であり、後白河院と平氏を結ぶ人物でもあった。

その死後、寺社への対応や人事、所領をめぐって清盛と院の摩擦が目立つようになる。

翌治承元年(1177年)には鹿ケ谷事件が起きた。

後白河院近臣の西光、藤原成親、俊寛らが処罰された事件で、『平家物語』は東山の鹿ケ谷で平氏打倒の密議が行われ、多田行綱の密告によって発覚したと描く。

「瓶子」を倒して「平氏が倒れた」と喜ぶ有名な酒宴も、この物語に含まれる。

同時代史料と近年の研究を合わせると、成親、西光らを最初から一枚岩の平氏打倒集団として描くのは難しい。

延暦寺をめぐる対立や院近臣同士の立場の違いも絡み、事件の経過は『平家物語』より複雑である。

処分は厳しかった。西光は処刑され、成親は備前へ流されたのち死亡。俊寛、平康頼、藤原成経らも鬼界ヶ島方面へ流された。

『平家物語』では、怒った清盛が後白河法皇を幽閉しようとし、長男・重盛が「君に忠ならんと欲すれば、父に孝ならず」と諫めて止めたことになっている。

清盛が実際に院政を止めるのは、その2年後である。

1179年、清盛は数千の兵を率いて京都へ入った

治承3年(1179年)、清盛は立て続けに身内を失う。

6月17日に娘・盛子が24歳で死去し、7月29日には長男・重盛も42歳で亡くなった。

盛子の死後には、近衛基実から伝わった摂関家領と家政を誰が握るのかが問題となった。

重盛の死後には、その家が長く知行してきた越前が10月に院分国へ移される。

同じころ、関白・松殿基房の子で数え8歳の師家が権中納言へ進み、清盛が支える近衛基通の立場も揺らいだ。

11月14日、清盛は福原から京都へ入る。『山槐記』は軍勢を数千と記している。

翌15日、関白・松殿基房が退けられ、20歳の近衛基通が関白となった。

17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、受領、検非違使ら多数が官職を失う。

20日、後白河法皇は鳥羽殿へ移された。

1158年に二条天皇へ譲位して以来、20年以上続いた後白河院政はここで止まる。

清盛は天皇も関白も太政官も廃していない。

高倉天皇を中心とする朝廷の枠組みを残しながら、後白河院と結びついた人々を大量に外し、平氏と近い人物へ入れ替えた。

軍勢を背景に、朝廷内部の人事と権力関係を一気に組み替えたのである。

保元の乱では後白河天皇方として戦い、その後の20年も院と協力しながら昇進してきた。

その清盛が、61歳で後白河院を政治の場から外した。

安徳天皇即位と福原遷都――頂点に立った年に全国が動き始める

治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位し、徳子の子・言仁親王が即位した。

安徳天皇。数え3歳、満1歳である。

清盛は天皇の外祖父となった。藤原摂関家が長く築いてきた位置へ、武士の家に生まれた人物が到達したことになる。

ところが、その春から情勢は崩れ始める。

後白河法皇の皇子・以仁王が平氏追討を呼びかけ、源頼政が加わった。

5月26日、宇治で平氏軍が勝利し、頼政は平等院で自害。以仁王も南山城で命を落とした。

その7日後の6月2日、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇らが京都を出て福原へ向かった。

清盛はまず大輪田泊を取り込む和田方面に新京を造ることを検討した。

ところが六甲山地と海に挟まれた地形は、平安京のような大規模な条坊都市を置くには狭い。

昆陽野や印南野も候補に挙がり、最終的には福原周辺で道路を開き、宅地を割り当て、内裏を造る方針へ進んだ。

移転当初、天皇の御所すら完成していない。

安徳天皇は頼盛の邸、高倉上皇は清盛の邸、後白河法皇は教盛の邸などに身を寄せた。

その最中、8月17日に伊豆の源頼朝が山木兼隆を襲撃する。

石橋山では敗れたものの安房へ逃れ、房総から武蔵へ進んで勢力を拡大した。

甲斐源氏も動き、信濃では木曾義仲が兵を集める。

10月、平維盛らの追討軍は富士川まで進出したが、大規模な決戦を行わないまま退却した。

11月11日、ようやく安徳天皇が福原の新しい内裏へ入る。

しかし、12日後の11月23日には福原を出発し、26日に京都へ戻った。

清盛が十年以上育ててきた福原を都へ押し上げる計画は、約170日で中断した。

南都焼討――寺社との衝突が最悪の形で終わる

京都へ戻ったあとも、清盛と寺社勢力の対立は続いた。

とくに興福寺は以仁王を支持する動きを見せ、その後も平氏への抵抗を強めていた。

清盛は奈良への軍事行動を決め、五男・平重衡らが南都へ向かう。

治承4年(1180年)12月28日、戦闘の中で火災が広がり、興福寺と東大寺の堂塔が次々に焼けた。

東大寺では大仏殿も炎に包まれた。

『平家物語』は、重衡方が夜戦の明かりを取るため民家へ火を放ち、風にあおられて寺院へ燃え移ったと描く。

どの段階まで焼失が意図されていたのかは史料によって見え方が異なり、重衡が最初から東大寺・興福寺全体の焼却を命じたと断定することはできない。

それでも、平氏軍の攻撃をきっかけに南都が大火となり、東大寺大仏殿まで失われた結果は変わらない。

1147年の祇園社騒動では、清盛は寺社側から配流を求められる立場にいた。

それから33年。最晩年の清盛は、一門の軍勢を南都へ送り込む立場に変わった。

その事件から2か月ほどで、清盛自身も病床に伏す。

1181年、清盛の死――「熱病」の最期はどこまで史実か

治承5年(1181年)正月14日、高倉上皇が21歳で亡くなった。

平氏と皇室を結ぶ中心にいた高倉上皇を失っても、戦いは止まらない。

東国では頼朝が鎌倉を拠点に勢力を広げ、信濃には義仲がいる。平氏は追討軍の再編を進めていた。

2月下旬、清盛が病に倒れる。

九条兼実の『玉葉』は2月27日、清盛が「頭風」を病んだと記した。その後、病状は急速に悪化する。

閏2月4日、平清盛は京都で死去した。数え64歳。

『平家物語』が描く最期は凄まじい。

清盛の体は火を焚いたように熱く、水をかけても湯になった。

妻・時子に対しては、葬儀も供養もいらない、頼朝の首を墓前に供えよと言い残したという。

同時代の記録から、そこまでの場面を再現することはできない。

『玉葉』などから分かるのは、清盛が急な病に倒れ、短期間で重体となって死去したことまでである。死因には熱病、感染症などさまざまな推測があるが、特定する材料はない。

清盛の死後、一門の中心に立ったのは三男・宗盛だった。重盛はすでに亡くなっている。

平氏はその時点で崩壊していない。京都の政権を維持し、西国にも多くの知行国、荘園、家人を持っていた。

しかし、清盛が築いた関係を同じ形で維持することは難しかった。

寿永2年(1183年)7月、木曾義仲の軍勢が京都へ迫ると、平氏は安徳天皇を伴って都を離れる。

元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦で平氏の主力は敗れ、安徳天皇も海へ沈んだ。

清盛の死から4年後である。

『平家物語』は、この結末を知る時代に成立した。

だから清盛の登場には、最初から滅びの影が差している。

「驕れる人も久しからず」という有名な言葉も、平氏の終焉を知った側から過去を振り返る構成の中に置かれた。

清盛本人が生きていた時間は、その物語より長く、入り組んでいる。

父・忠盛から院政との結びつきと西国の基盤を受け継ぎ、保元・平治の乱を勝ち抜いた。

朝廷の官位を一段ずつ上り、太政大臣となる。

厳島を支え、大輪田泊を整え、娘を中宮に送り、外孫を天皇へ押し上げた。

その一方で、晩年には長く協力してきた後白河院を政治から外し、軍勢を背景に朝廷の人事を変えた。1180年には福原へ天皇を移し、反抗する寺社へ軍を送る。

清盛の生涯には、途中から突然別の人物へ変わったような境目はない。

官位、婚姻、知行国、寺社、海上交通、軍事力――一つずつ手にしてきた力が大きくなり、その使い方も次第に大きくなった。

そして、その力を最も強く使った時期に全国の戦乱が始まった。

清盛は壇ノ浦を知らない。平氏が京都を離れる姿も見ていない。

彼が最後に見たのは、頼朝や義仲が各地で勢力を広げ、平氏がそれを押し戻そうとしている途中の日本だった。

その先を動かしたのは、平治の乱で命を助けられ、伊豆へ流されていた源頼朝である。

平清盛の生涯をさらに深く知りたい方には、高橋昌明『平清盛 福原の夢』がおすすめです。武士としての出世や平氏政権だけでなく、福原、大輪田泊、日宋貿易まで詳しく扱われており、清盛が晩年に何を目指していたのかを考えるうえでも読み応えのある一冊です。

 
増補 平清盛 福原の夢 (岩波現代文庫 学術482) [ 高橋 昌明 ]

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