第124回
寿永2年(1183年)11月、播磨国の室山。
源行家は数百騎を率い、西国で勢力を盛り返していた平氏軍と対峙した。
平氏が京都を離れてから、まだ4か月ほどしか経っていない。
5月の倶利伽羅峠の戦いで大敗し、7月には安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちした平氏だったが、西国へ退いた一門は軍勢を立て直していた。
閏10月には水島の戦いで木曾義仲方を破る。
そして11月、播磨へ進んできた源行家を迎え撃った。
九条兼実の日記『玉葉』によれば、京都を出発したときの行家軍は270余騎。
『吉記』では300余騎と記される。
一方、『平家物語』覚一本は、室山に集まった平氏軍を2万余騎、行家軍を500余騎と記している。
平氏はこの大軍を五つの陣に分けた。
第一陣が道を開ける。
第二陣も開ける。
第三陣、第四陣も行家軍を通した。
行家は敵陣を次々と突破しているように見えた。
その先で待っていたのは、平知盛率いる第五陣だった。
そして行家軍が平氏軍の奥深くへ入り込んだところで、それまで通過してきた四つの陣が一斉に反転する。
前には知盛。
後ろには重衡らの軍勢。
源行家は、平氏の大軍のただ中に取り込まれていた。
倶利伽羅峠の大敗――京都を離れた平氏
寿永2年(1183年)5月、平氏は北陸道へ大軍を送り込んだ。
その前に立ちはだかったのが木曾義仲だった。
5月11日の倶利伽羅峠の戦いで平氏軍は大敗。続く篠原の戦いでも敗れ、北陸道から京都へ退却した。
義仲軍はそのまま京都へ迫る。
7月25日、平宗盛を中心とする平氏一門は、安徳天皇と三種の神器を奉じて京都を離れた。
後白河法皇は平氏に同行せず、京都に残った。
7月28日には木曾義仲らが入京する。
京都における平氏の政治的・軍事的基盤は失われ、軍事的主導権は義仲らの手へ移った。
平氏一門は西国へ向かった。
平氏は長年にわたって瀬戸内海沿岸との結びつきを築き、海上交通にも大きな力を持っていた。
屋島などを重要な拠点としながら、四国・山陽道方面で兵力を集め、瀬戸内海を通じて勢力を立て直していく。
その反攻を示した戦いが、水島の戦いだった。
水島の戦い――平氏の反攻
寿永2年閏10月1日、備中国水島付近で平氏軍と木曾義仲方が激突した。
戦場となったのは瀬戸内海だった。
義仲方の軍勢は船で平氏軍に向かったが敗れ、足利義清ら有力武将が戦死した。
倶利伽羅峠から京都まで平氏を追ってきた義仲方が、西国で大きな敗北を喫したのである。
水島で勝利した平氏は、再び山陽道方面で存在感を強めていった。
その平氏を討つため、西へ向かったのが源行家だった。
源行家――墨俣川でも平氏と戦った男
源行家は源為義の子で、源頼朝の叔父にあたる。
治承4年(1180年)、以仁王が平氏追討を呼びかける令旨を発すると、行家はその令旨を各地の源氏へ伝えた。
伊豆の源頼朝をはじめ各地の源氏が兵を挙げるなか、行家自身も軍勢を率いて平氏と戦った。
養和元年(1181年)3月には、尾張国と美濃国の境を流れる墨俣川で平氏軍と激突する。
墨俣川の戦いである。
行家軍は夜襲を仕掛けたものの、平氏軍の反撃を受けて敗れた。
その後も行家は各地を転々としながら反平氏の戦いを続け、寿永2年には木曾義仲とともに京都へ入った。
ところが、やがて両者の関係は悪化する。
『玉葉』閏10月27日条には、義仲と行家が不和となっていたことが記されている。
水島で平氏が義仲方を破った直後のことである。
そして11月8日、行家は平氏を討つため京都を出発した。
「二百七十余騎」――行家、西へ向かう
行家が率いていた軍勢について、同時代の記録が残っている。
九条兼実の『玉葉』11月8日条では、
「二百七十余騎」
と記される。
270余騎だった。
兼実はその少なさについて「太だ少たり、如何」と記している。
『吉記』でも行家の軍勢は300余騎とされており、行家が数百騎ほどの兵力で京都を出発したことがわかる。
行家は播磨へ進んだ。
一方、平氏も播磨方面へ軍勢を展開していた。
両軍が激突したのが室山である。
現在の兵庫県たつの市御津町室津の室山付近には、室山合戦場跡と伝えられる場所が残っている。
行家が京都を出発してから、およそ3週間後の戦いだった。
平知盛と平重衡――室山で待ち受ける平氏
『平家物語』覚一本では、室山の平氏軍を率いる中心人物として新中納言平知盛と本三位中将平重衡が登場する。
知盛は平清盛の四男。
この後も平氏軍の中核として戦い、最後は壇ノ浦まで一門と行動をともにする。
重衡は清盛の五男だった。
行家にとっては、墨俣川の戦いでも敵として戦った相手である。
『平家物語』覚一本が記す室山の平氏軍は2万余騎。
対する行家軍は500余騎。
平氏はこの軍勢を一つに固めず、五つの陣に分けて行家を待ち構えた。
平氏2万余騎、五つの陣を敷く
『平家物語』覚一本では、平氏の布陣を次のように記している。
第一陣 越中次郎兵衛盛嗣 2,000余騎
第二陣 伊賀平内左衛門家長 2,000余騎
第三陣 上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清 3,000余騎
第四陣 本三位中将平重衡 3,000余騎
第五陣 新中納言平知盛 1万余騎
合計2万余騎。
行家軍は500余騎だった。
行家は、この平氏軍へ攻めかかった。
最初に待ち構えていたのは、盛嗣率いる第一陣である。
両軍が戦う。
やがて第一陣は左右へ分かれ、中央に道を開けた。
行家軍はその間を突き抜ける。
その先にいた第二陣も、同じように中央を開けて行家軍を通した。
第三陣も開く。
第四陣の重衡も行家軍を通した。
四つの陣を抜けた先に待っていたのが、知盛率いる第五陣、1万余騎だった。
行家軍は、この時点で平氏軍の奥深くまで入り込んでいた。
そして、それまで行家を通してきた四つの陣が動いた。
前には知盛、後ろには重衡――行家軍を包囲
第一陣から第四陣までの軍勢が反転した。
行家軍の背後が塞がれる。
前方には知盛の第五陣。
後方には重衡ら四つの陣。
『平家物語』が描く五段構えは、行家軍を平氏軍の内部へ誘い込み、取り囲む戦いだった。
行家も、自分たちが誘い込まれたことに気づく。
逃げ道を塞がれた行家軍は、包囲を突破するために戦った。
『平家物語』では、知盛方の紀七衛門、紀八衛門、紀九郎らが討たれたと伝えている。
行家自身も退かずに戦った。
しかし、四方から平氏軍に攻められた行家軍は、次第に兵を失っていった。
この包囲戦の細かな展開は『平家物語』に描かれたものである。
一方、行家軍が室山で平氏に大敗したことは、同時代史料にも記録されている。
「行家軍忽ち以て敗績」――京都に届いた敗報
12月2日。
京都にいた九条兼実のもとへ、室山での戦いの知らせが届いた。
『玉葉』12月2日条では、11月29日に平氏と行家が合戦したと記される。
そして、その結果について、
「行家軍忽ち以て敗績」
とある。
行家軍はたちまち敗れた。
さらに、行家の家子たちが多数討たれたことも記されている。
行家本人は生き延びた。
戦いの日付については史料によって違いがあり、『玉葉』は11月29日、『吉記』では11月28日の合戦として伝わる。
室山の戦いは、寿永2年(1183年)11月28日または29日に行われた。
500余騎から30騎――行家、室山を脱出
『平家物語』では、包囲された行家軍の退却も詳しく描かれている。
500余騎いた軍勢は、戦いのなかで次々と討たれていった。
最後に行家の周囲へ残ったのは30騎ほどだったという。
行家は残った兵とともに敵中へ突入し、平氏軍の包囲を突破した。
そのまま播磨国高砂まで退き、船に乗る。
海を渡って和泉国吹飯浦へ逃れ、さらに河内へ移って長野城へ入ったと『平家物語』は伝える。
室山で行家軍は壊滅的な敗北を喫した。
そして、この勝利によって平氏は西国でさらに勢いを増していく。
都落ちから4か月――平氏の動向
7月25日、平氏は京都を離れた。
11月末、その平氏が播磨で源行家を破った。
わずか4か月ほどの間に、戦況は大きく変わっていた。
閏10月の水島の戦いで木曾義仲方を破り、続く室山でも勝利する。
『玉葉』12月2日条には、このころ平氏が播磨国の室泊にいたとの情報も記されている。
京都を追われた一門は、瀬戸内海沿岸で軍勢を再編し、播磨まで勢力を伸ばしていた。
その動きは京都の政局にも影響を与えた。
木曾義仲、平氏との和睦を探る
室山の戦いが起きたころ、京都では木曾義仲も苦しい状況に置かれていた。
後白河法皇との対立を深めた義仲は、11月19日に法住寺殿を攻撃する。
法住寺合戦で勝利した義仲は後白河法皇を掌握したものの、政治的な孤立を深めていった。
東からは源頼朝が派遣した軍勢が近づいていた。
西では平氏が水島、室山と勝利している。
『玉葉』12月2日条には、義仲が播磨国室泊にいる平氏へ使者を送り、和親を求めたとの情報も記されている。
倶利伽羅峠で平氏軍を破り、京都から平氏を退かせた義仲が、その平氏との和睦を模索する。
数か月のうちに、源平をめぐる情勢はそこまで変化していた。
室山から一ノ谷へ
寿永3年(1184年)1月。
源範頼・源義経ら頼朝方の軍勢が京都へ進出した。
木曾義仲は敗走し、1月20日、近江国粟津で討死する。
京都を掌握した頼朝方が次に向き合う相手は、西国で勢力を立て直した平氏だった。
平氏は摂津国福原周辺に軍勢を展開し、一ノ谷を中心とする地域で源氏軍を迎える。
室山で戦った平知盛、平重衡らも、再び源氏軍と対峙することになる。
寿永3年2月7日。
源範頼・源義経らによる攻撃が始まった。
一ノ谷の戦いである。
倶利伽羅峠で大敗し、京都を離れた平氏は、水島で勝利し、室山でも源行家を破った。
その西国での反攻を象徴する一戦が、室山の戦いだった。
『平家物語』に描かれた五段構え。
敵を通し、さらに通し、軍勢の奥深くまで誘い込む。
そして四方から取り囲む。
室山で大敗した源行家が逃げ延びてから約2か月後、平氏は一ノ谷で、東国から送り込まれた源氏の大軍を迎えることになる。


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