【戦い・事件編】藤戸の戦い――海を渡った佐々木盛綱、浅瀬を教えた漁師の死

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戦い・事件

第142回

第142回

元暦元年(1184年)、備前国の藤戸。

海を挟んで、源氏と平家の軍勢が向かい合っていた。

現在の岡山県倉敷市にあたるこの一帯は、当時、海が深く入り込んだ場所だった。児島はまだ本州と陸続きになっておらず、両軍の間には藤戸の海峡が横たわっていた。

平家軍は児島側に陣を構え、船を浮かべて源氏軍を迎え撃とうとしていた。

一方、源氏軍には船が足りなかった。

『平家物語』巻第十「藤戸」によれば、平家方の武士たちは小舟を漕ぎ出し、扇を掲げて源氏方を挑発したという。

「ここ渡せ」

海を越えて攻めて来いというのである。

しかし、源氏の兵たちは容易に渡ることができなかった。

そこへ馬を進めた武士がいた。

佐々木三郎盛綱。

近江国出身の源氏方の武将である。

盛綱は家人たちを伴い、七騎で海へ乗り入れた。

浅い場所では馬の腹まで水に浸かり、深い場所では馬を泳がせながら進んだという。

『平家物語』によれば、その姿を見た源範頼は軍勢に渡海を命じた。

源氏方の武士たちは次々に海へ入り、平家の陣地へ攻め込んだ。

この戦いによって、盛綱は馬で海を渡り、先陣の手柄を立てた武将として名を残した。

しかし、『平家物語』には、もう一つの話が記されている。

盛綱は戦いの前夜、地元の漁師から馬で渡れる浅瀬を教えてもらったという。

そして、案内を終えた漁師を殺した。

ほかの武士にも浅瀬を教えられては、自分だけが先陣の手柄を立てられなくなる。

そう考えた盛綱が、口封じのために殺したと物語は伝えている。

漁師の名前は記されていない。

佐々木盛綱の先陣と、浅瀬を教えた漁師の死。

藤戸の戦いは、この二つの話とともに語り継がれている。

一ノ谷で敗れた平家は屋島へ

寿永3年(1184年)2月7日、平家は摂津国の一ノ谷で源氏軍に大敗した。

東の生田の森には源範頼の軍勢が攻め込み、西の一ノ谷方面では源義経らの軍勢が平家の陣地を破った。

平忠度、平敦盛、平経正、平通盛ら多くの一門の武将が討死し、平清盛の子である平重衡も生け捕られた。

平家は、都落ち後にようやく取り戻した福原周辺の拠点を失った。

宗盛や知盛ら生き延びた一門の武将たちは、船で讃岐国の屋島へ退いた。

しかし、安徳天皇と三種の神器は、なお平家の手中にあった。

屋島は瀬戸内海の航路に面した重要な拠点だった。

平家は西国の武士たちとの関係を保ち、船を利用して兵や物資を移動させることができた。

その海上戦力が、源氏軍の追討を妨げていた。

一ノ谷で勝利した源氏も、海の向こうに退いた平家をすぐには攻撃できなかった。

屋島へ渡るには船が必要だった。

さらに西国では、平家方の武士たちが各地に残っていた。

源氏軍が山陽道を西へ進めば、そうした軍勢と戦うことになる。

東国から大軍を送るためには、兵糧の確保も欠かせなかった。

一ノ谷の勝利から数か月。

平家は屋島を拠点に抵抗を続け、源氏方は次の遠征に向けて軍勢を整えていた。

源範頼、平家追討のため西国へ

元暦元年9月、源範頼が平家追討のため西国へ向かった。

範頼は源頼朝の弟で、一ノ谷の戦いでは大手軍の大将を務めた武将である。

今回も頼朝の命を受け、東国の有力武士たちを率いて西へ進軍した。

『平家物語』では、範頼が9月12日に京都から出陣したと記している。

一方、『吾妻鏡』9月12日条には、同月1日に出発したとの報告が見える。

同書の翌年1月6日条では、前年9月2日に京都を出発したとされており、出陣日には記録上の違いがある。

範頼が9月上旬に西国へ向かったことは、これらの記述から知られる。

『平家物語』に登場する範頼軍の武将には、足利義兼、北条義時、土肥実平、三浦義澄、畠山重忠、佐々木盛綱らがいた。

兵力は3万余騎とされるが、軍記物語に記された数字であり、実際の動員人数は明らかでない。

範頼軍は山陽道を西へ進み、播磨国から備前国方面へ向かった。

その先には、平家の拠点である屋島があった。

しかし、東国の武士たちを率いての西国遠征は容易ではなかった。

軍勢が進むほど、兵糧を運ぶ距離も長くなる。

また、備前からさらに西へ向かうには、瀬戸内海の島々や沿岸に残る平家方への対応も必要だった。

範頼軍は各地で平家を追討しながら、山陽道を進むことになった。

児島に陣を構えた平家軍

備前国の児島は、現在の岡山県倉敷市南部にあたる。

今では児島半島として本州と陸続きになっているが、平安時代末期には海に囲まれた島だった。

本州側との間には藤戸海峡が広がっていた。

周辺には浅瀬や小島が点在し、潮の満ち引きによって水深も変わっていた。

平家はその児島に軍勢を配置した。

藤戸海峡を挟んで敵を迎え撃てば、陸上を進んできた源氏軍の動きを止められる。

平家方には船があり、海上から攻撃することもできた。

また、児島周辺は屋島と本州側を結ぶ瀬戸内海の交通に関わる場所でもある。

平家がこの一帯を確保しておくことは、西国での軍事行動を続けるうえで意味があった。

一方、源氏軍も児島に残る平家軍を放置できなかった。

山陽道を西へ進んでも、児島の平家軍が背後に残れば、連絡や輸送を脅かされる恐れがある。

両軍は、児島をめぐって戦うことになった。

平行盛が守った児島の陣地

『吾妻鏡』元暦元年12月7日条には、平家の左馬頭行盛が500余騎を率い、備前国児島に城郭を構えたと記されている。

平行盛は、平清盛の子である平基盛の長男だった。

清盛の孫にあたり、平家一門の公達として官職を得ていた人物である。

父の基盛は早くに亡くなっていたが、行盛は平家一門の武将として活動を続けた。

また、和歌にも優れていた。

平家の都落ちに際し、藤原定家へ歌を託したという記録も知られている。

その行盛が、児島に陣を構えて源氏軍を迎え撃いたと『吾妻鏡』は伝えている。

一方、『平家物語』では、藤戸に現れた平家方の大将として別の人物たちが登場する。

平資盛、平有盛、平忠房らである。

資盛と有盛は、清盛の嫡男・平重盛の子にあたる。

忠房も平家一門の公達だった。

さらに侍大将として、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らの名が挙げられている。

兵力についても、『平家物語』では500余艘の兵船と記されている。

『吾妻鏡』の500余騎とは、軍勢の数え方も異なる。

両書で指揮官の名前が違う理由や、実際の兵力については明らかでない。

ただ、児島側に平家軍が陣取り、海を利用して源氏の進撃を妨げていたことは共通している。

佐々木盛綱、頼朝の挙兵から従った武士

藤戸で先陣の手柄を立てた佐々木盛綱は、近江国佐々木荘にゆかりを持つ武士である。

父は佐々木秀義。

盛綱はその三男とされ、兄弟には定綱や高綱らがいる。

佐々木氏は宇多源氏の一族で、源頼朝が伊豆国に流されていたころから頼朝と関係を持っていた。

治承4年(1180年)、頼朝が挙兵すると、佐々木氏の兄弟もこれに加わった。

頼朝の挙兵直後、佐々木氏の武士たちは伊豆国の目代・山木兼隆の襲撃にも参加している。

その後、石橋山の敗戦を経ても、佐々木氏は頼朝方として活動を続けた。

盛綱も頼朝に従い、各地の軍事行動に加わった。

『吾妻鏡』では、藤戸の戦いにおける盛綱を、頼朝の使者として児島の平家軍を攻めた人物と記している。

一方、『平家物語』では、範頼の西国遠征軍に加わった武士として登場する。

盛綱は範頼軍の中で、先陣を争う立場にあった。

そして藤戸で、後世まで語られる武功を立てることになる。

海を隔てて対峙する源平両軍

『平家物語』によれば、源氏軍は備前国の西河尻藤戸に陣を取った。

児島側には平家の船団がいた。

両軍の間には、海が広がっていた。

その距離は『平家物語』の伝本によっても記述が異なり、五町や二十五町などの数字が伝わっている。

一方、『吾妻鏡』は、盛綱が渡った海路を三町余と記している。

一町は約109メートルなので、三町なら約330メートルになる。

ただし、これらの数字から実際の海峡の幅を確定することはできない。

当時の海岸線は現在と大きく異なり、浅瀬の位置も潮の状態によって変化していた。

また、両軍の陣地の距離と、実際に盛綱が渡った経路が同じだったとも限らない。

源氏軍にとって差し迫った問題は、対岸へ渡る手段がないことだった。

『平家物語』によれば、9月25日の辰の刻ごろ、平家方の武士たちが小舟を漕ぎ出したという。

辰の刻は、おおむね午前7時から9時ごろにあたる。

武士たちは船の上で扇を掲げ、源氏方へ呼びかけた。

「ここ渡せ」

海を渡って攻めて来いという挑発だった。

源氏方は大軍を率いていたが、船がなければ対岸へ進めない。

無理に馬を海へ入れれば、深みに足を取られる。

泳いで渡る途中で敵の矢を受ける恐れもあった。

平家方の武士たちは、船のない源氏軍を前に、海上から挑発を続けたという。

盛綱が呼び寄せた浦の男

『平家物語』によれば、9月25日の夜、盛綱は藤戸の浦に住む男を一人呼び寄せた。

男は、地元の海をよく知る人物だった。

盛綱は直垂や小袖、大口、白鞘巻などを与え、馬で海を渡れる場所がないか尋ねたという。

すると男は、海辺に住む者は多いが、浅瀬の位置まで詳しく知っている者は少ないと答えた。

自分ならよく知っているという。

男の話では、藤戸の海には川の瀬のように浅くなった場所があった。

その浅瀬は月の初めと終わりで位置が変わり、月の初めには東側、月末には西側にあるという。

潮の満ち引きによって、渡りやすい場所が変化する海だった。

男は、浅瀬を選べば馬でも容易に渡れると話した。

盛綱は喜んだ。

船がなくても、対岸へ攻め込めるかもしれない。

しかし、男の話だけで軍勢を動かすわけにはいかなかった。

盛綱は、実際に浅瀬を調べてみることにした。

夜の海へ入った盛綱と漁師

盛綱は男と二人で、人目を避けて海へ向かった。

『平家物語』では、二人が裸になって海へ入り、浅瀬を調べたと記している。

水深は場所によって異なっていた。

膝までの深さのところもあれば、腰や肩まで水に浸かるところもあった。

さらに深い場所では泳ぎ、再び浅瀬へ上がったという。

男は、南側の方が北側よりも浅くなっていると教えた。

ただし、対岸には平家の武士たちが待っている。

裸のまま敵の陣地へ近づけば、矢を射かけられる恐れがあった。

男は盛綱に、これ以上は危ないと告げた。

そして引き返すよう勧めたという。

盛綱もその言葉に従った。

二人は海を渡り切らず、途中から引き返すことになった。

盛綱は、馬で進める場所を確かめた。

翌朝、その浅瀬を使えば、船を待たずに平家の陣地へ攻め込める可能性があった。

しかし、盛綱は帰り道で別のことを考え始めたという。

案内してくれた男も、浅瀬の場所を知っている。

もし、ほかの武士に同じ場所を教えたらどうなるか。

「我ばかりこそ知らめ」

『平家物語』は、盛綱が男を殺した理由を次のように記している。

「我ばかりこそ知らめ」

自分だけが知っていればよい。

盛綱は、男がほかの武士にも浅瀬を教えることを恐れたという。

もし別の武士が先に渡れば、自分が先陣の手柄を立てられなくなる。

そこで盛綱は、男を刺し殺した。

さらに首を切って捨てたと伝えられている。

男は、盛綱に頼まれて浅瀬を案内した。

報酬として衣服なども受け取っていた。

しかし、その知識をほかの武士にも教えられることが、盛綱には都合が悪かった。

『平家物語』では、男の名前を記していない。

何歳だったのか、家族がいたのか、どのような生活を送っていたのかもわからない。

後世の伝承には、遺体を海へ沈めたという話もある。

ただし、『平家物語』の本文では、盛綱が男を刺し殺し、首を切って捨てたと記されている。

遺体を海へ沈めたという経過は、後の能『藤戸』などで詳しく描かれる内容である。

また、『吾妻鏡』には、盛綱が漁師から浅瀬を教わった話も、殺害した話も見られない。

漁師殺害の詳しい経過を伝えているのは、『平家物語』である。

実際に男が殺されたのか、盛綱がどのような行動を取ったのか、同時代の記録からは確かめられない。

しかし、この逸話は盛綱の先陣の手柄とともに、長く語り継がれることになった。

七騎で海へ乗り入れた盛綱

『平家物語』によれば、翌9月26日の辰の刻ごろ、平家方の武士たちは再び小舟を漕ぎ出した。

そして前日と同じように扇を掲げ、源氏方を挑発したという。

「ここを渡せ」

そのとき、佐々木盛綱が馬を進めた。

盛綱は家子や郎党を伴い、七騎で海へ入った。

前夜に調べた浅瀬を進もうとしたのである。

しかし、大将の源範頼は盛綱の行動を見て驚いた。

まだ渡海を命じていなかったからである。

範頼は、盛綱を止めるよう命じたという。

そこで土肥次郎実平が馬を走らせ、盛綱に追いついた。

実平は、大将の許可もないまま海へ入るのは無謀だと呼びかけた。

しかし、盛綱は止まらなかった。

『平家物語』では、実平も制止することができず、そのまま盛綱に続いて海へ入ったと伝えている。

浅い場所では馬の胸や腹まで水に浸かった。

深い場所では鞍のあたりまで水が達した。

馬を泳がせなければ進めない場所もあったという。

それでも盛綱たちは前へ進んだ。

陸上で見守っていた源氏の武士たちにも、盛綱が海を渡れる場所を知っていることがわかり始めた。

範頼が命じた渡海

『平家物語』によれば、盛綱が進んでいく姿を見た範頼は、海が浅いことを知った。

そして軍勢に渡海を命じたという。

「渡せや、渡せ」

源氏の武士たちは、次々に海へ入った。

『平家物語』では、このとき3万余騎の軍勢が渡ったと記している。

ただし、実際にどれほどの人数が渡ったのかは明らかでない。

軍記物語に記された兵力を、そのまま実数として扱うことは難しい。

海峡の幅や浅瀬の広さも確定しておらず、全軍が同じ経路を一斉に渡ったのかどうかもわからない。

それでも、盛綱が先陣を切って海へ入り、その後に源氏方の攻撃が続いたというのが『平家物語』の描く藤戸の戦いである。

平家方の武士たちは、船のない源氏軍を挑発していた。

その源氏軍が、馬に乗ったまま海を進んできた。

平家方も、ただ見守っていたわけではなかった。

船を押し出し、弓をそろえて迎え撃ったという。

『吾妻鏡』が記す盛綱の渡海

佐々木盛綱が海を渡ったことは、『吾妻鏡』にも記されている。

元暦元年12月7日条である。

そこでは、平家の左馬頭行盛が500余騎を率い、備前国児島に城郭を構えたとある。

盛綱は頼朝の使者として、行盛の陣地を攻めに向かった。

しかし、海が行く手を遮っていた。

盛綱は浜辺で馬を止め、渡る方法を考えていたという。

そのとき、対岸の行盛が盛綱を盛んに招いた。

渡れるものなら渡ってみろという挑発だった。

盛綱は船を待たず、馬のまま海へ入ることを決めた。

『吾妻鏡』では、盛綱が渡った海路を三町余と記している。

また、同行した六人の郎従の名前も残されている。

志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、与野太郎、橘三、橘五である。

盛綱を含めて七騎となる。

『平家物語』でも七騎で渡ったと記しており、この点は一致している。

一方、『吾妻鏡』には、盛綱が漁師から浅瀬を教わった話は登場しない。

範頼が盛綱を止めようとしたことや、土肥実平が後を追ったという話も記されていない。

『吾妻鏡』は、盛綱が六人の郎従を伴って海を渡り、対岸へ上陸して平行盛を敗走させたと簡潔に伝えている。

『平家物語』と『吾妻鏡』では、同じ盛綱の渡海でも、描かれている経過には違いがある。

海上で激突した源平両軍

『平家物語』によれば、源氏の軍勢が海へ入り始めると、平家方も船を押し出した。

平家の武士たちは弓をそろえ、渡ってくる源氏方へ矢を放ったという。

馬で海を渡る武士たちは、足場の悪い水中で敵の矢を受けることになった。

それでも源氏方は進撃を続けた。

『平家物語』は、武士たちが兜の錣を傾けて矢を防ぎ、平家の船へ乗り移ろうとしたと描いている。

船に取りついた武士たちは声を上げ、敵と激しく戦った。

船が沈み、海へ落ちる者もいたという。

平家方は船を使い、海上から源氏軍を防ごうとした。

しかし、騎馬で海へ入った源氏方の攻撃を止めることはできなかった。

戦闘は長く続いた。

『平家物語』では、一日中戦い、夜になって平家の船が沖へ退いたと記されている。

源氏方は児島へ上陸し、人馬を休ませた。

そして翌朝、平家方は讃岐国の屋島へ向かって退却したという。

源氏軍はさらに追撃しようとしたが、船がなかった。

海岸近くの浅瀬を馬で渡ることはできても、沖へ退いた船団を追いかけることは難しかった。

一方、『吾妻鏡』では、盛綱が対岸に上陸し、行盛を追い落としたことが記されている。

両軍の死傷者数や、実際に戦闘が続いた時間については、詳しい記録が残されていない。

藤戸の戦いは九月か、十二月か

藤戸の戦いの日付には、史料によって違いがある。

『平家物語』巻第十「藤戸」では、9月25日に平家方の武士たちが源氏軍を挑発したと記している。

その夜、盛綱は漁師から浅瀬を教わり、翌26日に渡海したという。

一方、『吾妻鏡』が藤戸の戦いを記すのは、元暦元年12月7日条である。

そこには、平行盛が児島に城郭を構え、盛綱が馬で海を渡って攻めたと記されている。

両書の日付には、2か月以上の隔たりがある。

『日本歴史地名大系』などでは、『吾妻鏡』に従って12月7日の合戦として扱われている。

ただし、『吾妻鏡』も鎌倉時代に編纂された歴史書であり、すべての記事が出来事の起きた当日に書かれたものではない。

『平家物語』も複数の系統の本文が伝わっており、細かな記述に違いがある。

合戦の日付を確定するには、こうした史料の性格を踏まえる必要がある。

また、平家方の指揮官にも違いが見られる。

『平家物語』では平資盛や平有盛らが登場し、『吾妻鏡』では平行盛が軍勢を率いたと記されている。

兵力も500余艘と500余騎で異なる。

これらの記述を一つにまとめて、実際の両軍の布陣を詳しく復元することは難しい。

ただ、藤戸で源平両軍が戦い、佐々木盛綱が馬で海を渡ったという経過は両書に共通している。

この渡海が盛綱の代表的な武功となったことも、後世の記録から知られている。

藤戸で勝利した源氏軍、その後の遠征

藤戸で平家軍を破ったことは、源氏方にとって一つの戦果となった。

しかし、平家の主要な拠点である屋島は、なお残っていた。

『平家物語』によれば、平家の船団は藤戸から屋島へ退却した。

源氏方は追撃を望んだものの、船が足りずに攻め続けることができなかったという。

これは、当時の源氏軍が抱えていた問題でもあった。

陸上では大軍を動かすことができても、海を渡るには船が必要になる。

遠く離れた西国で軍勢を維持するには、兵糧も欠かせなかった。

藤戸の戦いの前後、範頼軍はこうした問題に苦しんでいた。

『吾妻鏡』元暦2年(1185年)1月6日条には、前年11月14日に範頼が出した書状が鎌倉へ届いたことが記されている。

その書状では、兵糧が不足し、兵たちの間で統制が乱れていると訴えられていた。

東国の武士たちは長い遠征に疲れ、故郷へ帰りたいと望む者も増えていた。

範頼は頼朝へ援助を求めた。

この書状は11月14日付であり、『吾妻鏡』が藤戸合戦を記す12月7日より前に出されたものである。

それでも、西国遠征の途中で範頼軍がどれほど兵糧に苦しんでいたかがわかる。

頼朝は範頼へ返書を送り、兵たちを落ち着かせるよう命じた。

また、九州の武士たちと協力し、軍勢を慎重に動かすよう求めている。

屋島にいる安徳天皇や平家の女性たちについても言及し、天皇を無事に迎え取ることを重視していた。

範頼軍の西国遠征では、平家軍との戦闘に加え、船や兵糧の調達が大きな課題になっていた。

範頼軍、船を確保して豊後国へ

元暦2年1月、範頼軍は長門国の赤間関方面まで進んでいた。

しかし、九州へ渡るための船が足りなかった。

『吾妻鏡』1月12日条には、範頼軍が兵糧と船を欠き、進軍できずにいた様子が記されている。

東国の武士たちの中には帰還を考える者もいた。

範頼は、九州の武士たちの協力を得ようとした。

豊後国の臼杵惟隆、緒方惟栄らである。

彼らはかつて平家に対抗したこともある武士たちだった。

範頼はその協力によって、九州へ渡るための船を集めようとした。

1月26日、惟隆や惟栄らは82艘の兵船を提供した。

さらに周防国の宇佐那木遠隆が兵糧米を差し出した。

『吾妻鏡』は、こうした援助を受けて範頼軍が豊後国へ渡ったと記している。

船と兵糧を得たことで、源氏軍はようやく九州方面へ進むことができた。

その後、範頼軍は九州の平家方と戦い、西側から平家の退路を圧迫していく。

一方、四国の屋島には、なお平家の軍勢が残っていた。

そこへ向かうのが源義経である。

義経による屋島への攻撃

元暦2年2月、義経は屋島の平家軍を攻撃するため、摂津国から船を出した。

『吾妻鏡』によれば、義経は少数の船で阿波国へ渡り、四国へ上陸したという。

義経軍は阿波国から讃岐国へ進み、2月19日に屋島の平家軍を急襲した。

平家方は源氏の大軍が攻めてきたと思い、安徳天皇や一門の人々を船へ移したという。

その後、屋島周辺で両軍の戦闘が続いた。

この戦いでは、佐藤継信の戦死や、那須与一による扇の的の逸話が知られている。

『平家物語』には、船上に掲げられた扇を与一が射落とした場面が詳しく描かれている。

屋島で敗れた平家は、さらに西へ退いた。

そして同年3月24日、長門国の壇ノ浦で最後の決戦を迎えることになる。

一ノ谷から屋島へ至るおよそ1年間。

源氏方は山陽道を西へ進み、各地の平家方と戦いながら、九州と四国の両方面から追討を続けていた。

藤戸の戦いは、その途中で行われた合戦だった。

盛綱に与えられた児島の所領

藤戸で先陣を果たした佐々木盛綱は、その功績によって備前国児島を与えられたと伝わる。

『平家物語』には、馬で海を渡った盛綱の手柄をたたえ、児島を与えたことが記されている。

さらに、鎌倉殿の御教書にもその功績が記されたという。

盛綱は頼朝の挙兵以来、源氏方の武士として活動してきた。

藤戸での渡海は、その軍功を代表する出来事となった。

その後も盛綱は鎌倉幕府のもとで活動し、各地に所領を持つ武士として知られるようになる。

しかし、盛綱が藤戸の戦いでどのような行動を取ったのかについては、『平家物語』と『吾妻鏡』で描かれ方が異なる。

『吾妻鏡』は、盛綱が馬で海を渡り、平行盛を敗走させたと記している。

『平家物語』には、それに先立つ漁師殺害の逸話が残された。

盛綱がこの件で処罰を受けたことを示す確かな記録は確認できない。

やがて、この漁師の話は能の題材となり、後世の人々に広く知られるようになった。

能『藤戸』に登場する漁師の母

藤戸の戦いを題材とする能に、『藤戸』という作品がある。

『平家物語』巻第十の藤戸合戦をもとにした演目で、現在も能楽五流で演じられている。

作品は、源平の戦いが終わった後から始まる。

佐々木盛綱は藤戸での軍功によって児島の領地を与えられ、新たな領主として現地へ赴く。

盛綱は土地の人々に、訴えがあれば申し出るよう命じた。

そこへ一人の老女が現れる。

藤戸の戦いの前に、盛綱が殺した漁師の母だった。

老女は、息子が殺されたことを涙ながらに訴える。

そして、盛綱へ息子を返してほしいと迫った。

盛綱は、かつて漁師から浅瀬の場所を教えてもらったことを認める。

さらに、その男がほかの武士にも浅瀬を教えるのを恐れて殺したことを語る。

母親は息子を返してほしいと繰り返した。

しかし、息子はすでに亡くなっている。

母親は、息子と同じように自分も殺してほしいとまで訴える。

能『藤戸』では、盛綱の前に現れた母親の悲しみが詳しく描かれている。

『平家物語』に名前も記されなかった漁師が、能の中では残された母親の言葉を通じて語られるようになった。

盛綱の前に現れた漁師の亡霊

能『藤戸』では、母親が立ち去った後、盛綱が漁師の供養を行う。

盛綱は僧を集め、法要を営んだ。

その場へ、殺された漁師の亡霊が現れる。

亡霊は、自分が殺されたときの苦しみを語り、盛綱を恨んだ。

能では、漁師の遺体が海へ沈められたという話も詳しく描かれる。

盛綱は、漁師の死を悼み、供養を続けた。

やがて亡霊は、その供養を受けて成仏したと伝わる。

『平家物語』では、漁師は盛綱へ浅瀬を教えた後に殺される人物として登場する。

一方、能『藤戸』では、漁師の母親が直接盛綱へ訴えかけ、後半には漁師自身の亡霊も現れる。

盛綱が先陣の手柄を立てた合戦から、殺された漁師と残された母親の話へ。

藤戸の出来事は、能の中で新たな物語として描かれることになった。

笹無山に伝わる母親の恨み

藤戸の周辺には、漁師とその母親に関わる伝承が残されている。

その一つが笹無山である。

現在の倉敷市藤戸町天城にある小さな山で、藤戸合戦の伝承地として知られている。

地元に伝わる話では、盛綱に息子を殺された母親が深く恨んだという。

そして、「佐々木と聞けば笹まで憎い」と言い、山の笹をすべて抜いてしまったと伝わる。

佐々木という名前を聞くだけで、同じ音を持つ笹まで憎くなったという話である。

また、漁師が浅瀬を教える際、目印として笹を立てたことから母親が笹を憎んだという伝承も残る。

そのため、山には笹が生えなくなり、笹無山と呼ばれるようになったと伝えられている。

これらは後世に残された地名の由緒であり、実際に母親が笹を抜き取ったことを確かめられる記録はない。

しかし、漁師の死をめぐる話が土地の名前と結びつき、現在まで伝わっている。

藤戸合戦の史跡には、盛綱の武功をたたえる場所だけでなく、漁師とその母親に関わる場所も残されている。

藤戸寺に残る戦死者の供養

倉敷市藤戸町には、藤戸寺という寺院がある。

高野山真言宗の寺院で、奈良時代に行基によって創建されたという由緒を持つ。

藤戸合戦に関わる寺院としても知られている。

寺に伝わる話では、佐々木盛綱は戦いの後、源氏と平家の双方の戦死者を弔うため、大法要を営んだという。

また、自分が殺した漁師の霊も供養したと伝わっている。

境内には、鎌倉時代に造られた石造五重塔が残されている。

正式には「石造藤戸寺五重塔婆」といい、岡山県の重要文化財に指定されている。

塔は花崗岩で造られ、高さは約3.55メートル。

寛元元年(1243年)の銘が刻まれている。

藤戸の戦いから約60年後に造立された石塔である。

岡山県の文化財資料でも、藤戸合戦の戦死者を供養するために建てられた可能性が指摘されている。

ただし、造立の詳しい目的を確定することは難しい。

盛綱がどのような法要を営んだのかについても、同時代の記録は限られている。

藤戸寺には、源平両軍の戦死者や漁師を弔ったという伝承が受け継がれてきた。

経ヶ島に残された漁師の供養

藤戸寺の近くには、経ヶ島と呼ばれる場所がある。

現在は周囲が陸地になっているが、かつては海に浮かぶ小島だったと伝わっている。

この島にも、佐々木盛綱と漁師に関わる話が残されている。

藤戸合戦の後、盛綱が殺した漁師を弔うために写経を行い、その経を島に埋めたという伝承である。

そこから経ヶ島と呼ばれるようになったとされる。

現在、経ヶ島には二つの石塔が残されている。

そのうち小さい方が、漁師を供養するための塔と伝わる。

盛綱が実際に写経を埋めたことを確認できる同時代史料はない。

しかし、漁師の供養に関わる話は、藤戸寺だけでなく経ヶ島にも残されている。

『平家物語』に登場する一人の男の死が、土地の名前や石塔の由緒と結びつき、長く伝えられてきたのである。

盛綱が馬を進めた乗出岩

藤戸周辺には、盛綱の渡海に関係する史跡も数多く残されている。

その一つが、倉敷市有城にある乗出岩である。

佐々木盛綱が馬で海へ乗り入れた場所と伝えられている。

現在は周囲が陸地になっているが、平安時代末期には海岸に面した場所だったという。

また、倉敷市粒江には鞭木と呼ばれる史跡がある。

盛綱が海を渡る途中、馬を休ませた場所と伝えられている。

現在は住宅地の中にある小さな公園となっている。

その先には、先陣庵が残されている。

盛綱が海を渡り、児島側へ上陸した場所とされる。

後に戦死者や漁師の霊を弔うため、庵が設けられたという伝承がある。

ただし、盛綱が実際にどの地点から海へ入り、どの経路を進んだのかは明らかでない。

『吾妻鏡』と『平家物語』では、渡海した距離も異なっている。

さらに藤戸周辺は干拓によって地形が大きく変化しているため、当時の海岸線を現在の地形へ正確に当てはめることも難しい。

乗出岩や鞭木、先陣庵は、盛綱が海を渡ったという伝承を後世に伝える場所である。

盛綱橋に残る騎馬武者の像

現在の倉敷市藤戸町を流れる倉敷川には、盛綱橋が架かっている。

橋の近くには、馬に乗った佐々木盛綱の像が置かれている。

盛綱が藤戸の海を渡った姿を表したものである。

現在の盛綱橋は、平成元年(1989年)に架け替えられたものだ。

それ以前から、この場所には同じ名前の橋が架かっていた。

倉敷川が流れる一帯は、かつて藤戸海峡が広がっていた場所でもある。

現在の藤戸は、住宅地や道路、農地が広がる地域になっている。

かつて海だった場所も、長い年月をかけた干拓や地形の変化によって陸地となった。

今の盛綱橋から周囲を眺めても、源平両軍が海峡を挟んで対峙していた当時の地形を、そのまま見ることはできない。

しかし、橋には盛綱の名が残り、騎馬武者の像も立っている。

周辺には乗出岩や先陣庵など、盛綱の渡海を伝える史跡が点在している。

そして近くの藤戸寺や経ヶ島には、漁師と戦死者の供養に関わる伝承が残されている。

藤戸に残された盛綱と漁師の話

元暦元年(1184年)、備前国の藤戸で源平両軍は戦った。

一ノ谷で大敗した平家は、なお瀬戸内海に軍勢を残し、屋島を拠点として抵抗を続けていた。

源範頼の軍勢は山陽道を西へ進んだが、船や兵糧の不足に苦しんでいた。

その藤戸で、佐々木盛綱が馬で海を渡った。

『吾妻鏡』は、盛綱が六人の郎従を伴い、三町余の海路を渡って平行盛を敗走させたと記している。

一方、『平家物語』では、盛綱の渡海を見た範頼が軍勢へ海を渡るよう命じ、平家の船団へ攻め込んだという。

平家は児島を退き、屋島へ戻ったと伝わる。

源氏方は藤戸で勝利した後も西国遠征を続けた。

翌年には範頼が九州へ進み、義経は屋島の平家軍を攻撃する。

そして3月24日、壇ノ浦で平家は滅亡した。

佐々木盛綱は、藤戸で騎馬のまま海を渡り、先陣を果たした武将として名を残した。

しかし、『平家物語』には、その手柄に関わる漁師殺害の逸話も記されている。

浅瀬を案内した男は、ほかの武士にも道を教えることを恐れた盛綱によって殺されたという。

この話は後に能『藤戸』の題材となり、漁師の母親が盛綱の前に現れて息子を返してほしいと訴える場面が生まれた。

現在の倉敷市には、盛綱が海へ入ったと伝わる乗出岩、渡海を記念する盛綱橋、源平両軍の戦死者を供養したと伝わる藤戸寺が残されている。

経ヶ島には漁師の供養塔と伝わる石塔があり、笹無山には母親が笹を抜き取ったという話が残る。

盛綱の名は橋や石碑に刻まれ、騎馬武者の像としても残されている。

浅瀬を教えた漁師の名前は、今もわからない。

それでも、その男が殺されたという話は『平家物語』に記され、能『藤戸』では母親の悲しみとともに語り継がれている。

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