第152回
寿永2年(1183年)7月25日、京都。
木曾義仲の軍勢が迫るなか、平時忠は宮中へ駆けつけた。
安徳天皇は都を離れようとしていた。後白河法皇はすでに比叡山へ逃れている。平宗盛ら一門も、西国へ向かう準備を急いでいた。
時忠が取り仕切ったのは、神鏡と宮中の宝物の搬出だった。
吉田経房の日記『吉記』には、この日の時忠の働きが記録されている。
時忠は内侍所に安置されていた神鏡をはじめ、琵琶の名器「玄上」などを運び出させた。周囲にいた蔵人たちの多くは逃げ去っており、時忠が一人で搬出を指揮したという。
当時の時忠は正二位・権大納言。
平清盛の妻・時子の弟であり、安徳天皇の母方の大叔父にあたる人物だった。
清盛が朝廷で権勢を振るっていたころ、時忠も官位を重ね、検非違使別当を三度務めている。
『平家物語』には、その時忠が語ったという言葉が残された。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」
後世、「平家にあらずんば人にあらず」として知られる言葉である。
だが、京都を離れてから二年後、平氏は壇ノ浦で滅びた。
時忠は源氏方の捕虜となり、義経へ娘を嫁がせる。
そして文治元年(1185年)9月23日、能登国への流罪を受け、再び京都を去った。
かつて朝廷の人事を左右したとされる大納言も、源頼朝の判断を覆すことはできなかった。
時忠が流罪となったのは、これが三度目だった。
若いころには二度も出雲国へ流され、そのたびに京都へ戻っている。
政治的な失脚を繰り返しながら、蔵人頭、参議、権中納言、権大納言へと昇進した人物でもあった。
そして最後の流罪から約三年半後、能登で時忠が亡くなったという知らせが鎌倉へ届く。
『吾妻鏡』によれば、訃報を聞いた頼朝は、その死を惜しんだという。
平時信の子――清盛とは異なる平氏の家系
平時忠は、平安時代末期に平時信の子として生まれた。
生年には諸説がある。
山川出版社の『日本史小辞典』では大治2年(1127年)生まれとされる一方、『公卿補任』の年齢から逆算すると大治5年(1130年)生まれとなる。『吾妻鏡』に記された享年とも一致しない。
父の時信は鳥羽院に仕えた公家だった。
時忠の家は桓武平氏高棟流に属し、代々宮廷で官職を務めてきた。
清盛の家は桓武平氏の別系統にあたり、伊勢国などに勢力を広げた武士の家である。
時忠は清盛と同じ平姓を持っていたが、宮廷の官人として育った。
兄弟には平親宗、平時子、平滋子らがいる。
このうち時子は平清盛の正室となった。
宗盛、知盛、重衡、建礼門院徳子らを産んだ女性である。
もう一人の滋子は後白河上皇の寵愛を受け、のちの高倉天皇となる憲仁親王を産んだ。
建春門院と呼ばれる女性だった。
時忠と時子は同母姉弟とされ、滋子とは母が異なると考えられている。
時忠は姉の時子を通じて清盛と姻戚関係を結び、妹の滋子を通じて後白河上皇の宮廷にも近づいた。
武力を背景に勢力を伸ばす清盛。
院政を担う後白河上皇。
時忠は双方と深い関係を持ちながら、朝廷で官位を重ねていく。
ただし、若いころから高官に取り立てられたわけではなかった。
久安2年(1146年)に非蔵人となり、翌年には蔵人、大学助、左衛門尉などを歴任した。
久安4年には検非違使を兼ねる。
久安5年(1149年)には従五位下に叙された。
宮廷の実務を担う官人としての出発だった。
その時忠の生涯を大きく変えたのが、妹・滋子の出産である。
応保元年――生まれたばかりの皇子をめぐる争い
応保元年(1161年)9月。
時忠の妹・滋子が、後白河上皇の皇子を産んだ。
憲仁親王である。
当時の天皇は二条天皇。
後白河上皇の子でありながら、父子の間では政治の主導権をめぐって対立が続いていた。
時忠は、生まれたばかりの憲仁親王を皇太子に立てようとする動きに関わったとされる。
二条天皇には、まだ皇子が生まれていなかった。
憲仁親王が皇太子となれば、母の滋子は将来の天皇の母という立場を得る。
その兄である時忠も、皇位継承に深く関わることになる。
しかし、この動きは二条天皇側の反発を招いた。
9月15日、時忠は官職を解かれる。
翌応保2年(1162年)6月23日には、出雲国への配流が決まった。
妹が皇子を産んでから一年もたたないうちに、時忠は京都を追われたのである。
時忠は当時三十代。
宮廷での昇進を目指していた時期に、官職を失った。
出雲の配流先でどのように暮らしていたのか、詳しい記録は残されていない。
一方、時忠が都を離れている間にも、皇位継承をめぐる情勢は変わっていく。
永万元年(1165年)7月、二条天皇が崩御した。
後を継いだのは、まだ幼い六条天皇だった。
後白河上皇は朝廷での影響力を強め、憲仁親王を皇太子に立てる動きも進んでいく。
同年9月14日。
時忠は出雲から召し返された。
三年余り続いた流罪が終わった。
出雲からの復帰――蔵人頭、参議への昇進
仁安元年(1166年)3月。
時忠は正五位下へ復位した。
続いて4月には左少弁、6月には右中弁となり、検非違使も兼ねる。
11月16日、蔵人頭に任じられた。
蔵人頭は天皇の側近として、宮中の文書や命令を扱う重要な職だった。
日々の政務に通じ、天皇の近くで働く官人が就く。
かつて出雲へ流された時忠は、京都へ戻ってから一年余りで朝廷の中枢に復帰した。
同年10月には憲仁親王が皇太子となっている。
時忠が擁立を図ったとして処罰された皇子が、正式な皇位継承者となったのである。
翌仁安2年(1167年)2月11日、時忠は参議へ昇進した。
公卿の列に加わる。
この年、義兄の清盛は太政大臣に就任している。
清盛が武士として異例の地位に昇る一方、時忠も朝廷の官人として高位へ進んだ。
仁安3年(1168年)2月。
六条天皇が譲位し、憲仁親王が即位した。
高倉天皇である。
数え8歳。
時忠にとっては妹の息子にあたる。
新天皇の即位後、時忠は従三位へ進み、7月には検非違使別当となった。
8月には正三位、権中納言へ昇る。
検非違使別当は、京都の治安維持や犯罪者の追捕などを担う検非違使庁の長官である。
流罪から帰京した時忠は、朝廷の高官となり、都の治安を統括する立場にも就いた。
ところが翌年、再び出雲へ流されることになる。
嘉応元年――延暦寺の強訴で二度目の失脚
嘉応元年(1169年)12月。
延暦寺の衆徒が京都へ押し寄せた。
発端となったのは、尾張国の目代と延暦寺領の荘園をめぐる争いだった。
尾張国は藤原成親の知行国である。
成親は後白河上皇の有力な近臣で、権大納言まで昇った公卿だった。
延暦寺側は成親らの処罰を求め、神輿を奉じて強訴に及んだ。
このとき検非違使別当を務めていたのが時忠である。
九条兼実の日記『玉葉』には、朝廷が対応を協議する様子が記されている。
時忠は、延暦寺の要求を受け入れるなら早く決め、拒むなら兵を出して追い払うべきだと進言したという。
しかし、公卿たちの意見は一致しなかった。
神輿が傷つくことを恐れ、武力による鎮圧をためらう者もいた。
軍勢の出動を求められた平重盛も、夜間に兵を動かすことには難色を示した。
結局、朝廷は延暦寺側の要求を受け入れ、成親を解官して配流することを決めた。
ところが数日後、後白河院側は成親を召し返した。
そして今度は、時忠らが責任を問われる。
『百錬抄』は、処分の理由を「奏事不実」と記している。
朝廷への奏上に、事実と異なる点があったとされたのである。
12月28日。
時忠は官職を解かれ、出雲国へ流された。
同じく処分された平信範は、備後国への配流となった。
時忠は延暦寺への対応に関わった末、再び都を追われた。
しかし、今度の流罪は長く続かなかった。
二度目の帰京――清盛の上洛と時忠の召還
嘉応2年(1170年)正月。
清盛が京都へ入った。
延暦寺の強訴をめぐる混乱が続くなか、六波羅には武士たちが集まっていた。
清盛の上洛によって、後白河院と延暦寺をめぐる政治情勢も動き始める。
2月6日。
成親の処分が改めて決まり、時忠と信範の召還が認められた。
時忠は二度目の出雲配流から帰京する。
その年の12月には正三位へ復位した。
翌承安元年(1171年)4月、権中納言に復帰。
承安2年(1172年)2月には中宮権大夫となった。
中宮は清盛の娘・徳子である。
時忠の姪にあたり、高倉天皇の中宮となった女性だった。
時忠は妹の滋子を通じて高倉天皇の外戚となり、姪の徳子に仕える官職も得た。
承安4年(1174年)には従二位へ昇進。
翌安元元年(1175年)には、二度目の検非違使別当となった。
官職を奪われ、遠国へ流されても、朝廷は再び時忠を登用した。
二度の配流を経験した時忠は、宮廷の実務と人事に関わり続けた。
その権勢を表す呼び名が「平関白」である。
「平関白」――朝廷の人事に影響力を持つ
時忠は正式な関白に就任したことがない。
関白は藤原摂関家の人々が担う官職だった。
しかし時忠は、官位の昇進や役職の任命をめぐって、強い影響力を持ったと伝えられている。
官職を求める者が時忠を頼り、時忠も人事に関わった。
「平関白」という呼び名は、そうした権勢を表したものと考えられる。
時忠には、姉の時子とその夫・清盛がいた。
妹の滋子は高倉天皇の母であり、姪の徳子も中宮となっている。
さらに時忠自身が蔵人頭、参議、権中納言、検非違使別当を歴任した。
皇室との姻戚関係を持ち、朝廷の実務にも通じていた。
しかし、その振る舞いを批判する公卿も多かった。
九条兼実は『玉葉』で時忠を厳しく評している。
後年、慈円も『愚管抄』で、時忠が才知を働かせながら何度も流罪になった人物として言及した。
朝廷で高い地位を得る一方、政治的な対立によって繰り返し失脚した時忠。
その名前は、後世『平家物語』の冒頭に近い部分で、平氏の栄華を象徴する言葉とともに記されることになる。
「平家にあらずんば人にあらず」――『平家物語』が伝えた言葉
『平家物語』巻第一「禿髪」。
清盛の権勢と一門の繁栄を語る場面に、時忠の名が登場する。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」
平氏一門に属さない者など、人として扱われないほどだ。
時忠がそのように語ったというのである。
後世、「平家にあらずんば人にあらず」として知られるようになった。
ただし、時忠本人の発言を直接記録した同時代の史料は確認できない。
また、『平家物語』の原文は「此一門」となっており、現在よく知られる「平家にあらずんば」という言い回しとは異なる。
物語はこの言葉に続けて、平氏一門の栄華を描いている。
六波羅の人々と縁を結ぼうとする者が増え、衣服の着方や烏帽子の整え方まで、平氏の公達に倣ったという。
清盛の一門からは多くの公卿や殿上人が出ていた。
その中に時忠もいた。
『平家物語』は、清盛の義弟として高い官位に昇り、人事にも影響力を持った時忠へ、一門の繁栄を誇る言葉を語らせた。
この言葉が広まったことで、時忠は平氏の傲慢さを象徴する人物としても知られるようになった。
しかし、時忠の名は当時の公家日記にもたびたび登場する。
そこに記されているのは、朝廷の官職を務め、人事や治安、皇位継承をめぐる問題に関わる公卿の姿だった。
三度務めた検非違使別当――「悪別当」の異名
時忠は検非違使別当に三度任じられた。
最初は仁安3年(1168年)。
二度目は安元元年(1175年)。
そして三度目は治承3年(1179年)正月である。
検非違使庁は犯罪者の追捕や裁判、刑罰の執行などを担っていた。
時忠はその長官として、都の治安に関わる仕事を重ねている。
『平家物語』巻第十二「平大納言被流」には、時忠が検非違使別当だったころの厳しい処罰が語られる。
盗賊や強盗、山賊、海賊らを捕らえると、肘から腕を切り落として追放したという。
そのため人々から「悪別当」と呼ばれたとされる。
犯罪者に苛烈な刑罰を加えた人物として描かれたのである。
ただし、「悪別当」という呼び名や、時忠が自ら刑罰を命じた詳しい経緯は、軍記物語の記述によるところが大きい。
当時、検非違使庁が身体刑の執行に関わっていたことと、個々の処罰を時忠の判断で実施したという話は区別する必要がある。
それでも朝廷は、時忠を三度にわたって同じ職へ任じていた。
時忠は二度の配流を経験した後も、都の治安を担う官職へ戻っている。
そして治承3年、清盛と後白河法皇の関係が決定的に悪化する。
建春門院滋子の死――後白河院と平氏の対立
安元2年(1176年)。
時忠の妹・建春門院滋子が亡くなった。
滋子は後白河法皇の寵愛を受け、高倉天皇を産んだ女性だった。
後白河院と平氏一門を結ぶ重要な存在でもあった。
その死後、両者の関係は次第に悪化する。
翌治承元年(1177年)には鹿ケ谷事件が起こった。
藤原成親、西光、俊寛ら院近臣が平氏打倒を企てたとして処罰された。
西光は処刑され、成親は備前へ流された後に死亡した。
かつて嘉応元年の延暦寺の強訴で、時忠と対立する立場にあった成親も、清盛によって排除されたのである。
さらに治承3年(1179年)には、清盛の娘・平盛子が亡くなった。
摂関家領の扱いをめぐり、清盛と後白河院の対立が深まる。
同年7月には、清盛の長男・平重盛も死去した。
11月、清盛は福原から軍勢を率いて京都へ入る。
関白・松殿基房を退け、近衛基通を新たな関白に据え、院近臣たちを相次いで解官した。
後白河法皇も鳥羽殿に幽閉される。
治承三年の政変である。
時忠はこの年の正月、正二位に昇っていた。
同じ月には三度目の検非違使別当となっている。
清盛が武力を背景に朝廷の人事を改めるなか、時忠も政務に関わる高官の一人として活動していた。
翌治承4年(1180年)、姪の徳子が産んだ皇子が即位する。
安徳天皇である。
安徳天皇の即位――二代の天皇に連なる外戚
治承4年2月。
高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位した。
数え3歳。
母は清盛の娘・徳子だった。
時忠にとっては姪の子にあたる。
高倉天皇は妹・滋子の子であり、安徳天皇は姉・時子の孫でもある。
時忠は二代の天皇と母方を通じて結びついていた。
しかし、安徳天皇の即位から数か月後、反平氏の挙兵が相次ぐ。
8月には源頼朝が伊豆で立ち、10月には平維盛が率いた追討軍が富士川で敗走した。
清盛は福原への遷都を進めたものの、同年11月には京都へ戻る。
翌治承5年(1181年)閏2月、清盛が亡くなった。
時忠はその後も官位を重ねていく。
同年には建礼門院別当となり、寿永元年(1182年)10月には中納言へ進んだ。
翌寿永2年(1183年)正月22日、権大納言となる。
正二位・権大納言。
宮廷の実務を担ってきた時忠は、ついに大納言の地位へ達した。
しかし、その半年後、木曾義仲が京都へ迫った。
寿永2年7月25日――宮中の神鏡を運び出す
寿永2年5月。
平維盛らが率いた北陸追討軍は、倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗した。
続く加賀国篠原でも敗れ、義仲の軍勢は越前から近江へ進んだ。
7月24日夜から25日未明。
後白河法皇は京都を抜け出し、比叡山へ移った。
平宗盛は都を守ることを断念する。
7月25日、安徳天皇を奉じて西国へ向かうことを決めた。
この日の時忠の行動は『吉記』に記されている。
安徳天皇が宮中から六波羅へ移されようとしていたとき、時忠は急いで駆けつけた。
神鏡を運び出すためである。
内侍所の神鏡は、皇位の継承に関わる三種の神器の一つだった。
『吉記』には、時忠が神鏡をはじめ、玄上や鈴鹿と呼ばれる琵琶、笛の箱、御倚子などを運び出させたと記されている。
玄上は宮中に伝わる琵琶の名器だった。
時忠は神鏡と宝物の搬出を取り仕切り、安徳天皇の一行は六波羅へ向かった。
『吉記』は、その場にいた蔵人たちの多くが逃げ去っていたことも書き留めている。
時忠は、平氏一門が京都を離れる直前まで宮中の実務を担っていた。
神鏡と宝物は、その後、安徳天皇とともに西国へ運ばれる。
時忠の息子・平時実も一門に従った。
都を離れた平氏は福原を経て九州へ向かったが、豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、大宰府周辺にとどまることは難しかった。
やがて讃岐国屋島を拠点として軍勢を整える。
一方、京都では後白河法皇が新たな天皇を立てた。
寿永2年8月、後鳥羽天皇が即位する。
しかし三種の神器は安徳天皇とともに西国へ運ばれていた。
京都では後鳥羽天皇が即位し、西国には安徳天皇がいる。
時忠は神器を保持する平氏一門と行動をともにし、屋島へ向かった。
一ノ谷の敗戦――重衡の命と三種の神器
寿永3年(1184年)2月7日。
源範頼・義経の軍勢が、摂津国福原周辺の平氏軍を攻撃した。
一ノ谷の戦いである。
平重衡は生け捕りとなり、宗盛らは安徳天皇を奉じて屋島へ退く。
重衡は清盛の子であり、時忠の姉・時子が産んだ甥だった。
その重衡が源氏方の捕虜となったのである。
後白河法皇は、重衡の身柄と三種の神器の返還をめぐって交渉を始めた。
『平家物語』巻第十「請文」では、神器を返せば重衡の命を助けるという院宣が屋島へ届けられたと語られる。
時子は息子を救うため、神器を返すよう宗盛に願ったという。
しかし知盛は、神器を返しても重衡が戻される保証はないと主張した。
宗盛は神器の返還を拒んだ。
平氏は京都を離れてからも、安徳天皇と神器を奉じていた。
一方、後白河法皇は京都で後鳥羽天皇を立てている。
神器の返還は、平氏と朝廷との交渉を左右する重大な問題だった。
その交渉のさなか、時忠に関する奇妙な話が『平家物語』に残されている。
「浪方」の焼印――法皇の使者を辱めたという逸話
『平家物語』は、後白河法皇の院宣を届けた使者が、屋島で辱めを受けたと伝えている。
使者の名は花方。
時忠はその花方を呼び出し、遠い海路を越えてやって来た記念を与えようと告げたという。
そして顔に焼印を押させた。
その文字は「浪方」。
海の波を意味する「浪」の字を使い、花方の名を変えて刻みつけたというのである。
花方は顔に焼印を受けたまま京都へ戻った。
『平家物語』では、後白河法皇が使者の姿を見て激怒したと語られる。
さらに、平氏滅亡後に時忠が処分される際にも、法皇の怒りが解けなかったという。
ただし、時忠が焼印を命じたという詳しい経緯は、軍記物語の描写による。
使者の身に起きた事件についても、記録や伝本によって人物名と経過に違いがあり、時忠の命令をそのまま史実とすることは難しい。
『平家物語』はこの話を、時忠の苛烈な振る舞いを示す逸話として残した。
かつて「悪別当」と呼ばれ、犯罪者へ厳しい処罰を加えたとされる時忠。
西国でも法皇の使者を辱めた人物として描かれている。
しかし時忠は、その後も平氏一門と行動をともにした。
元暦2年(1185年)2月、源義経が屋島を急襲する。
平氏は海上へ退き、長門国彦島方面へ向かった。
そして3月24日、壇ノ浦の戦いを迎える。
壇ノ浦――神鏡と神璽が源氏方の手に戻る
元暦2年3月24日。
長門国赤間関の海上で、源氏と平氏の船団が激突した。
壇ノ浦の戦いである。
平氏は敗れ、安徳天皇は海に沈んだ。
時忠の姉・平時子も入水した。
清盛の子・平知盛や一門の武将たちも相次いで命を落とす。
宗盛は息子の清宗とともに生け捕りとなった。
時忠も源氏方に捕らえられた。
三種の神器のうち、神鏡と神璽は源氏方が確保した。
宝剣は海中に失われた。
『平家物語』には、神鏡が源氏方の手に渡る場面も描かれている。
また、時忠が神鏡を守った功績によって死罪を免れたという伝承もある。
ただし、時忠が壇ノ浦の戦場で神鏡をどのように保護したのか、確かな経過はわかっていない。
寿永2年の都落ちで神鏡を運び出したことは『吉記』に記録されている。
一方、壇ノ浦での行動や助命の理由については、軍記や後世の伝承によるところが大きい。
宗盛と清宗は捕らえられた後、鎌倉へ送られ、6月に近江国で処刑された。
時忠は処刑を免れた。
そして義経に護送され、京都へ戻ることになる。
ところが時忠は、そこで源義経と姻戚関係を結んだ。
源義経へ娘を嫁がせる――『平家物語』の「文之沙汰」
壇ノ浦から京都へ戻った時忠は、源義経の近くで捕虜として暮らしていた。
『平家物語』巻第十一「文之沙汰」には、このころの時忠の行動が詳しく描かれている。
時忠は息子の時実を呼び寄せ、困ったことが起きたと打ち明けた。
人に見せてはならない文書が、義経の手に渡ってしまったというのである。
その文書を頼朝に見られれば、自分だけでなく多くの者が処罰されるかもしれない。
時忠は文書を取り戻す方法を考えていた。
すると時実が、義経は女性からの願いを聞き入れる人物だと進言したという。
時忠には何人かの娘がいた。
その一人を義経へ嫁がせ、親しくなってから文書を返すよう頼ませてはどうか。
時実の提案だった。
時忠は当初、娘たちは女御や后になることを願って育ててきたのだと嘆いたという。
しかし、すでに平氏は滅びている。
官位を失い、捕虜となった時忠に、かつての権勢はなかった。
『平家物語』では、時実が17歳の娘を勧めたものの、時忠はその子を惜しみ、先妻との間に生まれた21歳の娘を義経へ嫁がせたと語られる。
義経はその娘を喜んで迎えた。
すでに妻となっていた河越重頼の娘を別の場所へ移し、新たな住まいを用意して大切に扱ったという。
やがて時忠の娘が、父の文書を返してほしいと頼んだ。
義経は封を開くこともなく、文書を時忠へ返したとされる。
時忠は受け取るとすぐに焼き捨てた。
いったい何が書かれていたのか。
『平家物語』も、その内容は明らかにしていない。
この一連の駆け引きは軍記物語の描写による。
文書の存在や、娘を嫁がせた詳しい事情を、同時代の記録から確かめることはできない。
ただし、義経が時忠の娘婿となったことは『吾妻鏡』にも記されている。
娘の実名は明らかでない。
後世には「蕨姫」という名も伝わるが、確実な実名として扱うことはできない。
義経には頼朝の意向で迎えた河越重頼の娘もいた。
時忠の娘は、その女性とは別の妻だった。
平氏を滅ぼした義経が、今度は時忠の娘婿となったのである。
能登への流罪――配流の決定後も京都にとどまる
元暦2年5月。
朝廷は平氏一門に関係した人々の処分を進めていた。
九条兼実の『玉葉』5月21日条には、配流先をめぐる記録が残る。
時忠の配流先は能登国。
息子の時実も処分の対象となった。
ほかにも平氏に従った公卿や官人、僧侶たちが、それぞれ遠国へ流されることになった。
『吾妻鏡』によれば、配流に関する官符は5月20日に出されている。
しかし、時忠はその後も京都にとどまっていた。
時実も同様だった。
時忠が実際に能登へ向かったのは9月23日。
配流の決定から四か月近くが過ぎていた。
『吾妻鏡』は、この遅れの背景に義経との姻戚関係があったと記している。
義経は時忠の娘婿となり、その縁によって時忠父子を引き留めていたという。
ところが、この行動を頼朝が問題視した。
義経と頼朝の関係は、すでに悪化していた。
義経は後白河法皇から官職を受け、朝廷との関係を強めている。
頼朝は弟が自分の意向とは異なる行動を取ることを警戒していた。
そこへ時忠父子の問題が加わったのである。
梶原景季の上洛――頼朝が時忠の配流を求める
文治元年9月2日。
頼朝は梶原景季らを京都へ派遣した。
景季は梶原景時の長男で、頼朝に仕える御家人だった。
上洛の用件には、鎌倉で行われる勝長寿院供養の準備などが含まれていた。
しかし、頼朝は別の命令も与えている。
源行家の居場所を探り、義経の動向を調べることだった。
行家は頼朝の叔父にあたる。
頼朝との関係が悪化し、このころ義経に近づいていた。
頼朝は義経が行家と結びつき、鎌倉に背くことを警戒していた。
さらに、配流が決まった平氏関係者がまだ京都に残っていることも問題とされた。
『吾妻鏡』9月2日条は、時忠らが配流の官符を受けながら京都にとどまっていると記している。
そして、その理由として義経と時忠の姻戚関係を挙げた。
義経は時忠の娘婿となり、父子を引き留めていたというのである。
頼朝はこれを不満に思っていた。
朝廷が配流を命じた人物を、義経が個人的な縁によって都に残している。
その状況が、頼朝の不信を強めた。
景季は9月12日に京都へ入った。
その後、配流を命じられた者たちの処遇についても、朝廷側とのやり取りが進む。
そして9月23日。
時忠は京都を離れ、能登国へ向かった。
『吾妻鏡』は、この日の出来事を短く記している。
「前大納言時忠卿下向配所能登国」
前大納言時忠が、配所の能登国へ下向した。
かつて権大納言まで昇り、平氏の繁栄を支えた公卿が、京都を追われた。
時忠には、もう一度都へ戻ることができるかどうかわからなかった。
建礼門院との別れ――『平家物語』に残された対面
『平家物語』巻第十二「平大納言被流」は、時忠が都を離れる前に建礼門院徳子を訪ねたと語る。
徳子は平清盛の娘であり、時忠の姪だった。
壇ノ浦では安徳天皇を失い、自らも海へ身を投げたが、源氏方に救われていた。
母の時子も、兄弟の多くも、すでに亡くなっている。
時忠はその徳子へ、今日から能登へ流されることになったと告げた。
できることなら都に残り、これからも徳子の身を案じていたかった。
しかし、流罪となればそれもかなわない。
そう語ったと物語は伝える。
徳子も涙を流した。
かつての平家を知る者は、もう時忠くらいしか残っていなかった。
その時忠まで都を去れば、誰が自分を訪ねてくれるのだろうか。
『平家物語』は、二人が別れを惜しむ様子を描いている。
この対面の詳しい会話は、軍記物語の記述による。
一方、時忠が9月23日に能登へ向かったことは『吾妻鏡』や『山槐記』から確認できる。
時忠は清盛の義弟として、平氏一門の繁栄を見てきた。
徳子が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだころも知っている。
その徳子は幼い天皇を失い、京都で暮らしていた。
そして時忠も、北国へ流されることになったのである。
妻と息子・時家――京都を去る日の別れ
時忠には、京都に残していく妻子もいた。
『平家物語』によれば、妻は帥典侍と呼ばれる女性だった。
息子の一人に時家がいる。
物語では数え16歳とされ、流罪の対象から外れて伯父の時光のもとにいたという。
出発が近づくと、時家は母とともに父のもとへ来た。
二人は時忠の袖にすがり、別れを惜しんだと伝わる。
時忠は、これが最後の別れになるとは限らないと語ったという。
しかし、いつ都へ戻れるのかはわからなかった。
時忠はこれまで、二度の出雲配流から帰京している。
最初は三年余り後。
二度目は数か月後だった。
今回も召し返されることがあるのか。
時忠には、その見通しが立たなかった。
『平家物語』では、やがて一行が京都を離れ、近江国へ入る。
琵琶湖のほとりを通り、北陸道へ向かう道だった。
道中で唐崎や真野の入江、堅田の浦などの地名を聞いた時忠は、涙を流したという。
そして一首の歌を詠んだとされる。
「帰りこん事はかた田に引く網の目にもたまらぬ我が涙かな」
堅田の浦で引く網の目に水がたまらないように、涙がこぼれ落ちていく。
都へ帰れるかもわからない身を、堅田の地名に重ねた歌だった。
『平家物語』は、時忠が涙を流しながら北国へ向かったと伝える。
清盛の義弟として朝廷で権勢を振るい、二度の流罪から復帰した時忠。
今度は三度目の流罪だった。
能登国への配流――三度目の流罪で都から遠ざかる
時忠が流された能登国は、現在の石川県能登地方にあたる。
京都から近江、越前、加賀を経て向かう北陸道の先にあった。
『源平盛衰記』には、時忠が能登国の鈴御崎へ流されたと記されている。
現在の珠洲市付近と結びつけられる場所である。
ただし、時忠が配流先のどこに住み、どのような生活を送ったのか、詳しい記録は乏しい。
『吾妻鏡』や『山槐記』には能登への下向が記録されるものの、その後の日々の暮らしまで書かれているわけではない。
時忠は仁安3年(1168年)に能登権守を兼ねたことがあった。
かつて国司の官職として関わった土地へ、今度は流人として送られたのである。
一方、息子の時実は京都に残り、義経に従っていた。
文治元年11月、義経は頼朝と対立して京都を離れる。
時実もその一行に加わった。
しかし義経たちは西国へ逃れる途中で離散し、時実も捕らえられた。
翌文治2年(1186年)、時実は鎌倉へ送られ、その後、上総国への流罪となった。
父の時忠は能登にあり、息子の時実も別の土地へ送られた。
義経との姻戚関係によって、父子が都へとどまり続けることはできなかった。
能登で時忠がどのような知らせを受けていたのかはわからない。
ただ、義経が頼朝と対立し、時実も捕らわれたころ、時忠はすでに京都を遠く離れていた。
能登に伝わる時国家――平氏の血筋を伝えた家
能登には、時忠の子孫に関わる伝承が残っている。
石川県輪島市町野町に伝わる時国家である。
上時国家と時国家は、時忠の子・時国を祖先とする家として知られている。
両家は能登で勢力を持つようになり、江戸時代には地域の有力な家として知られた。
現在も歴史的な建造物や文書が残されている。
ただし、現存する屋敷は時忠が生きた12世紀に建てられたものではない。
家系の初期の経緯についても、後世の伝承に基づく部分がある。
また、能登には時忠の墓と伝わる場所もある。
珠洲市付近では、時忠の配流や死去にまつわる話が受け継がれてきた。
その一方、『吾妻鏡』が伝える死去年月日と、地元の伝承に残る年月日が異なる例もある。
時忠が能登へ流されたことは、鎌倉側と京都側の記録から確認できる。
しかし、配流先での詳しい暮らしや、その子孫が能登へ根づいていく経過には、なお不明な点が残る。
時忠は京都へ戻ることなく、能登で生涯を終えた。
文治5年2月24日――能登で亡くなった時忠
文治5年(1189年)2月24日。
平時忠は能登国の配流先で亡くなった。
『吾妻鏡』3月5日条には、その訃報が鎌倉へ届いたことが記されている。
時忠が亡くなったのは、2月24日の未刻。
現在の時刻でいえば、午後2時ごろを中心とする時間帯だった。
頼朝はその知らせを聞いた。
かつて清盛の義弟として平氏政権を支え、壇ノ浦の戦いの後には義経の舅となった公卿である。
頼朝は時忠の死を惜しんだという。
『吾妻鏡』は、時忠が知恵のある臣下として評判を得ていたこと、安徳天皇の時代には朝廷の政務を補佐していたことを記している。
頼朝は、今となっても朝廷のために惜しい人物だったと評した。
その後、時忠の年齢を周囲へ尋ねた。
すぐに答えられる者はいなかった。
三善康信が、62歳と答えたという。
ただし、時忠の生年には異説がある。
1127年生まれとする説、『吾妻鏡』の享年から1128年と逆算する説、『公卿補任』から1130年とする説があり、正確な生年は定まっていない。
時忠が能登へ向かったのは文治元年9月23日。
それから三年半ほどが過ぎていた。
若いころの二度の出雲配流では、いずれも朝廷へ召し返された。
最初の流罪から戻った後には蔵人頭となり、参議に昇進している。
二度目の流罪から帰ると権中納言に復帰し、のちには権大納言まで進んだ。
だが、三度目の流罪では京都へ戻れなかった。
『平家物語』は、時忠に「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と語らせた。
さらに「悪別当」と呼ばれたという厳しい処罰や、法皇の使者へ焼印を押したという逸話も残している。
そして能登への出発の日には、妻子と別れ、近江国の堅田で涙を流す姿を描いた。
一方、『吾妻鏡』に残ったのは、時忠の死を聞いた頼朝の言葉だった。
時忠の配流を問題として義経を責めた頼朝が、三年半後にはその政治的な能力を惜しんだという。
文治5年3月5日。
鎌倉へ時忠の訃報が届くと、頼朝はその年齢を尋ねた。
三善康信が62歳と答えた。
『吾妻鏡』は、そこで時忠の記事を終えている。
【PR】
【PR】
![]()
送料無料 天然塩 奥能登珠洲 揚げ浜の塩 120g 石川県産 珠洲 天然海塩 粗塩 天日 自然乾燥 揚げ浜式製塩法 伝統製法 国産 ミネラル豊富 テレビ番組で話題の商品 ポイント消化


コメント