【人物編Vol.62】巴御前――粟津で義仲と別れた女武者の行方

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人物

第130回

寿永3年(1184年)1月。近江国粟津で、木曾義仲は最期の時を迎えようとしていた。

前年には北陸の平家軍を破り、京都へ進軍した義仲だったが、源頼朝が送り込んだ軍勢との戦いに敗れ、今や数騎の従者とともに追われていた。

『平家物語』によれば、その中に一人の女性がいた。

巴である。

美しい容貌を持ちながら、弓を引けば強く、太刀を取れば敵を圧倒する。荒馬を自在に乗りこなし、義仲から一軍の大将を任されるほどの武勇を備えていたという。

主従がわずか五騎となったとき、義仲は巴に戦場を去るよう命じた。

巴はすぐには従わなかった。最後に強敵との戦いを望み、現れた武者を討ち取ってから東国へ落ち延びたと語られる。

その後、巴がどこへ向かったのかを『平家物語』の代表的な本文である覚一本は伝えていない。

後世には和田義盛の妻になったという話や、尼となって義仲を弔ったという伝承が生まれた。しかし、それらの物語には史実と食い違う部分もある。

巴御前は、実際にどのような女性だったのだろうか。

巴御前の出自――木曾義仲との関係

巴御前は平安時代末期、源平合戦の時代に活躍したと伝えられる女性である。

一般に巴御前と呼ばれているが、『平家物語』の諸本では主に「巴」と記されている。現在広く使われる「巴御前」という呼称は、後世に定着したものである。

生年や没年、出生地を確実に示す史料は残されていない。

巴について最もよく知られるのが、木曾義仲を養育した中原兼遠の娘だったという説である。

木曾義仲は、源義賢の子として久寿元年(1154年)に生まれたとされる。

久寿2年(1155年)、父の義賢は武蔵国の大蔵合戦で源義平に討たれた。義仲は幼くして父を失い、信濃国へ逃れ、中原兼遠の庇護を受けて育ったという。

兼遠の子として知られるのが、後に義仲の重臣となった樋口兼光と今井兼平である。

兼平は義仲の乳兄弟として知られ、義仲が信濃で挙兵してから粟津で最期を迎えるまで、ともに戦った。

巴も兼遠の娘で、樋口兼光や今井兼平の姉妹だったという伝承がある。

しかし、これらの家族関係は史料によって異なっている。

『平家物語』諸本で異なる巴の出自

『平家物語』には、覚一本、延慶本、長門本などの伝本がある。『源平盛衰記』や『源平闘諍録』も、広い意味で『平家物語』の諸本に含まれる。

巴の出自についても、それぞれの記述は一致していない。

覚一本では、巴の父母や年齢は明らかにされていない。

一方、『源平盛衰記』では中原兼遠の娘とされ、義仲の乳母子であり、妾でもあったと記される。

『源平闘諍録』では樋口兼光の娘として描かれている。

年齢についても、二十代前半から三十歳前後まで違いがある。

義仲と巴が幼少期から一緒に育ったという話はよく知られているものの、具体的な関係を確定することは難しい。

また、巴が義仲の正妻だったという確かな記録もない。

一般に知られる「義仲の愛妾で、今井兼平の妹」という人物像には、『源平盛衰記』などの軍記物語が大きく影響している。

義仲の息子・義高の母親だったのか

巴は、義仲の息子である源義高の母親だったともいわれる。

義高は、義仲と頼朝の関係が悪化するなか、頼朝の娘・大姫の許嫁として鎌倉へ送られた人物である。

義仲が敗死した後、義高も頼朝の命によって殺害された。

しかし、義高の母親が巴だったという説には、確かな史料上の裏付けがない。

義仲と巴の関係については、主従関係、乳兄弟に近い関係、男女の関係など、さまざまな説明が伝えられてきた。

そのいずれについても、軍記物語の記述をそのまま史実とすることはできない。

『平家物語』が描いた巴の武勇

巴の姿が鮮やかに描かれているのが、『平家物語』巻九「木曾最期」である。

この段では、義仲が信濃から巴と山吹という二人の女性を伴っていたと語られる。

山吹は病気のため京都に残ったが、巴は最後の戦いまで義仲に従った。

巴は色白で髪が長く、美しい容貌の女性として紹介される。

同時に、武芸においても並ぶ者のない存在だったという。

『平家物語』は彼女を、

「一人当千の兵なり」

と評している。

荒々しい馬を乗りこなし、険しい場所でも自在に馬を操る。弓矢や太刀を手にすれば、どのような敵にも立ち向かう勇敢な武者だったとされる。

義仲は合戦の際、巴に立派な鎧を着せ、強弓と大太刀を持たせて、一方の大将として送り出した。

そのたびに武功を立て、肩を並べる者はいなかったという。

『平家物語』において、巴は義仲のそばに仕える女性であると同時に、戦闘能力を認められた武者として描かれている。

ただし、「一人当千」は優れた武勇を称える表現であり、実際に千人の敵を相手にしたという意味ではない。

また、軍記物語には武者の強さを際立たせるため、戦功を大きく描くことがある。

巴が実際にどの合戦へ参加し、どのような働きをしたのかを具体的に確認できる同時代の記録は見つかっていない。

倶利伽羅峠の戦いなどに巴が参加したという話も伝わるが、その行動を史実として確定することはできない。

木曾義仲の挙兵と京都進出

治承4年(1180年)、平家政権に対する反乱が各地で起こった。

伊豆では源頼朝が挙兵し、信濃では木曾義仲が兵を集めた。

義仲は信濃の武士たちをまとめながら勢力を拡大し、北陸方面へ進出していく。

寿永2年(1183年)、義仲軍は北陸へ派遣された平家軍と本格的に衝突した。

平家側の中心となったのは、平維盛らの率いる軍勢である。

義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破り、続く篠原の戦いでも勝利を収めた。

北陸方面の戦局は急速に義仲方へ傾いていった。

平家一門は、義仲らの軍勢が京都へ迫るなか、安徳天皇と三種の神器を伴って都を離れた。

こうして義仲は京都への入京を果たした。

しかし、都での義仲の立場は安定しなかった。

当時の京都では飢饉の影響が続き、食糧の調達も難しくなっていた。義仲軍の兵士による乱暴狼藉は人々の反発を招き、後白河法皇との関係も悪化していく。

さらに、義仲が西国へ派遣した軍勢は、備中国の水島の戦いで平家軍に敗れた。

平家は西国で勢力を回復し始めていた。

一方、関東では頼朝が東国武士への支配を固め、義仲との対立が深まっていた。

寿永2年11月、義仲は後白河法皇の御所である法住寺殿を攻撃した。

法住寺合戦で法皇方の軍勢を破り、後白河法皇を自らの支配下に置いたが、朝廷との関係は決定的に悪化した。

やがて頼朝は弟の源範頼・源義経を中心とする軍勢を京都へ向かわせる。

義仲は平家軍を都から退けた後、同じ源氏の頼朝方と京都の支配を争うことになったのである。

この時期の巴の具体的な行動は分かっていない。

『平家物語』が描くように巴が義仲に従っていたのであれば、京都進出から義仲軍の崩壊まで、その歩みをともにしたことになる。

宇治川の戦い――崩壊した義仲軍

寿永3年(1184年)1月、範頼・義経の軍勢が京都へ迫った。

頼朝方は二つの方面から進軍した。

範頼は近江国の瀬田方面、義経は山城国の宇治方面から京都を目指した。

義仲方も両方面に兵を配置し、敵軍を迎え撃つ。

『平家物語』では、今井兼平が瀬田を守る武将として登場する。

しかし、義経軍は宇治川を突破し、京都へ進入した。

瀬田方面でも義仲方の防衛線は崩れ、義仲は都を離れることになる。

ここから先の義仲の最期は、『平家物語』巻九「木曾最期」に詳しく描かれている。

義仲は敗走するなか、今井兼平の安否を気にかけていた。

兼平もまた、義仲の消息を案じていた。

そして二人は、近江国大津の打出浜付近で再会を果たしたという。

『平家物語』では、義仲が兼平の手を取り、ともに最期を迎えたいという思いを語る。

兼平も義仲の無事を喜び、再び戦う決意を固めた。

散り散りになっていた味方も集まり、軍勢は三百余騎になったとされる。

しかし、頼朝方の追撃は続いていた。

三百騎から五騎へ

『平家物語』によれば、義仲は三百余騎を率いて、一条忠頼の率いる六千余騎の軍勢へ突入した。

敵陣を突破したとき、味方は五十騎ほどになっていたという。

その後も土肥実平らの軍勢に行く手を阻まれ、義仲らは戦闘を続けながら敗走した。

やがて主従は五騎となった。

その中にも巴は残っていた。

『平家物語』は、ほかの武者たちが次々と討たれるなか、巴が最後まで討たれなかったことを繰り返し記している。

これらの兵数は軍記物語における描写であり、実際の戦場にいた人数をそのまま示しているとは限らない。

義仲が京都を失い、少数の従者とともに近江方面へ敗走したことが、戦いの大きな流れである。

そして、義仲はここで巴を呼び寄せた。

粟津の戦い――義仲が巴に命じた別れ

主従五騎となった義仲は、巴に戦場を去るよう命じた。

『平家物語』では、義仲は自分が討死する覚悟であり、敵の手にかからなければ自害するつもりだと語っている。

そのうえで、最後の戦いにまで女性を伴っていたと人々に言われるのは無念だと告げた。

巴はすぐには従わなかった。

義仲のそばに残り、なお戦おうとしたのである。

だが、義仲は繰り返し立ち去るよう命じた。

義仲がなぜ巴を逃がそうとしたのかについては、さまざまな解釈がある。

巴の命を惜しんだと考えることもできるだろう。

ただし、『平家物語』の本文で義仲が口にしているのは、女を伴って最期の戦いをしたと評されることへの無念である。

そこには武士としての名誉に対する意識が表れている。

一方の巴は、最後に自らの武勇を見せようと考えた。

『平家物語』には、そのときの言葉として、

「あはれ、よからう敵がな」

と記されている。

強い敵が現れれば、義仲に最後の戦いを見せられる。

そう考えた巴は、敵の到来を待ったという。

御田八郎師重との戦い

巴が敵を待っていると、武蔵国の武士・御田八郎師重が現れた。

『平家物語』では、御田八郎は大力で知られる武者であり、三十騎ほどを率いていたとされる。

巴はその軍勢に突入した。

狙ったのは御田八郎本人だった。

巴は御田八郎と馬を並べ、相手に組みつくと、そのまま馬上から引き落とした。

さらに、自分が乗っている馬の鞍の前輪に押しつけ、身動きが取れないようにしたという。

そして、御田八郎の首をねじ切って捨てたと語られる。

首をねじ切るという描写は、巴の並外れた腕力を強調するものである。

この戦闘の細部を、同時代の記録によって確認することはできない。

なお、巴が戦った相手の名前には伝本や校訂本文による違いがあり、「御田八郎」「恩田八郎」などの表記が見られる。

『平家物語』覚一本に基づく本文では、御田八郎師重という表記が用いられている。

敵将を討った後、巴は身につけていた武具を脱ぎ捨てた。

そして東国へ落ち延びていったという。

覚一本で語られる巴の最後の姿である。

巴がその後どこへ向かったのか、誰を頼ったのか、義仲の最期をいつ知ったのか。

覚一本は何も伝えていない。

木曾義仲と今井兼平の最期

巴が去った後も、義仲と今井兼平は戦い続けた。

『平家物語』によれば、手塚太郎が討死し、手塚別当が落ち延び、義仲と兼平は主従二騎となった。

義仲は兼平に、いつもは気にならない鎧が今日は重く感じられると語った。

兼平は、義仲の体も馬もまだ衰えておらず、味方の軍勢がいなくなったためにそう感じるのだと答えた。

そして、自分一人を千騎と思うよう励ましたという。

兼平は、義仲に粟津の松原へ向かい、自害するよう勧めた。

自分が残った矢で敵を防ぎ、その間に主君を逃がそうとしたのである。

義仲は兼平とともに最期を迎えることを望んだが、兼平は主君が名もない敵兵の手にかかることを恐れ、松原へ入るよう説得した。

義仲は一騎で松原へ向かった。

ところが、途中の深い田に馬が足を取られ、身動きができなくなってしまう。

『平家物語』では、義仲が兼平のいる方を振り返ったとき、石田次郎為久の放った矢が兜の内側に命中したと語られる。

義仲は重傷を負い、駆け寄った石田の郎等たちによって首を取られたという。

義仲は数え31歳で生涯を終えた。

主君の死を知った兼平も、激しい抵抗を続けた後、自害して果てたと伝えられる。

倶利伽羅峠で平家軍を破り、京都へ進出した義仲は、わずか半年ほどで都を失い、近江の粟津で討たれたのである。

義仲の討死は1月20日か21日か

義仲の最期については、日付にも史料上の違いがある。

『吾妻鏡』は、宇治・瀬田での戦いから義仲の討死までを寿永3年1月20日の出来事として記している。

一方、『平家物語』覚一本の「木曾最期」には、義仲の最期を正月21日とする記述がある。

このため、歴史上の義仲の討死については1月20日とするのが一般的だが、『平家物語』の場面を紹介する際には、本文との違いに注意が必要となる。

また、『吾妻鏡』には巴が粟津で戦ったという記述は見られない。

義仲が石田次郎に討たれたという大きな流れは複数の史料に見られるものの、巴との別れや兼平との最後の会話、深田に馬がはまった場面などは、『平家物語』の物語として伝えられている。

巴御前はその後どうなったのか

『平家物語』覚一本では、巴が東国へ向かった後の消息は語られない。

しかし、別の伝本では、巴が生き延びた後の人生が描かれている。

その代表例が『源平盛衰記』巻三十五「巴関東下向事」である。

信濃へ帰り、義仲の最期を伝える

『源平盛衰記』によれば、巴は粟津の戦いの後、武具を脱ぎ捨て、小袖姿で信濃へ戻った。

そこで義仲の妻子たちに、義仲が最期を迎えたときの様子を伝えたという。

巴の話を聞いた人々は、義仲を失った悲しみに涙を流したと語られる。

その後、世の中が落ち着くと、巴は源頼朝に召し出され、鎌倉へ向かった。

頼朝は義仲と敵対した人物であり、巴にとっては主君の仇にあたる。

頼朝もまた、武勇に優れた巴を警戒した。

『源平盛衰記』では、頼朝は巴を森五郎という人物に預け、やがて処刑する話が持ち上がったという。

そこで巴に目を留めたのが、和田義盛だった。

和田義盛との結婚

和田義盛は三浦一族の出身で、源頼朝の挙兵を支えた有力御家人である。

鎌倉幕府では侍所別当を務めた。

『源平盛衰記』によれば、義盛は巴の武勇と気性の強さに感心し、妻として迎えることを望んだ。

義盛は、巴ほど強い女性との間に子をもうければ、優れた武者が生まれるだろうと考えたという。

頼朝は当初、これを認めなかった。

巴が義仲の仇を討とうとする可能性を警戒したためである。

しかし義盛は、自らが責任を持って巴を預かると申し出た。

こうして巴は義盛の妻となり、男子を産んだと語られる。

その子が、後に怪力で知られる朝比奈三郎義秀だったという。

朝比奈義秀は和田義盛の三男で、鎌倉時代初期の武士として知られている。

『吾妻鏡』にも、その武勇が描かれている。

しかし、巴が朝比奈義秀の母親だったという話には、年代上の大きな問題がある。

朝比奈義秀は本当に巴御前の息子だったのか

朝比奈義秀は、建暦3年(1213年)の和田合戦で和田方の中心的な武将として戦った。

『吾妻鏡』によれば、このとき義秀は数え38歳だった。

逆算すると、安元2年(1176年)の生まれとなる。

一方、木曾義仲が粟津で討たれたのは寿永3年(1184年)である。

『源平盛衰記』の物語では、義仲の死後、巴は鎌倉へ召し出され、和田義盛の妻となって義秀を産んだことになっている。

しかし、1184年の時点で、義秀はすでに数え9歳だった計算となる。

義仲の死後に巴が和田義盛と結婚し、その後に義秀を産んだという筋書きは、『吾妻鏡』に記された義秀の年齢と一致しない。

『源平盛衰記』では、和田合戦で義秀も討死したと語られる。

一方、『吾妻鏡』には、義秀が海路で安房国へ逃れたとする記録がある。義秀の最終的な消息には不明な点が残るが、少なくとも物語の描写とは相違が見られる。

こうした事情から、巴が義仲の死後に和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を産んだという後日談は、史実としては認め難い。

板額御前の逸話との共通点

巴と和田義盛の結婚伝承については、実在した女武者・板額御前の逸話との共通点も指摘されている。

建仁元年(1201年)、越後国で城氏一族が幕府に対して反乱を起こした。

この戦いで武装して抵抗した女性が板額である。

板額は弓の名手として知られ、幕府軍との戦闘で負傷して捕らえられた。

その後、鎌倉へ送られた板額を見て、御家人の浅利義遠が妻として迎えることを希望した。

『吾妻鏡』には、義遠が板額との間に勇敢な子をもうけたいと述べたことが記されている。

武勇に優れた女性が鎌倉へ送られ、御家人がその女性を妻に迎え、強い子をもうけようとする。

巴の後日談との類似は明らかである。

このため、板額の逸話が巴の物語に取り込まれた可能性が考えられている。

また、朝比奈義秀自身が怪力で知られていたことから、その母親にも特別な力を持つ女性が選ばれたという見方がある。

実在が確認できる板額と、軍記物語の中で生涯が語られる巴。

両者の人物像を比較することは、巴御前の伝承がどのように形づくられたのかを考えるうえで重要である。

和田合戦の後、尼となったという伝承

建暦3年(1213年)5月、鎌倉で和田合戦が起こった。

和田義盛は北条義時らの幕府側と戦い、敗死した。

『源平盛衰記』では、巴は義盛と朝比奈義秀を失った後、越中国へ向かったと語られる。

巴は石黒という人物を頼って移り住み、そこで出家したという。

尼となった巴は、義仲や和田一族の菩提を弔いながら暮らした。

そして91歳まで生き、最期を迎えたと伝えられている。

この話では、巴は義仲の滅亡を経験した後、さらに和田一族の滅亡にも直面した女性として描かれている。

ただし、越中国に移り住んだことや、91歳まで生きたことを裏付ける確かな記録はない。

巴の晩年については、『平家物語』の諸本にも違いが見られる。

長門本には越後国で尼となったという話があり、『源平盛衰記』とは移住先が異なる。

巴の出家や晩年は、こうした複数の伝承を通して語られてきた。

実際にどこで亡くなったのか、その生涯を終えた年齢がいくつだったのかは明らかになっていない。

巴御前は実在したのか

巴御前について考えるうえで重要なのが、実在を裏付ける史料が見つかっていないことである。

彼女の武勇を詳しく描く『平家物語』は、治承・寿永の内乱と同時期に作成された記録ではない。

戦乱から時間を経て成立し、語り継がれてきた軍記物語である。

その成立や伝承の過程で、さまざまな逸話や表現が加えられていった。

一方、同時代の貴族の日記などには、巴の活動を直接確認できる記述が見つかっていない。

鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にも、巴の名は現れない。

『吾妻鏡』も後世に編纂された史書であり、その記述すべてを無条件に史実とすることはできないが、治承・寿永の内乱を考えるうえで重要な史料である。

そこに巴の名前が見えないことは、実在性を考える際の問題となる。

ただし、記録に名前が残っていないだけで、実在しなかったと証明できるわけではない。

平安時代末期には、女性の名前や具体的な活動が男性武士ほど詳しく記録されなかった事情も考えられる。

また、板額御前のように、実際に戦闘に加わった女性の存在も確認できる。

女性が弓を取り、武装して戦うこと自体は、当時の社会で起こり得た。

しかし、巴が義仲軍に所属していたのか、実際に部隊を率いたのか、粟津で御田八郎師重を討ち取ったのかについては、確実な裏付けがない。

現時点では、巴御前の実在について判断を留保し、『平家物語』などに描かれた人物としてその姿を捉えるのが妥当だろう。

能や浮世絵に受け継がれた巴御前

巴の物語は、中世以降の芸能や美術にも大きな影響を与えた。

特に義仲との別れや、敵将を組み伏せる武勇は、多くの作品で繰り返し描かれている。

能『巴』――義仲とともに死ねなかった無念

能の『巴』では、木曾から訪れた僧が近江国粟津に立ち寄る。

僧は神前で涙を流す女性と出会う。

その女性は、かつて義仲に仕えた巴の亡霊だった。

巴は夜になると武者姿で現れ、義仲の最期と自らの戦いを語る。

義仲から戦場を去るよう命じられ、主君とともに死ぬことができなかった無念を明かすのである。

能では、巴が薙刀を手にして敵と戦う姿も演じられる。

また、義仲の形見を持って戦場を離れるという描写もある。

『平家物語』では巴の心理が詳しく語られる場面は少ない。

それに対し、能『巴』では、義仲への思慕と最後まで従うことができなかった悲しみが物語の中心となっている。

同じ粟津の別れを題材としながら、巴の人物像には新たな感情が重ねられている。

浮世絵に描かれた女武者

江戸時代には、巴御前は浮世絵の題材としても人気を集めた。

歌川国芳は、巴が敵方の武者を組み伏せ、その首をねじ切ろうとする場面を描いている。

これは『平家物語』の「木曾最期」に基づく作品である。

一方、歌川豊国(三代)の「古今名婦伝」には、幼い朝比奈義秀を抱く巴の姿が描かれている。

こちらは『源平盛衰記』の後日談を題材としている。

武勇に優れた女武者としての巴。

義仲との別れを悲しむ巴。

和田義盛の妻となり、子を育てる巴。

軍記物語や芸能、美術を通して、巴御前にはさまざまな人物像が与えられていった。

巴御前ゆかりの史跡

巴御前の伝承は、木曾義仲に関係する各地にも残されている。

長野県木曽町には、木曾義仲の生涯や源平合戦を紹介する義仲館がある。

木曾の地には、中原兼遠の一族や巴にまつわる伝承が伝えられてきた。

また、滋賀県大津市には、義仲の墓所として知られる義仲寺がある。

義仲寺は、義仲が粟津で敗死したことにちなむ寺院で、境内は国の史跡に指定されている。

寺には義仲の墓があり、巴を供養する塚も伝えられている。

このほかにも、巴が晩年を過ごしたという伝承に結びつく場所が各地に残っている。

ただし、巴にまつわる塚や供養塔が存在することは、その土地で彼女が実際に亡くなったことを証明するものではない。

こうした史跡は、巴の物語が各地で語り継がれてきた歴史を伝えている。

巴御前が残したもの

『平家物語』に描かれた巴の生涯には、多くの空白がある。

父母の名前も、義仲との正確な関係も明らかではない。

合戦での武勇は鮮烈に描かれているが、その活動を直接裏付ける同時代史料も見つかっていない。

それでも、巴が義仲の最後の戦いに登場する場面は、長く人々の心に残った。

義仲の軍勢が壊滅し、味方が五騎にまで減っても、巴はなお戦おうとした。

義仲に繰り返し立ち去るよう命じられ、最後に御田八郎師重を討ち取った後、東国へ落ち延びていったと語られる。

その後の消息は、覚一本には記されていない。

後世には和田義盛の妻となったという物語が生まれ、朝比奈義秀の母親とされるようになった。

さらに、越中で尼となって義仲らを弔ったという伝承も語られている。

その一方で、能『巴』では、義仲と最期をともにできなかった無念を抱く亡霊として登場する。

これらの物語には、時代ごとの人々が巴に寄せた関心や思いが反映されている。

巴の実在を確かな史料によって証明することは、現在のところできない。

しかし、『平家物語』の中で、最後まで義仲とともに戦おうとした女性として描かれたことは、後世の巴御前像を形づくる出発点となった。

寿永3年1月、近江国粟津。

巴は義仲の命令に従い、戦場を去った。

その後どこへ向かったのかは分からない。

『平家物語』は、武具を脱ぎ捨てて東国へ向かう巴の姿を記したところで、彼女の消息を伝えなくなる。

その短い別れの場面から、巴御前の物語は後の時代へと広がっていったのである。


主な参考史料・参考資料

史料

  • 『平家物語』巻九「木曾最期」(主に覚一本)
  • 『源平盛衰記』巻三十五「巴関東下向事」
  • 『平家物語』長門本・延慶本
  • 『源平闘諍録』
  • 『吾妻鏡』(寿永3年1月、建暦3年5月など)

研究・解説資料

  • 国立公文書館「平家物語――妖しくも美しき――」
  • 義仲館「巴御前伝説」
  • 立命館大学アート・リサーチセンター「女英雄展――名を残した女たち――」
  • 富山県「義仲・巴 出典付年表」
  • 公益社団法人能楽協会「巴」
  • 大津市「義仲寺境内」
  • 細川涼一『平家物語の女たち―大力・尼・白拍子』講談社、1996年

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