第163回
寿永2年(1183年)冬。
上総広常が殺された。
源頼朝が石橋山で大敗し、安房国へ落ち延びたとき、大軍を率いて味方に加わった武士だった。
広常は上総国に広大な勢力を持ち、頼朝の挙兵を成功へ導いた功労者の一人である。
その広常が、梶原景時の手によって殺されたと伝わる。
頼朝の意向によるものだった。
『愚管抄』には、広常が朝廷の権威を軽んじ、坂東だけで十分だと考えていたため、頼朝が危険視したという話が残る。
ただし、広常が実際に謀反を企てていたかどうか、確かなことはわかっていない。
頼朝は、自らを支えた有力武士を排除した。
その翌年には木曾義仲を討ち、義仲の息子・義高も殺害する。
平家を滅ぼした後には、弟の義経と対立した。
義経は奥州へ逃れ、藤原泰衡の攻撃を受けて命を落とした。
もう一人の弟・範頼も謀反を疑われ、伊豆へ送られる。
それでも頼朝のもとには、多くの武士が従い続けた。
頼朝は彼らの所領を認め、戦功に報い、朝廷と交渉してその権利を守ろうとした。
石橋山で大敗した治承4年(1180年)から十九年。
建久10年(1199年)正月13日、頼朝は鎌倉で亡くなった。
平治の乱で父を失い、十四歳で伊豆へ流された少年は、三十四歳で挙兵し、やがて征夷大将軍となった。
頼朝が築いた鎌倉の政権には、かつて敵だった武士も、源氏の一族も、京都から下った官人たちも集まっていた。
彼らを従わせるため、頼朝は何を与え、何を奪ったのか。
熱田で生まれた義朝の三男
源頼朝は久安3年(1147年)に生まれた。
父は源義朝。
清和源氏のうち、源頼信、頼義、義家へと続く河内源氏の出身である。
母は由良御前。
尾張国熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘だった。
頼朝は尾張国熱田で生まれたと伝わり、現在の名古屋市熱田区には出生地にちなむ史跡が残されている。
義朝には頼朝より年長の息子が二人いた。
長男の義平と次男の朝長である。
頼朝は三男だったが、母の由良御前が義朝の正室だったため、嫡男として扱われた。
兄の義平は東国で武功を重ね、「悪源太」と呼ばれた。
義朝の勢力拡大を軍事面から支えた人物だった。
頼朝はそれとは異なり、幼少期から京都の宮廷に出仕する道を歩んだ。
父の義朝は若いころから相模や武蔵などの武士たちと関係を築き、東国に勢力を広げていた。
その一方、京都の朝廷で官職を得ることにも力を注いでいる。
由良御前の実家は熱田神宮の大宮司家であり、頼朝には神社や宮廷社会につながる縁戚もあった。
後に頼朝が東国の武士を従えながら、京都の朝廷との交渉を重視した背景には、こうした家の歩みもあった。
保元の乱で父と祖父が敵になる
保元元年(1156年)。
崇徳上皇と後白河天皇の対立が、武力衝突へ発展した。
保元の乱である。
義朝は後白河天皇方に加わった。
平清盛も同じ陣営だった。
一方、義朝の父・源為義や弟の為朝らは崇徳上皇方に属した。
河内源氏は父子・兄弟で敵味方に分かれた。
戦いは後白河天皇方の勝利に終わる。
敗れた為義は捕らえられ、義朝によって処刑された。
為朝は伊豆大島へ流された。
義朝は父と戦って勝利し、朝廷での地位を高めた。
頼朝はまだ十歳ほどだった。
保元の乱では兵を率いる年齢に達していなかったが、戦後、宮廷で官職を得ていく。
保元3年(1158年)、皇后宮権少進に任じられた。
翌平治元年(1159年)には右近衛将監、上西門院蔵人、二条天皇の蔵人などを務めた。
そして同年12月14日、従五位下・右兵衛権佐となった。
後に頼朝が「佐殿」と呼ばれる由来となる官職である。
しかし、そのころ京都では平治の乱が起こっていた。
頼朝の官歴は、任官からわずか二週間ほどで途切れる。
平治の乱――父と兄たちを失う
平治元年12月。
藤原信頼と源義朝が挙兵した。
後白河上皇の御所を襲い、院の近臣だった信西を死へ追い込んだ。
信頼と義朝は一時、京都の政治を掌握した。
しかし平清盛が熊野参詣から戻ると、情勢は変わった。
清盛は六波羅に軍勢を集め、二条天皇方の貴族たちとも協力して反撃を開始する。
義朝の軍勢は敗れた。
東国へ逃れようとした義朝に、息子たちも従った。
頼朝も京都を離れたが、逃走の途中で父とはぐれてしまう。
冬の山道をさまよった末、近江国で捕らえられた。
義朝は尾張国まで逃れたものの、長田忠致によって殺害された。
長男の義平も捕らえられ、処刑された。
次男の朝長は逃走の途中で命を落としている。
源氏の後継者として育てられた頼朝は、父も兄たちも失った。
平治元年12月28日には右兵衛権佐を解官された。
朝廷に仕える少年だった頼朝は、平家の捕虜となった。
数え十三歳。
翌年には十四歳となる。
頼朝にも死罪が検討されたが、最終的には伊豆国への流罪となった。
池禅尼が助命したという話
頼朝の命が助かった事情について、『平治物語』には一つの逸話が残されている。
平清盛の継母・池禅尼が助命を願い出たという話である。
池禅尼は、若くして亡くなった息子の平家盛を深く悲しんでいた。
頼朝の姿に家盛の面影を見たため、清盛へ命を助けるよう訴えたという。
清盛は継母の願いを聞き入れ、頼朝を伊豆へ流すことにしたと伝わる。
池禅尼の嘆願は後世によく知られるようになった。
ただし、清盛が実際に何を考えて死罪を回避したのかは明らかでない。
義朝はすでに亡くなり、京都で活動した源氏の有力者たちも処刑されていた。
頼朝はまだ少年だった。
東国へ流せば、朝廷の政治へ復帰することは難しかっただろう。
そうした事情が考慮された可能性はあるが、清盛の判断を伝える確実な記録は残されていない。
永暦元年(1160年)、頼朝は伊豆へ送られた。
父の義朝が東国へ逃れようとして果たせなかった道を、頼朝は流人としてたどることになった。
伊豆で暮らした二十年
頼朝の流刑地として知られるのが、伊豆国の蛭ヶ小島である。
現在の静岡県伊豆の国市には、頼朝の配流地と伝わる場所が残されている。
ただし、その地点が実際の住居だったと確定できる同時代史料はない。
頼朝が伊豆でどのように暮らしていたのか、日々の記録も少ない。
朝廷の官職は失われ、京都へ戻ることも許されていなかった。
それでも頼朝には、生活を支える人々がいた。
その代表が乳母の比企尼である。
『吾妻鏡』によれば、比企尼は夫の比企掃部允とともに東国へ移り、頼朝を長く援助した。
伊豆に暮らす頼朝へ、生活に必要な物資を送り続けたという。
頼朝は後年、比企尼の援助を重く受け止め、その一族を厚遇した。
比企氏は鎌倉で有力な御家人となり、後には頼朝の後継者・頼家とも深く結びつく。
頼朝には、乳母を通じてほかの武士たちとも縁があった。
東国の武士社会では、乳母やその一族との関係が、血縁と同じように長く続くことがあった。
頼朝が伊豆で失わなかったものの一つが、そうした人々とのつながりだった。
流人としての生活は二十年に及んだ。
その間、頼朝は伊豆の在地武士たちとも関係を持つようになった。
伊東祐親と北条時政
伊豆には、平家方に属する有力武士がいた。
伊東祐親である。
頼朝が祐親の娘と関係を持ち、子をもうけたという話は、『曽我物語』などに残されている。
後世には八重姫の悲恋として広く語られた。
しかし、女性の名前や子どもの最期など、細かな経過には伝承による部分が多い。
頼朝と祐親の関係を、物語の内容どおりに確定することはできない。
やがて頼朝は北条政子と結婚した。
政子の父は北条時政。
伊豆国田方郡北条を本拠とする武士だった。
この婚姻も、成立した正確な時期はわかっていない。
平家と関わりのあった時政が結婚に反対したという話や、政子が別の婚姻を拒んで頼朝のもとへ向かったという逸話も伝わる。
そうした物語を別にしても、頼朝が北条氏と姻戚関係を結んだことは、その後の挙兵を考えるうえで重要だった。
治承2年(1178年)には長女の大姫が生まれた。
流人だった頼朝は、伊豆で妻子を持つようになっていた。
その暮らしを大きく変える知らせが、治承4年に届く。
以仁王の令旨
治承4年(1180年)4月。
後白河法皇の皇子・以仁王が、平家追討を呼びかけた。
『吾妻鏡』によれば、令旨を諸国の源氏へ伝えた人物の一人が、頼朝の叔父・源行家である。
行家は伊豆の頼朝を訪ね、令旨を届けたという。
頼朝は石清水八幡宮の方角を拝んでから文書を開いたと記されている。
ただし、令旨が頼朝へ届いた詳しい経過には、『吾妻鏡』の編纂上の問題もある。
以仁王と源頼政は5月に挙兵したが、宇治で敗れて命を落とした。
京都での反乱は短期間で鎮圧された。
ところが、この動きは各地の反平家勢力へ広がっていった。
甲斐では武田信義らが動き、信濃では木曾義仲が挙兵する。
伊豆にいた頼朝も武力行使を決めた。
最初の標的は山木兼隆だった。
山木兼隆の館を襲う
治承4年8月17日夜。
頼朝は伊豆国の山木兼隆を襲撃した。
兼隆は伊豆の目代として知られる平家方の人物だった。
頼朝は北条時政らと計画を進め、佐々木定綱らを攻撃に向かわせた。
奇襲は成功し、兼隆は討ち取られた。
流人だった頼朝が、平家方の支配に公然と戦いを挑んだのである。
しかし、頼朝の挙兵に従った武士はまだ少なかった。
相模国には大庭景親がいた。
景親はもともと源義朝に従ったこともある武士だったが、このころは平家方に属していた。
頼朝の挙兵を知ると、景親は軍勢を集めて討伐に向かった。
頼朝も伊豆を離れ、相模へ進んだ。
三浦氏の援軍を待ちながら、平家方の軍勢を迎え撃とうとした。
だが、味方がそろう前に戦闘が始まった。
石橋山での大敗
8月23日。
相模国石橋山。
頼朝は大庭景親らの軍勢に攻撃された。
頼朝方は兵力で大きく劣っていた。
『吾妻鏡』に記された双方の兵数には誇張の可能性もあるが、頼朝が不利な状況にあったことは間違いない。
援軍となるはずだった三浦氏も、増水した川に阻まれて合流できなかった。
戦いは頼朝の敗北に終わった。
佐奈田与一義忠らが戦死し、頼朝は土肥実平らと山中へ逃げ込んだ。
『吾妻鏡』には、梶原景時が頼朝の隠れ場所を見つけながら、追手には知らせなかったという話が残る。
このとき景時は平家方にいた。
後に頼朝の側近となる人物だった。
頼朝は追跡を逃れ、真鶴付近から海へ出たと伝わる。
そのころ三浦氏も衣笠城を攻撃され、長老の三浦義明が戦死している。
挙兵から数日の間に、頼朝方は大きな損失を受けた。
頼朝が向かったのは安房国だった。
安房で千葉常胤を得る
安房へ渡った頼朝は、再び兵を集め始めた。
三浦氏の生き残った一族も合流した。
さらに房総半島の有力武士たちへ使者を送った。
下総の千葉常胤と上総の上総広常である。
千葉氏は下総に勢力を持ち、以前から源氏と関係があった。
常胤は頼朝を迎え入れ、一族を率いて従った。
『吾妻鏡』には、常胤が鎌倉を拠点とするよう頼朝へ勧めたと記されている。
父・義朝にも縁のある土地だったからである。
上総広常も大軍を率いて参じた。
広常は上総国で強い勢力を持ち、多くの郎党を従えていた。
二人の参加によって、頼朝の軍勢は急速に膨れ上がる。
千葉氏も上総氏も、桓武平氏の流れをくむ一族だった。
平姓の武士たちが、平家政権に反抗する頼朝を支えた。
当時の東国では、同じ平氏の血を引く一族が、土地や国衙の支配をめぐって争うこともあった。
頼朝の挙兵に参加するかどうかは、それぞれの武士が抱える所領や家の事情に深く関わっていた。
頼朝は彼らを受け入れ、鎌倉へ向かった。
かつての敵まで従わせる
房総から西へ進んだ頼朝のもとには、武蔵の武士たちも加わった。
畠山重忠、河越重頼、江戸重長らである。
彼らの中には、頼朝の挙兵直後、平家方として活動していた者もいた。
畠山重忠は三浦氏と戦った経歴を持つ。
しかし頼朝の軍勢が大きくなると、重忠らも従うことになった。
頼朝は彼らを受け入れた。
過去に敵として戦った武士であっても、服属した者は味方に加えた。
その一方、従わない者には軍勢を向けた。
この対応は、頼朝が東国で勢力を広げる過程に繰り返し現れる。
有力武士をすべて討ち滅ぼせば、その土地を支配する人々まで失うことになる。
従わせることができれば、軍勢も所領も頼朝の支配を支える力となった。
かつて敵だった武士を家臣に迎え、逆に長年の味方を処罰する。
頼朝のもとに集まった武士たちの立場は、固定されたものではなかった。
鎌倉入り
治承4年10月6日。
頼朝は鎌倉へ入った。
石橋山で敗れてから、一か月半ほどしか経っていなかった。
鎌倉は三方を山に囲まれ、南に海が広がる土地である。
外から入る道は限られ、軍事的な防衛にも適していた。
さらに源氏に縁があった。
源頼義はこの地に八幡神を勧請し、父の義朝も館を構えたと伝わる。
頼朝は大倉郷に御所を築いた。
大倉御所である。
現在の鎌倉市雪ノ下周辺にあたる。
10月12日には、由比郷にあった八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の地へ移したと『吾妻鏡』は伝える。
頼朝のもとに集まった武士たちは、それぞれ異なる本拠地と利害を持っていた。
彼らが集まる場所として、鎌倉には御所と神社が整えられていった。
この後、頼朝は京都へ移らず、鎌倉から軍勢を派遣し続ける。
富士川の後、京都へ進まなかった
10月20日。
平家が派遣した追討軍と頼朝方の軍勢が、駿河国富士川周辺で向き合った。
追討軍の大将は平維盛だった。
『平家物語』には、水鳥の羽音を夜襲と勘違いした平家軍が逃げ出したという逸話が残る。
実際には兵の動員や補給、現地の武士たちとの関係など、複数の事情があったと考えられる。
平家の追討軍は本格的な決戦を避けて撤退した。
頼朝は西へ追撃しようとしたが、千葉常胤らが反対したと『吾妻鏡』は伝える。
東国にはまだ従わない有力武士が残っていた。
とりわけ常陸国の佐竹氏は、大きな軍事力を持っていた。
頼朝は京都への進撃をやめ、東へ戻った。
佐竹氏との戦いが始まる。
常陸の佐竹氏を攻める
治承4年11月。
頼朝は常陸国の佐竹氏へ軍勢を向けた。
佐竹氏も河内源氏の流れをくむ一族だった。
同じ源氏というだけで、頼朝に従うわけではなかった。
佐竹氏は常陸に強い勢力を持ち、平家政権とも関係があった。
頼朝方は金砂城を攻撃した。
現在の茨城県常陸太田市周辺にあたる。
城は険しい山地を利用した要害で、正面からの攻略は難しかった。
『吾妻鏡』には、頼朝方が佐竹氏の内部事情に通じる者の協力を得て、城を攻略した経過が記されている。
佐竹氏は敗れ、勢力を大きく削られた。
頼朝は西国の平家と戦う一方で、東国でも従わない武士たちを抑えていく。
佐竹氏の例からも、頼朝の戦いが平家追討だけに限られていなかったことがわかる。
東国に自らの命令を通すため、同じ源氏の一族にも軍勢を向けた。
黄瀬川で義経と再会する
義経は父・義朝の死後、母の常盤御前とともに生き延び、後に奥州の藤原秀衡を頼っていた。
頼朝の挙兵を知り、平泉から東国へ向かったという。
『吾妻鏡』では、黄瀬川で兄弟が対面したと記されている。
頼朝は数え三十四歳。
義経は二十二歳だった。
『平家物語』などには、長く離れていた兄弟が再会を喜ぶ場面が描かれている。
しかし、実際にどのような言葉を交わしたのかはわからない。
義経は頼朝のもとに参じ、後に木曾義仲や平家を討つ軍勢を率いることになる。
もう一人の異母弟・範頼も、頼朝の軍事活動に加わった。
頼朝は弟たちを指揮官として用い、自らは鎌倉で東国の武士をまとめていった。
御家人の所領を守る
頼朝に従った武士たちは、御家人と呼ばれるようになる。
千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、和田義盛。
彼らはそれぞれ所領を持ち、郎党を従えていた。
頼朝のもとへ集まったからといって、以前からの家や土地を捨てたわけではなかった。
武士たちが重んじたのは、自分たちの所領を守ることだった。
頼朝は従う武士の土地に関する権利を認めた。
先祖から受け継いだ土地の支配を保障することは、後に「本領安堵」と呼ばれる。
軍功を挙げた者には、敵から没収した所領や地頭職などを新たに与えた。
「新恩給与」である。
こうした処分は、御家人と頼朝を結びつける重要な手段となった。
ただし、土地には複雑な権利関係があった。
ある土地を現地で管理する武士とは別に、年貢を受け取る荘園領主がいる場合もある。
国司が関わる公領にも、在地の有力者が入り込んでいた。
頼朝が一人の武士の支配を認めれば、別の権利者と争いになることもあった。
御家人の土地を守るためには、朝廷や荘園領主との交渉が必要だった。
頼朝は軍勢を集めるだけでなく、土地をめぐる訴訟や権利の確認にも関わるようになった。
侍所と鎌倉の政務
治承4年、頼朝は鎌倉に侍所を設けたとされる。
初代別当には和田義盛が任じられた。
侍所は御家人の統率や軍事・警護に関わる機関だった。
頼朝に従った武士たちの中には、それまで互いに争ってきた一族もいた。
命令を伝え、軍勢を動かし、規律を保つ仕組みが必要だった。
さらに戦いが進むと、鎌倉には所領をめぐる訴えが集まるようになった。
寿永3年(1184年)には公文所や問注所が設けられたとされる。
公文所は政務や文書の作成を担い、問注所は訴訟を扱った。
中心となったのは大江広元や三善康信ら、京都の官人社会で経験を積んだ人物たちだった。
頼朝は東国の武士だけで政務を進めていたわけではなかった。
朝廷の制度や文書実務に通じた人々も鎌倉へ迎え入れた。
軍功を評価し、所領を与え、訴訟を裁く。
その処分を文書にして残す。
鎌倉で行われる仕事は、戦いの勝敗を決めることから、各地の土地と人々を継続して管理することへ広がっていった。
叔父・志田義広の挙兵
寿永2年(1183年)2月。
常陸国の源義広が頼朝に反抗した。
志田義広とも呼ばれる人物である。
義広は源為義の子で、頼朝の父・義朝の弟だった。
頼朝にとっては叔父にあたる。
義広は常陸から軍勢を動かし、下野方面へ進んだ。
これを迎え撃ったのが小山朝政らだった。
『吾妻鏡』には、義広が朝政を味方に誘ったものの、朝政が従わずに迎撃した経過が記されている。
両軍は野木宮付近で戦い、義広は敗れた。
義広はその後、木曾義仲と結びつく。
頼朝の支配へ反抗した相手には、平家方の武士だけでなく、河内源氏の一族もいた。
父の義朝が保元の乱で祖父・為義と戦ったように、頼朝の時代にも源氏内部の争いは続いた。
上総広常の死
寿永2年冬。
上総広常が殺害された。
広常は石橋山で敗れた頼朝を支え、房総から鎌倉へ進む軍勢を強めた人物だった。
しかし頼朝との関係は次第に悪化していたらしい。
『吾妻鏡』には、広常が頼朝の前でも下馬の礼を取ろうとしなかったという逸話がある。
独自の大きな軍事力を持つ広常が、頼朝のもとでも強い立場を保っていたことを伝える話である。
広常の殺害は梶原景時が実行したとされる。
頼朝の命令によるものだったという。
『愚管抄』には、広常が朝廷との関係を軽んじ、坂東で独自の勢力を築けばよいと考えていたため、頼朝が殺したという話が残る。
しかし、広常自身がそのような構想を持っていたのかは不明である。
そもそも『吾妻鏡』では、広常の殺害当日の記事が欠けている。
寿永3年正月の記事に、前年冬の広常に関わる出来事によって御所が穢れたという記述が残るだけである。
殺害の正確な日付や場所も確定できない。
広常が謀反を企てたとする頼朝側の説明を、そのまま事実として受け取ることは難しい。
それでも、頼朝を支えた有力武士が頼朝の意向によって殺害されたという経過は、複数の記録に伝わっている。
広常がいなくなった後も、頼朝は上総の武士たちを従わせた。
挙兵を支えた功績があっても、頼朝との関係が崩れれば命を失うことがあった。
広常の死は、鎌倉に集まった武士たちにとっても重い出来事だった。
木曾義仲との対立
寿永2年5月。
木曾義仲が北陸の倶利伽羅峠で平家軍を破った。
義仲はその後も進撃し、7月には京都へ入った。
平家一門は安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ逃れた。
義仲は頼朝の従兄弟だった。
父の源義賢は、頼朝の父・義朝の弟である。
しかし義賢は、かつて頼朝の兄・義平によって討たれていた。
義仲が成長して北陸で勢力を築いたころ、頼朝は鎌倉を中心に東国の武士を従えていた。
両者の間には軍事的な緊張もあった。
『吾妻鏡』によれば、義仲は対立を避けるため、息子の義高を鎌倉へ送った。
義高は頼朝の長女・大姫の許婚となった。
源氏同士の争いを避けるため、幼い二人の婚姻が取り決められたのである。
しかし義仲が京都へ入った後、その関係は崩れていく。
頼朝は義仲よりも先に、朝廷との交渉によって重要な地位を手に入れていた。
寿永二年十月宣旨
寿永2年10月。
朝廷から、頼朝に関わる重要な宣旨が出された。
一般に「寿永二年十月宣旨」と呼ばれる。
『百錬抄』10月14日条には、東海・東山両道の荘園や公領について、従来の権利者へ年貢などを納めるよう命じたことが記されている。
九条兼実の日記『玉葉』にも、この宣旨をめぐる議論が残る。
『玉葉』閏10月13日条によれば、頼朝は東海・東山・北陸の三道を対象とするよう求めた。
しかし朝廷は、北陸で勢力を持つ義仲を警戒し、北陸道を除いたという。
宣旨の原文は現在伝わっていない。
内容は『百錬抄』や『玉葉』の記述からたどることになる。
宣旨の重要な点は、荘園や公領を従来の権利関係へ戻すよう命じるとともに、それに従わない者への処置を頼朝へ委ねたことだった。
戦乱によって、各地では武士による所領の押領が相次いでいた。
朝廷や寺社、貴族の荘園から年貢が届かなくなる問題も生じている。
頼朝は武士たちを統率し、そうした混乱を収める役割を引き受けた。
もっとも、この宣旨によって東日本の土地がすべて頼朝の所有となったわけではなかった。
荘園領主や国司の権利を維持することが、宣旨の重要な前提だった。
頼朝は朝廷の命令を利用しながら、東国での支配を広げた。
京都に入った義仲が後白河法皇との関係を悪化させる一方、鎌倉の頼朝は朝廷から公的な役割を認められつつあった。
義仲を討ち、義高を殺す
寿永2年11月。
木曾義仲は後白河法皇の御所である法住寺を襲撃した。
法皇を幽閉し、京都の政治へ強く介入する。
頼朝は弟の範頼と義経らを京都へ向かわせた。
寿永3年(1184年)正月。
頼朝方の軍勢は宇治川や瀬田周辺で義仲軍を破った。
義仲は近江国粟津で討たれた。
頼朝は従兄弟の義仲を排除した。
ところが鎌倉には、義仲の息子・義高が残っていた。
義高は頼朝の娘・大姫の許婚だった。
父を失った義高の立場は、急速に危うくなった。
『吾妻鏡』には、北条政子らが義高を逃がそうとしたものの、逃走が発覚したという話が残る。
義高は追手に捕らえられ、殺害された。
頼朝は将来、義高が父の仇を討とうとする危険を考えたのだろう。
ただし、頼朝がどのような言葉で殺害を命じたのか、詳しい経過はわからない。
義高の死を知った大姫は深く悲しんだと伝わる。
『吾妻鏡』には、その後も大姫が病に苦しんだという記述が残されている。
義高の殺害によって、大姫の婚姻も失われた。
頼朝は源氏一族の将来の対立を避けようとして、娘の許婚を死なせる判断を下した。
平家追討を範頼と義経に任せる
義仲を討った後、頼朝は平家追討を進めた。
平家は西国で勢力を回復し、摂津国福原まで進出していた。
寿永3年2月7日。
源氏軍は一ノ谷で平家を破った。
しかし宗盛や知盛らは逃れ、安徳天皇と三種の神器も平家の手元に残った。
頼朝はさらに追討を命じた。
範頼は山陽道を進み、現地の武士たちを従わせながら九州方面へ向かった。
補給や船の調達は難航し、範頼の軍勢は苦しい状況に置かれた。
一方、義経は後に四国へ渡り、屋島を攻撃する。
平家は長門国方面へ退いた。
範頼の軍勢も九州側から平家の動きを制限し、源氏方は壇ノ浦へ追い詰めていく。
頼朝自身は鎌倉にいた。
平家を討つ軍勢は弟たちに任せ、御家人の動員や朝廷との交渉、戦後の処分を担っていた。
元暦2年(1185年)3月24日。
壇ノ浦で平家が敗れた。
安徳天皇が入水し、宗盛や清宗は捕らえられた。
清盛の築いた平家政権は滅亡した。
頼朝は大きな勝利を得た。
しかし、そのころには義経との関係が悪化していた。
義経の任官
義経は一ノ谷の戦いで功績を挙げた後、京都で朝廷から官職を与えられた。
寿永3年8月、左衛門少尉となり、検非違使を兼ねた。
検非違使は京都の治安維持や犯罪の取締りなどを担う役職だった。
頼朝は義経の任官を問題視した。
『吾妻鏡』には、頼朝の許可を得ずに官職を受けた義経を非難する記述がある。
頼朝は、御家人が朝廷から官職を受ける際、自分を通じて任官することを重んじていた。
京都の朝廷が武士へ直接官職を与えるようになれば、鎌倉の命令とは別に、武士と朝廷が結びつく道が生まれる。
後白河法皇にも、義経を朝廷へ結びつける利点があった。
平家追討で功績を挙げた武将を、京都の軍事と治安に利用できるからである。
義経にとっては、朝廷の官職を得ることも武士としての地位を高める行為だった。
しかし頼朝は、弟が自分の許可を得ずに朝廷の官職を受けたことを許さなかった。
兄弟の対立には、誰が武士の任官や恩賞を認めるのかという問題が関わっていた。
腰越で兄に会えなかった義経
壇ノ浦の戦いの後、義経は捕虜となった宗盛らを伴って東国へ向かった。
しかし頼朝は、義経の鎌倉入りを認めなかった。
義経は鎌倉の手前、腰越にとどめられた。
文治元年(1185年)5月24日。
義経は大江広元へ手紙を送ったと伝わる。
いわゆる腰越状である。
『吾妻鏡』にはその文章が収められている。
義経は父の義朝を失ってからの境遇を語り、頼朝のために戦い続けたことを訴えた。
平家を滅ぼすまで戦ったにもかかわらず、兄から謀反を疑われている。
どうか兄との対面を実現し、疑いを解いてほしい。
そう願ったとされる。
腰越状の文章がどのような経緯で成立したのかについては、史料上の検討が必要である。
それでも、義経が鎌倉へ入れず、頼朝との関係が修復されなかったことは、その後の経過からもわかる。
義経は京都へ戻った。
頼朝は弟を鎌倉へ迎え入れなかった。
堀川夜討と義経の逃亡
文治元年10月。
京都にいた義経が襲撃された。
襲ったのは土佐坊昌俊らの軍勢だった。
『吾妻鏡』では、昌俊は頼朝の命を受けて義経を討とうとした人物として描かれている。
襲撃は失敗した。
義経は昌俊を捕らえ、処刑したと伝わる。
その後、義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣を求めた。
法皇は一時、義経や源行家に頼朝を討つための命令を与えた。
しかし義経に従う武士は十分に集まらなかった。
頼朝が東国の軍勢を動かすと、京都の情勢も変わった。
義経は都を離れ、西国へ渡ろうとした。
ところが船出の後、暴風に遭って軍勢が散り散りになった。
義経と行家は逃亡することになる。
頼朝は義経をかくまう者にも追及を及ぼした。
平家を滅ぼした弟は、今度は頼朝方から追われる立場となった。
この対立を契機として、頼朝は朝廷に新たな権限を求めていく。
守護・地頭をめぐる交渉
文治元年11月。
北条時政らが京都へ入り、後白河法皇との交渉を進めた。
義経や行家の追討を理由として、頼朝側は諸国に軍事・警察的な役割を担う者を置くことや、謀反人の所領などへ地頭を補任する権限を求めた。
これが守護・地頭の設置をめぐる重要な転機となる。
当時、国ごとの軍事・警察に関わる職には、惣追捕使などの名称が用いられていた。
後に守護と呼ばれる役職へつながっていく。
地頭は荘園や公領の現地で、土地の管理や年貢の徴収などに関わる職だった。
ただし、文治元年の交渉によって全国のすべての土地へ一律に地頭が置かれたわけではない。
地頭の設置をめぐっては、荘園領主や国司との争いが続いた。
頼朝のもとでは、敵対した武士の所領を没収し、戦功のあった御家人へ与える処分が行われた。
しかし、土地には朝廷や寺社、貴族が持つ権利も残っている。
御家人へ恩賞を与えるためには、その権利との調整が必要だった。
頼朝は京都と交渉を重ね、現地の武士たちへ命令を及ぼす仕組みを広げていった。
頼朝が朝廷へ送った書状
文治2年(1186年)4月30日。
頼朝は京都の藤原兼光へ書状を送った。
兼光は摂政・九条兼実の家司を務めた公卿である。
この書状は現在も残り、東京国立博物館に所蔵されている。
重要文化財「源頼朝書状」である。
本文は祐筆による筆記と考えられ、末尾の花押が頼朝自身によるものとみられている。
その書き出しには、次の言葉がある。
「天下之政道者、依群卿之議奏可被澄清」
天下の政治は、公卿たちの議論と奏上によって正されるべきだという趣旨である。
頼朝はさらに、たとえ勅宣や院宣が下されたとしても、朝廷や世の中のためにならない内容であれば、再び奏上して改めるよう求めるべきだと述べた。
当時の後白河法皇は、院政を通じて政治を動かしていた。
頼朝は、その法皇の命令であっても、問題があれば再考を求めるべきだと考えていた。
頼朝は摂政となった九条兼実と連携し、後白河院政へ働きかけている。
朝廷の官職や権威を利用しながら、法皇の一存による政治には異議を唱えた。
この書状は、頼朝が実際に京都へ送った文書として残されている。
『吾妻鏡』にも同じ書状が収められているが、現物が残っていることによって、頼朝の対朝廷政策を具体的にたどることができる。
鎌倉から京都へ送られた一通の書状には、御家人を率いる武将とは別の、政治に関わる頼朝の姿が残っている。
義経をかくまった藤原秀衡
京都を離れた義経は、各地を逃れ歩いた。
逃亡中の詳しい足取りには不明な点が多い。
やがて義経は奥州へ向かった。
かつて身を寄せた平泉である。
奥州藤原氏の当主・藤原秀衡は義経を受け入れた。
秀衡は陸奥・出羽に大きな勢力を持ち、平泉を拠点としていた。
中尊寺や毛越寺をはじめ、奥州藤原氏が築いた寺院や館が並ぶ土地だった。
頼朝は東国で勢力を固めていたが、奥州藤原氏は独自の支配を維持していた。
しかも秀衡は頼朝に追われる義経を保護した。
文治3年(1187年)、秀衡が亡くなる。
跡を継いだのは藤原泰衡だった。
頼朝は泰衡へ義経の引き渡しを求めた。
泰衡はしばらく義経を保護したものの、やがて頼朝の要求に屈することになる。
衣川で義経が死ぬ
文治5年(1189年)閏4月30日。
藤原泰衡の軍勢が、義経のいる衣川館を襲撃した。
『吾妻鏡』によれば、義経は妻子とともに自害した。
数え三十一歳だった。
黄瀬川で頼朝と対面してから九年。
木曾義仲を破り、平家を滅ぼした義経は、奥州で命を落とした。
義経を討ったことで、泰衡は頼朝との対立を終わらせようとしたのかもしれない。
しかし頼朝は奥州への出兵を進めた。
義経の死後も、奥州藤原氏の軍事力と独自の支配は残っていた。
頼朝は朝廷に泰衡追討の宣旨を求めたが、正式な命令を待たずに軍勢を動かした。
今度は自ら出陣する。
奥州合戦――頼朝の出陣
文治5年7月19日。
頼朝は鎌倉を出発した。
目標は奥州藤原氏の本拠・平泉だった。
軍勢は複数の方面から奥州へ向かった。
頼朝自身は中央の軍勢を率い、白河関を越えて北上した。
奥州藤原氏は阿津賀志山に防衛線を築いていた。
現在の福島県国見町周辺にあたる。
土塁や堀を設け、鎌倉軍の進撃を阻もうとした。
藤原泰衡の異母兄・国衡らが守備を担った。
8月、頼朝軍はこの防衛線を攻撃する。
奥州藤原氏側は敗れ、頼朝は北上を続けた。
8月22日、頼朝は平泉へ入った。
泰衡は逃亡したが、9月3日、家人の河田次郎によって殺害された。
奥州藤原氏は滅亡した。
頼朝は戦功のあった御家人たちへ、奥州の所領を与えた。
平泉には中尊寺や毛越寺など、奥州藤原氏が築いた寺院が残されていた。
頼朝はそれらを見聞したと伝わる。
後に鎌倉で造営された永福寺には、平泉の寺院の影響があったとされている。
奥州合戦によって、頼朝に従う武士たちの所領は陸奥・出羽にも広がった。
三十年ぶりの京都
建久元年(1190年)。
頼朝は京都へ上った。
平治の乱で都を離れて以来、およそ三十年ぶりだった。
かつては敗走する父に従う少年だった。
今度は東国の御家人を従えた立場で京都へ入った。
頼朝は後白河法皇と対面し、11月に権大納言へ任じられた。
さらに右近衛大将にも昇った。
右近衛大将は、朝廷における重要な武官職だった。
しかし頼朝は12月には両職を辞任した。
朝廷から高い官職を得ることには意味があった。
京都の貴族社会で自らの立場を認めさせることができる。
一方、頼朝の政治の拠点は鎌倉にあった。
御家人たちの所領をめぐる争いも、軍事的な命令も、鎌倉を中心に行われていた。
頼朝は京都へ移り住む道を選ばず、鎌倉へ戻った。
征夷大将軍となる
建久3年(1192年)3月。
後白河法皇が亡くなった。
同年7月、頼朝は征夷大将軍に任じられた。
頼朝が東国で挙兵してから十二年が過ぎていた。
従来、鎌倉幕府は1192年に成立したと説明されることが多かった。
現在では、その成立を一つの年だけで捉えることに慎重な見解がある。
頼朝は1180年から鎌倉で御家人たちを統率していた。
1183年には朝廷から東国の秩序回復に関わる役割を認められた。
1184年には公文所や問注所が設けられ、1185年には守護・地頭をめぐる権限の拡大が進んでいた。
征夷大将軍への任官は、その過程で迎えた重要な節目だった。
なお、頼朝の時代に「鎌倉幕府」という名称が用いられていたわけではない。
後世の歴史用語である。
頼朝の政権は、挙兵からの軍事行動と、朝廷との交渉、御家人への所領保障を通じて形を整えていった。
将軍となった後も、頼朝は鎌倉に住み続けた。
所領を認める文書
建久2年(1191年)正月15日。
頼朝は御家人に対する所領の処分について、文書の形式を改める方針を示した。
それまで頼朝自身の袖判を持つ下文などで行っていた本領安堵や恩賞の処分を、政所下文による形式へ切り替えるというものである。
以前に発給した文書の回収も命じられた。
頼朝のもとには、多くの御家人が従っていた。
その所領を認める文書は、武士にとって重要な証拠だった。
土地をめぐる争いが起これば、誰がどのような権限を与えられたのかを確認しなければならない。
頼朝の個人的な命令から、政務を担う機関による文書の発給へ。
その形式にも変化が生まれていた。
御家人たちは鎌倉で与えられた文書を根拠に、各地で土地を支配した。
頼朝が亡くなった後も、こうした文書は武士たちの権利を支えるものとなっていく。
富士の巻狩と曽我兄弟
建久4年(1193年)。
頼朝は富士山の裾野で大規模な巻狩を行った。
多くの御家人が参加した。
巻狩は軍事訓練としての性格を持ち、頼朝の威勢を示す行事でもあった。
その最中、曽我兄弟による仇討ちが起きた。
兄の曽我祐成と弟の時致は、父の仇である工藤祐経を狙っていた。
祐経は頼朝に仕える有力な御家人だった。
5月28日夜、兄弟は祐経を襲い、殺害した。
祐成はその場で討たれ、時致も捕らえられた。
事件は鎌倉にも伝わり、頼朝自身が討たれたという誤報まで広がったという。
『吾妻鏡』には事件の記録が残るが、後世の『曽我物語』では多くの逸話が加えられている。
仇討ちの後、頼朝の弟・範頼に謀反の疑いが向けられた。
範頼の失脚
源範頼は、木曾義仲の追討や平家との戦いで軍勢を率いた頼朝の弟だった。
壇ノ浦に至るまでの西国での戦いでも、大きな役割を担っている。
しかし建久4年、範頼は謀反の疑いをかけられた。
『吾妻鏡』には、範頼が起請文を差し出して疑いを解こうとしたことが記されている。
さらに範頼の家人・当麻太郎が頼朝の寝所に忍び込み、捕らえられる事件も起きた。
家人は範頼の処遇を確かめようとしたと弁明したが、頼朝は許さなかった。
8月17日、範頼は伊豆へ送られた。
『吾妻鏡』には帰参の期限を定められず、流罪に等しい処分だったことが記されている。
一方、後世の『保暦間記』には別の事情が伝わる。
曽我兄弟の仇討ちで頼朝が討たれたという誤報が届き、政子が悲しんでいたとき、範頼が自分がいるから心配はいらないと慰めたという。
その言葉が将軍の地位を狙っているように受け取られ、頼朝の怒りを招いたとされる。
ただし、この逸話が範頼失脚の直接の原因だったと確定することはできない。
範頼が実際に謀反を企てた証拠も明らかでない。
伊豆へ送られた後の詳しい動向もわからず、殺害されたとする伝承が残る。
平家を滅ぼした頼朝の弟たちは、義経も範頼も、最後には兄のもとを離れることになった。
大姫の入内を望む
頼朝には、北条政子との間に長女の大姫がいた。
幼いころ木曾義仲の息子・義高と婚姻を約束していたが、義高は頼朝の命令で殺された。
『吾妻鏡』には、大姫がその死を深く悲しみ、長く病に苦しんだと記されている。
頼朝は成長した大姫を、後鳥羽天皇の後宮へ入れようとした。
皇室との婚姻によって、朝廷との関係をさらに深めようとしたのである。
平清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、その子である安徳天皇の外祖父となった。
頼朝の入内計画にも、天皇との婚姻関係を政治に生かそうとする考えがあったとみられる。
建久6年(1195年)の上洛では、頼朝は朝廷の有力者たちと接触し、大姫の入内に向けて動いた。
しかし、朝廷には九条兼実や源通親らの対立があった。
後鳥羽天皇の後宮をめぐる事情も複雑だった。
大姫の入内は実現しなかった。
建久8年(1197年)、大姫は亡くなった。
数え二十歳だった。
頼朝は娘の入内を果たせないまま、その死を迎えた。
東大寺の落慶供養
建久6年。
頼朝は奈良の東大寺で行われた大仏殿の落慶供養に参列した。
東大寺は治承4年(1180年)、平重衡らが率いた平家軍による南都攻撃で大きな被害を受けた。
大仏殿も焼失している。
その後、僧の重源を中心として再建が進められた。
頼朝も再建を支援した。
平家の軍勢によって焼失した大仏殿の再建に、平家を滅ぼした頼朝が力を貸したのである。
鎌倉でも頼朝は鶴岡八幡宮を整え、勝長寿院や永福寺などの寺院造営に関わっていた。
朝廷の官職を受け、寺社を保護し、御家人の土地を守る。
頼朝の政治は、京都や奈良の人々との関係を通じても進められていた。
頼家と実朝
頼朝と政子の間には、二人の息子がいた。
長男の頼家は寿永元年(1182年)生まれ。
幼名は万寿。
次男の実朝は建久3年(1192年)に生まれた。
幼名は千幡だった。
頼朝は頼家を後継者として育てた。
しかし鎌倉には、それぞれ大きな勢力を持つ御家人たちがいた。
北条氏、比企氏、三浦氏、和田氏、梶原氏。
頼朝が生きている間、彼らは頼朝を主君として従っていた。
だが、家ごとの利害が消えたわけではない。
頼家の周囲には乳母の関係を通じて比企氏が結びつき、政子の実家である北条氏も重要な地位を占めていた。
頼朝は東国の武士たちを従わせた。
その頼朝が亡くなれば、次の将軍を誰が支え、誰が政治を動かすのか。
鎌倉の有力御家人たちの間で、新たな争いが始まることになる。
建久10年正月13日
建久10年(1199年)正月13日。
源頼朝が亡くなった。
数え五十三歳だった。
死因は明らかでない。
よく知られるのは、前年の暮れ、相模川の橋供養へ出席した帰途に落馬し、その後亡くなったという話である。
しかし『吾妻鏡』には、頼朝が亡くなった当日の記事が残っていない。
建久7年から建久10年初めにかけて、記述が大きく欠けている。
『吾妻鏡』が頼朝の落馬に触れるのは、建暦2年(1212年)2月28日条である。
頼朝の死から十三年後の記述だった。
『尊卑分脈』にも落馬の話は見えるが、死因を確定するには十分でない。
一方、京都の貴族の日記や記録には、頼朝が病によって亡くなったことが記されている。
ただし、病名や直接の死因についてはわかっていない。
後世には暗殺説も語られたが、それを裏づける確かな史料はない。
頼朝は鎌倉で生涯を終えた。
その遺体は、生前に建立した持仏堂に関わる場所へ葬られたとされる。
後に法華堂と呼ばれるようになった場所である。
現在の鎌倉市西御門には、頼朝の墓と伝わる石塔が残されている。
ただし、現在の石塔は後世に整備されたものである。
頼朝の死後、最初に失脚した功臣
頼朝の死後、家督を継いだのは長男の頼家だった。
十八歳だった。
頼家は父の後を継いで御家人たちを統率しようとした。
しかし鎌倉には、多くの有力武士が集まっていた。
彼らの関係は、頼朝一人の存在によって保たれていた部分もあった。
頼朝の死から数か月後、頼家の政務を補佐する体制が整えられた。
後世「十三人の合議制」と呼ばれることもある。
その制度の実態については研究上の議論があるが、有力御家人たちが将軍の政治に深く関わるようになったことは確かだった。
そして建久10年、梶原景時が多くの御家人から非難を受け、失脚した。
景時は、かつて石橋山で頼朝の命を救ったと伝わる人物である。
その後、頼朝に仕えて軍事や御家人の統率に関わり、上総広常の殺害にも関わったとされる。
頼朝のもとでは重い地位を占めていた。
しかし主君が亡くなると、景時は鎌倉を去ることになった。
翌正治2年(1200年)正月。
景時は一族を率いて京都へ向かおうとしたが、駿河国で追撃を受け、討ち取られた。
頼朝を石橋山で見逃したと伝わる武士は、頼朝の死から一年ほどで命を落とした。
広常を殺した景時も、今度はほかの御家人たちに追い詰められた。
頼朝が築いた鎌倉には、なお多くの有力武士が残っていた。
その後も比企氏と北条氏の対立が深まり、二代将軍の頼家は失脚する。
三代将軍となった実朝も、建保7年(1219年)、鶴岡八幡宮で暗殺された。
頼朝の直系の男子による将軍家は、ここで断絶した。
かつて頼朝のもとに集まり、平家や奥州藤原氏を討った武士たちは、頼朝の死後、鎌倉で互いに争い始めていた。
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