【人物編Vol.84】平忠房――湯浅で八度の攻撃を退け、父・重盛の恩を信じて斬られた公達

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人物

第158回

文治元年(1185年)、紀伊国湯浅。

山上の城を、熊野の軍勢が取り囲んでいた。

城内には、平氏の生き残りが立て籠もっている。

中心にいたのは、丹後侍従・平忠房。

平清盛の孫であり、内大臣・平重盛の息子だった。

同年3月24日、壇ノ浦で平氏は敗れた。

安徳天皇は海へ沈み、平知盛ら一門の有力者も相次いで命を落としている。

兄の資盛と有盛も、従兄弟の行盛と手を取り合って海へ沈んだと『平家物語』は伝える。

しかし、忠房は壇ノ浦にはいなかった。

屋島の戦いの後、一門から離れ、紀伊国の湯浅宗重を頼っていたのである。

『平家物語』巻第十二に伝わる忠房の挿話によれば、その知らせを聞いた平氏の旧家人たちが湯浅へ集まってきた。

越中次郎兵衛。

上総五郎兵衛。

悪七兵衛。

飛騨四郎兵衛。

さらに伊賀・伊勢の武士たちも加わり、数百騎の軍勢になったという。

源頼朝は、熊野別当に追討を命じた。

熊野の軍勢が湯浅へ攻め寄せる。

しかし城兵は激しく抵抗した。

二、三か月の間に八度。

熊野方は繰り返し城を攻め、そのたびに撃退されたと物語は伝えている。

ついに熊野別当は鎌倉へ使者を送り、近国から援軍を集めたいと申し出た。

ところが、頼朝は大軍の動員を認めなかった。

代わりに命じたのは、城の出入りを封じることだった。

山道を押さえる。

海からも人や物資が入らぬよう監視する。

城内へ食糧が届かなければ、やがて抵抗を続けられなくなる。

そして頼朝は、ある知らせを広めたという。

平重盛の子で、生き残っている者があれば助けてやれ。

頼朝はかつて平治の乱で捕らえられ、処刑されそうになった。

その命を救うために力を尽くしたのが、忠房の父・重盛だったというのである。

父から受けた恩に報いるため、その子供たちは助命する。

忠房は、その言葉を信じた。

長く抵抗していた城を出て、京都の六波羅へ名乗り出た。

そして関東へ送られる。

『平家物語』によれば、頼朝は忠房と対面し、都へ戻るよう勧めたという。

しかし帰京の途中、近江国瀬田の橋付近で忠房は斬られた。

父・重盛の恩を利用した、頼朝の策略だったと物語は語る。

一方、公家・吉田経房の日記『吉記』には、文治元年12月、忠房の関東への送致と斬首に関する記録が残されている。

湯浅での八度の攻防、助命の言葉、そして帰京途中の処刑。

そのすべてを同時代の記録で確かめることはできない。

しかし、壇ノ浦から生き延びた忠房が、平氏滅亡後の文治元年12月に命を失ったことは、後世の軍記だけに残る話ではなかった。

父の恩を頼りに城を出たという忠房。

その生涯をたどると、平氏が滅びた後も紀伊国に残っていた武士たちの姿が見えてくる。

平重盛の息子――丹後侍従と呼ばれた公達

平忠房は、平重盛の息子として生まれた。

祖父は平清盛。

父の重盛は清盛の長男であり、保元の乱、平治の乱で戦い、朝廷では内大臣まで昇った人物だった。

忠房は一般に重盛の六男とされる。

ただし、兄弟の出生順には系図によって違いがあり、五男や末子とする伝承もある。

生年は明らかになっていない。

重盛の息子には、維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房らがいた。

ほかに宗実なども知られ、系図によって人数や出生順は一致しない。

忠房の母については、重盛の正室・藤原経子とする説がある。

経子は藤原家成の娘で、高倉天皇の乳母を務めた女性だった。

宮廷では典侍となり、大納言典侍などの名でも知られている。

しかし重盛の息子たちの母親には、古い系図の間で異同が残る。

忠房の母についても確定は難しい。

忠房自身は、宮廷で官職を得ていた。

『平家物語』に見える呼び名は「丹後侍従」。

侍従は天皇の身近に仕える役職であり、丹後守は丹後国の地方官だった。

従五位下に叙され、侍従と丹後守を務めたという官歴が伝わる。

丹後国は現在の京都府北部にあたり、日本海に面している。

京都から比較的近く、海上交通を通じて北国とも結ばれた地域だった。

忠房が実際に丹後へ赴任し、現地で国務を執ったという記録は確認できない。

平安時代の有力な貴族や武家の子弟には、国司の官名を持ちながら京都にとどまる者も多かった。

忠房も兄弟たちと同じく、平氏一門の公達として朝廷に出仕していたと考えられる。

長兄の維盛は、宮廷で青海波を舞った美しい公達として知られた。

資盛は和歌に親しみ、建礼門院右京大夫との交際を歌集に残している。

清経や有盛も近衛府の官職を歴任した。

師盛は丹後守や若狭守、備中守となり、後白河法皇の五十賀で笙を奏でたことが記録されている。

忠房が丹後侍従と呼ばれたのも、こうした一門の繁栄が続いていた時代だった。

しかし、父の重盛が亡くなると、兄弟たちの立場は変わり始める。

治承3年――父・重盛を失った小松家

治承3年(1179年)7月29日。

平重盛が死去した。

享年42歳。

重盛は清盛の長男として平氏一門を支え、後白河法皇とも深い関係を持っていた。

清盛と法皇の対立が激しくなると、両者の間で調整に当たることもあった。

その重盛が亡くなった。

長男の維盛は父の家を継ぐ立場となったものの、平氏一門全体の中心となったのは重盛の弟・平宗盛だった。

宗盛は清盛の正室・平時子の子であり、高倉天皇の中宮・徳子の兄でもある。

皇室との結びつきが強く、朝廷でも高い地位を占めていた。

同年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。

治承三年の政変である。

翌治承4年(1180年)5月、以仁王と源頼政が挙兵した。

8月には源頼朝が伊豆で兵を挙げる。

重盛の長男・維盛は東国追討軍の大将となったが、富士川で軍勢が崩れ、京都へ戻った。

各地で平氏への反乱が広がる中、治承5年(1181年)閏2月には清盛も亡くなった。

父と祖父を相次いで失った忠房は、宗盛を中心とする一門に従うことになる。

その後、木曾義仲が北陸で勢力を広げ、平氏に迫った。

寿永2年(1183年)5月、維盛らの率いた北陸追討軍は倶利伽羅峠で大敗する。

続く篠原の戦いでも敗れ、義仲の軍勢は京都へ向かった。

都を守ることが難しくなった平氏は、ついに京都からの撤退を決める。

寿永2年7月――兄弟たちと京都を去る

寿永2年7月25日。

平氏一門は安徳天皇と三種の神器を奉じ、西国へ向かった。

前夜、後白河法皇は京都を抜け出して比叡山へ移っていた。

宗盛は法皇を連れて西国へ向かうことも、都で抵抗を続けることもできなくなっていた。

忠房も兄弟たちとともに京都を離れた。

『平家物語』には、維盛が妻子との別れを惜しむ様子が記されている。

資盛も建礼門院右京大夫と別れた。

右京大夫の歌集には、資盛が死を予感し、後世の供養を願ったことが残されている。

忠房が都落ちの際に誰と会い、何を語ったのかは伝わっていない。

平氏一門は福原を経て西国へ進み、九州での再起を目指した。

しかし豊後国の緒方惟義が反旗を翻す。

緒方は、かつて忠房の父・重盛に仕えた武士だった。

『平家物語』によれば、資盛は父の旧家人である緒方を説得しようとしたが、応じてもらえなかったという。

平氏は大宰府を離れ、九州の沿岸を移動した後、瀬戸内海へ戻った。

その逃避行の中で、清経が柳ヶ浦で入水したと伝わる。

さらに屋島へ拠点を移した平氏は、備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破った。

11月には室山で源行家の軍勢にも勝利する。

こうして西国で勢力を立て直した平氏は、翌寿永3年(1184年)正月、再び福原周辺へ進出した。

忠房も、兄弟たちとともに源氏軍を迎え撃つことになった。

三草山――重盛の息子たちが守った山道

寿永3年2月。

平氏は生田森や一ノ谷に軍勢を配置し、源氏軍の進攻に備えていた。

源範頼は大手から、源義経は搦手から平氏軍へ迫った。

その義経軍が進む山道に、重盛の息子たちが布陣していた。

『平家物語』巻第九「三草合戦」によれば、大将は資盛。

有盛、忠房、師盛も加わっていた。

侍大将として伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方らの名が挙げられている。

義経は山の東側に軍勢を進め、平氏の陣へ迫った。

その日のうちに攻めるか、翌朝まで待つか。

義経が家人たちに尋ねると、田代信綱が夜襲を勧めたという。

翌朝になれば、平氏に援軍が加わるかもしれない。

今夜のうちに攻めるべきだ。

義経はその意見を採った。

『平家物語』では、源氏軍が松明を用意し、進軍路の民家にも火を放って山道を越えたと語られる。

一方、平氏方では翌朝の戦いに備えて休む兵が多かった。

夜半。

義経軍が襲いかかった。

突然の攻撃に平氏の陣は混乱した。

『平家物語』は、弓を取った兵が矢を探し、矢を持った兵が弓を探し回ったと記す。

源氏の騎馬武者が突入すると、平氏軍は陣を保てなくなった。

忠房も兄弟たちとともに敗走した。

『平家物語』によれば、資盛、有盛、忠房の三人は播磨国高砂へ向かった。

そして小舟に乗り、讃岐国屋島へ渡ったという。

しかし師盛は別の道を進んだ。

平内兵衛清家と海老次郎盛方を連れ、一ノ谷へ戻ったのである。

三日後の2月7日。

源範頼・義経の軍勢が、一ノ谷の平氏軍を攻撃した。

平忠度、平通盛、平敦盛らが相次いで討ち死にし、平重衡は捕らわれた。

そして師盛も命を落とした。

『平家物語』では、師盛は海へ逃れる途中、小舟が転覆し、熊手で引き上げられて討たれたと語られている。

資盛、有盛、忠房は屋島へ逃れていた。

三草山で同じ軍勢にいた兄弟のうち、師盛だけが一ノ谷で命を落としたのである。

藤戸の戦い――忠房、兄たちと再び出陣する

元暦元年(1184年)秋。

源範頼は平氏追討のため、山陽道を西へ進んだ。

平氏方は備前国児島に軍勢を置き、藤戸の海峡を挟んで源氏を迎え撃とうとした。

現在の岡山県倉敷市南部にあたる児島は、当時は海に囲まれた島だった。

本州側との間には浅瀬や水路が広がり、陸上を進んできた源氏軍は容易に渡ることができなかった。

『平家物語』巻第十「藤戸」は、平氏方の大将として資盛、有盛、忠房の三人を挙げている。

三草山でともに戦った兄弟だった。

侍大将には越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らがいたという。

平氏方は五百余艘の兵船を用意していたと記される。

海を隔てて源氏軍を待ち構えた平氏の兵たちは、小舟に乗って扇を掲げ、ここまで渡ってみよと挑発したという。

しかし源氏方の佐々木盛綱は、地元の男から馬で渡れる浅瀬を聞き出した。

『平家物語』では、盛綱がその男を口封じのために殺したと語られる。

そして翌朝、盛綱は馬を海へ入れ、源氏軍の先頭に立って対岸へ渡ったという。

この藤戸の戦いについては、『平家物語』と『吾妻鏡』で記録が異なる。

『平家物語』は9月の戦いとして描き、資盛、有盛、忠房を平氏方の大将に挙げる。

一方、『吾妻鏡』は12月7日の出来事として記録し、平行盛が児島に陣を構えていたと記している。

合戦の日付も、指揮官の名前も一致しない。

忠房が実際にどの部隊を率いていたのかは定かでないが、『平家物語』では三草山に続いて兄たちと戦場へ出た人物として語られている。

このころ、忠房のもとにいたとされる武士たちの名前は、後に紀伊国湯浅でも登場する。

越中次郎兵衛。

上総五郎兵衛。

悪七兵衛。

彼らは平氏に従って各地を転戦し、壇ノ浦の後も生き延びたと伝えられる武士たちだった。

屋島の敗戦――忠房は一門から離れる

元暦2年(1185年)2月。

源義経は摂津国から阿波国へ渡り、讃岐国屋島へ向かった。

平氏は海上からの攻撃を警戒していた。

しかし義経軍は陸路を進み、屋島の陣へ急襲を仕掛けた。

平氏は陣を離れ、船へ退いた。

安徳天皇を奉じる宗盛らは西へ向かい、長門国彦島周辺を拠点とすることになる。

『平家物語』には那須与一の扇の的や、義経が海に流された弓を拾った話が残されている。

一方、忠房が屋島でどのように戦ったのかは詳しく伝わっていない。

ただ、巻第十二の忠房に関する挿話は、屋島の敗戦後に一門から離れたと記している。

「八島の戦より落ちて行方も知らず」

屋島を落ち延び、その後の行方がわからなくなっていたというのである。

平氏の主力は長門国へ退いた。

そして3月24日、壇ノ浦で最後の戦いを迎える。

安徳天皇は平時子に抱かれて海へ沈み、知盛ら一門の武将たちも相次いで命を落とした。

兄の資盛と有盛も、従兄弟の行盛と手を取り合って入水したと『平家物語』は記す。

宗盛は捕らわれた。

平氏は安徳天皇を奉じて戦う力を失った。

しかし忠房は、その場にはいなかった。

紀伊国の湯浅宗重を頼っていたと伝えられる。

湯浅宗重――平治の乱で清盛を助けた武士

湯浅宗重は、紀伊国有田郡を本拠とする武士だった。

湯浅氏は熊野街道に沿って勢力を広げ、沿岸部にも拠点を築いていた。

湯浅湾は紀伊水道に面し、船による移動や物資の運搬にも利用できた。

宗重は海上交通を押さえながら、有田地方に勢力を築いた人物である。

湯浅氏と平氏の関係が深まったのは、平治元年(1159年)だった。

平清盛は熊野参詣の途中、京都で源義朝らが挙兵した知らせを受けた。

平治の乱である。

清盛は急いで京都へ戻る必要があった。

そのとき協力したと伝わるのが、湯浅宗重だった。

宗重は清盛の帰京を助け、その後、平氏の有力な家人となったという。

紀伊国での交通や沿岸の港を押さえる宗重は、清盛にとって頼りになる存在だった。

その清盛の孫が忠房である。

一門の軍勢から離れた忠房が宗重を頼った背景には、祖父の代から続く関係があった。

しかし宗重は、すでに源氏とも関係を築いていた。

元暦元年(1184年)、源頼朝は義経に対して湯浅宗重を討たないよう命じている。

宗重を保護する趣旨の頼朝の書状が伝わっているのである。

平氏に古くから仕えた宗重は、頼朝からも保護される立場にあった。

そこへ忠房が現れた。

宗重にとって、清盛の孫を見捨てることは容易ではなかっただろう。

しかし忠房のもとに武士たちが集まり始めると、湯浅氏自身も源氏の追討に巻き込まれることになった。

越中次郎兵衛、悪七兵衛――忠房のもとへ集まった武士たち

忠房が湯浅にいるという知らせを聞き、各地から平氏の旧家人たちが集まってきたと『平家物語』は語る。

越中次郎兵衛。

上総五郎兵衛。

悪七兵衛。

飛騨四郎兵衛。

越中次郎兵衛は平盛嗣、上総五郎兵衛は藤原忠光、悪七兵衛は藤原景清として知られる武士たちである。

彼らは平氏に仕え、源平合戦の各地で戦ったと伝えられている。

『平家物語』では、藤戸の戦いでも盛嗣、忠光、景清らの名前が登場する。

平氏の本隊は屋島を失い、壇ノ浦でも敗れた。

しかし戦場を離れ、各地で生き延びていた家人たちもいた。

忠房が紀伊国で生き残っているという知らせは、そうした者たちを引き寄せたと物語は伝えている。

さらに伊賀・伊勢からも武士が駆けつけたという。

集まった軍勢は数百騎。

兵数の確かさには検討が必要だが、少なくとも物語の中では、忠房を中心とした武装集団が形成されている。

忠房は清盛の孫であり、重盛の息子だった。

父の重盛は、平氏の中でも後白河法皇との関係が深く、多くの家人を抱えた人物だった。

その息子が生きている。

平氏への忠節を保つ武士たちにとって、忠房の存在は軍勢を再びまとめる理由になったのだろう。

そして、忠房は湯浅の城に立て籠もったと伝わる。

湯浅城と岩室城――籠城した場所はどこか

忠房の籠城について、『平家物語』の挿話は「湯浅の城」と記している。

現在の和歌山県湯浅町には、湯浅城跡が残る。

湯浅町の中心部を見下ろす青木山に築かれた山城で、湯浅氏の本拠に関わる重要な遺跡である。

城跡には、尾根や斜面を利用して造られた曲輪などの遺構が残されている。

湯浅町などが行った発掘調査では、鎌倉時代以降の城館活動を示す遺構や遺物が確認された。

現在、湯浅城跡は国指定史跡「湯浅党城館跡」の一部となっている。

ただし、発掘によって確認された城館の姿を、そのまま1185年の忠房の籠城に重ねることはできない。

忠房の時代にどのような建物や防御施設があったのかは、なお不明な点が多い。

さらに、忠房の籠城地には別の伝承もある。

現在の和歌山県有田市に残る岩室城である。

『平家物語』長門本系の記述と結びつけられ、忠房が湯浅宗重を頼って岩室城に籠もったという話が伝えられている。

岩室城は有田川流域を見渡せる丘陵に築かれた山城で、現在も城跡が残る。

湯浅城と岩室城は、ともに有田地方の城館だった。

湯浅氏はこの一帯に広い勢力を持ち、複数の拠点を利用していた。

忠房が具体的にどの城に立て籠もったのかは、伝本と現地の遺構を合わせて検討する必要がある。

ただ、『平家物語』が忠房の抵抗の舞台を湯浅と伝えていることは確かである。

源氏の追討を受けた忠房は、祖父の代から平氏に仕えた湯浅宗重の勢力圏で身を守ろうとした。

そして、その城を攻めたのが熊野の軍勢だった。

熊野別当の軍勢――紀伊国で始まった攻防

熊野別当は、熊野三山の宗教組織を統率する役職だった。

熊野は古くから多くの参詣者を集め、寺社の周辺には武装した人々もいた。

熊野別当は宗教上の地位を持つとともに、紀伊国の軍事にも大きな影響力を持っていた。

源平合戦のころ、熊野別当として知られるのが湛増である。

湛増は壇ノ浦の戦いで源氏方に味方したと伝わる人物だった。

『平家物語』には、熊野で赤白の鶏を戦わせ、どちらに味方するかを占ったという逸話も残る。

白い鶏が勝ったため、湛増は源氏に味方したというのである。

鶏合わせの話は後世に伝わった逸話だが、熊野の勢力が源氏と結びついたことは、平氏滅亡後の紀伊国を考えるうえでも重要だった。

その熊野の軍勢が、忠房の籠もる湯浅へ攻め寄せたと『平家物語』は語る。

湯浅宗重は平氏の旧家人。

熊野別当は源氏方の有力者。

紀伊国の中で、両者の勢力が向き合うことになったのである。

熊野別当は頼朝から忠房の追討を命じられたとされる。

しかし、城に籠もる武士たちは簡単には降伏しなかった。

二、三か月で八度――湯浅の城を攻めた熊野勢

熊野の軍勢が城へ迫った。

城内では忠房を中心に、平氏の旧家人たちが守りを固めていた。

攻め手は山へ押し寄せ、城兵が迎え撃つ。

『平家物語』は、その攻防が二、三か月続いたと記している。

熊野方は八度も攻撃を仕掛けたという。

しかし、いずれも城兵に退けられた。

熊野法師にも多くの死者が出たと伝わる。

忠房のもとには、越中次郎兵衛や上総五郎兵衛、悪七兵衛ら、戦いを重ねてきた武士たちが集まっていた。

物語が描く湯浅の軍勢は、壇ノ浦で一門の主力を失った後も、なお抵抗する力を残している。

熊野方は正面から攻めても城を落とせなかった。

ついに熊野別当は、鎌倉へ使者を送ったという。

近国二、三か国から援軍を集め、城を攻め落としたい。

そう申し出たのである。

しかし頼朝は、その願いを認めなかったと物語は伝える。

大勢の兵を集めれば、国の負担となり、人々を煩わせる。

それよりも、城の周囲を固めるよう命じたという。

八度の攻撃を受けても落ちなかった湯浅の城。

頼朝が選んだのは、兵を増やしてさらに攻め立てる方法ではなかった。

山と海を封じよ――頼朝の兵糧攻め

『平家物語』によれば、頼朝は熊野別当に城の出入りを厳しく取り締まるよう命じた。

山賊や海賊を取り締まる名目で、山道や海路を押さえるというのである。

湯浅は山と海の両方に通じる土地だった。

熊野街道を利用すれば紀伊国各地へ向かうことができ、湯浅湾からは船で移動できた。

その交通路を封じられれば、城内へ食糧や武具を運び込むことは難しくなる。

城を守る側にとって、兵糧の確保は欠かせない。

たとえ攻撃を退けても、食糧が尽きれば籠城は続けられない。

また、援軍や使者の行き来を断たれれば、外部との連絡も難しくなる。

『平家物語』は、頼朝の命令どおりに出入りを取り締まったところ、やがて城内には人が一人もいなくなったと記している。

武士たちがどのような経過で去ったのか、詳しいことは語られていない。

しかし城に籠もる軍勢は、いつまでも同じ数の兵を維持できるわけではなかった。

頼朝は、武力で攻め落とすよりも、外とのつながりを断つことに力を注いだと物語は伝える。

そして忠房には、もう一つの知らせが届いた。

それは父・重盛に関わるものだった。

「重盛の子なら助けよ」――頼朝が持ち出した恩

頼朝は、平重盛の息子で生き残っている者があれば助命すると知らせたという。

『平家物語』には、その言葉が次のように記されている。

「小松殿の公達の、一人も二人も生き残り給ひたらんをば、助け奉るべし」

小松殿とは、忠房の父・平重盛のことである。

頼朝はさらに、助命する理由を述べたと伝わる。

かつて自分が処刑を免れたのは、重盛の恩によるものだった。

平治元年(1159年)、源義朝は清盛との戦いに敗れた。

義朝の息子だった頼朝も捕らえられ、清盛のもとへ送られた。

頼朝はまだ少年だった。

清盛は頼朝を処刑しようとしたと伝わる。

しかし清盛の継母・池禅尼が助命を願い、頼朝は命を救われた。

その後、伊豆へ流されている。

『平家物語』では、この助命に重盛も関わったと語られる。

重盛が父の清盛へ働きかけ、頼朝の命を救うために力を尽くしたというのである。

それから二十数年。

かつて処刑を免れた頼朝は、東国の武士たちを率いて平氏を滅ぼした。

一方、重盛の息子である忠房は、紀伊国の城に立て籠もっていた。

頼朝は父への恩を忘れていない。

だから重盛の子供たちは助ける。

その知らせが忠房のもとへ届いたと物語は語っている。

ただし、重盛が頼朝の助命に具体的にどこまで関わったのかは、軍記物語の伝承に拠るところが大きい。

また、頼朝が実際にこのような助命の言葉を広めたことも、同時代の記録では確認できない。

『平家物語』では、この言葉が忠房を投降へ導くことになる。

湯浅の城で八度の攻撃を退けたという忠房が、最後に頼ったのは父の名前だった。

湯浅宗重の判断――旧主への恩と一族の存続

忠房を迎えた湯浅宗重も、難しい立場にあった。

宗重は平治の乱以来、平氏と深い関係を持っていた。

清盛の帰京を助け、その家人として活動してきた。

しかし平氏が西国へ退くと、宗重は源氏との関係も築いた。

頼朝は宗重を討たないよう義経へ命じていた。

紀伊国の有力な武士である宗重を、頼朝も味方に引き入れようとしていたのである。

その宗重が、清盛の孫である忠房をかくまった。

平氏への旧恩を考えれば理解できる行動だった。

しかし忠房のもとに旧家人たちが集まり、源氏への抵抗を続ければ、湯浅氏自身も追討の対象となる。

籠城戦が長引くほど、周辺の土地や人々への負担も増えていく。

宗重にとって、一族と所領を守ることは切実な問題だった。

この時期の宗重には、神護寺の僧・文覚との関係もあった。

文覚は神護寺の復興に力を尽くし、源頼朝とも深い結びつきを持っていた人物である。

宗重も文覚の活動を支えており、両者には以前からつながりがあった。

文覚が宗重に頼朝への帰順を勧めたとする伝承もある。

宗重がその勧めをどのように受け止め、忠房へ何を伝えたのかは明らかでない。

しかし、湯浅氏が最終的に頼朝の御家人となったことは確かだった。

平氏に仕えた宗重は、鎌倉幕府のもとで生き残る道を選んだのである。

そして忠房も、湯浅の城を出ることになった。

六波羅へ出頭――かつての平氏の本拠へ

『平家物語』によれば、頼朝の助命の知らせを聞いた忠房は、京都の六波羅へ向かった。

かつて平氏一門の邸宅が集まっていた場所である。

清盛が権勢を振るっていたころ、六波羅には多くの公達や家人たちが暮らしていた。

忠房も若いころは、そうした一門の繁栄を身近に見て育ったはずである。

しかし都落ちの後、六波羅にあった平氏の勢力は失われていた。

源氏方が京都の警備や政務に関わるようになり、かつての一門の本拠も様変わりしていた。

忠房はそこへ名乗り出たという。

湯浅の城で平氏の旧家人たちを率いた忠房が、今度は源氏方へ自ら身を委ねたのである。

頼朝は重盛への恩を忘れていない。

その言葉を信じ、忠房は城を離れたと物語は伝える。

忠房は関東へ送られることになった。

この関東への送致については、軍記物語以外にも記録が残されている。

吉田経房の日記『吉記』である。

文治元年(1185年)12月8日。

『吉記』には、小松内大臣・重盛の息子である忠房を関東へ送ることに関する記事がある。

「小松内府息忠房招引関東事」

忠房が壇ノ浦の戦いを生き延び、文治元年の暮れに頼朝方の管理下に置かれていたことが、この記録からうかがえる。

ただし、湯浅の籠城戦や助命の約束について、『吉記』は詳しく語っていない。

忠房がいつ城を出て、どのような条件で身柄を預けたのかは明らかでない。

それでも、文治元年12月には忠房が関東へ送られることになっていた。

その後の経緯について、『平家物語』はさらに一つの場面を伝えている。

鎌倉での対面――頼朝が勧めた帰京

『平家物語』によれば、忠房は鎌倉で頼朝に対面した。

頼朝は忠房を迎え、都へ戻るよう勧めたという。

京都の近くに住む場所を用意する。

そのような言葉をかけ、忠房を安心させたと物語は伝える。

忠房はすでに湯浅の城を離れていた。

旧家人たちを率いて戦うこともできない。

頼朝の言葉を信じ、命を預けたのである。

そして忠房は、都へ向かって東海道を西へ進んだ。

ところが頼朝は、忠房の後を追うように武士を遣わしたという。

近江国瀬田。

琵琶湖から流れ出す瀬田川に橋が架かり、東国と京都を結ぶ重要な交通の要地だった。

忠房は、その橋の辺りで追手に斬られたと『平家物語』は伝える。

鎌倉では都へ戻るよう勧められた。

しかし、その帰り道で命を奪われたというのである。

『平家物語』は、頼朝が父・重盛への恩を口にしながら、忠房を欺いて処刑させたと描いている。

湯浅の城を何度攻めても落とせなかった頼朝が、助命の知らせによって忠房を誘い出した。

そのような結末として語られている。

しかし、鎌倉での対面や瀬田での処刑を、同時代の記録からそのまま確認することは難しい。

忠房の死については、『吉記』と『吾妻鏡』に異なる記録が残されている。

『吉記』12月16日――忠房の斬首

吉田経房は、後白河法皇の近臣として活動した公家だった。

その日記『吉記』は、治承・寿永の内乱と朝廷の動きを知るうえで重要な史料である。

忠房については、文治元年12月8日に関東への送致に関する記事がある。

さらに12月16日には、忠房の斬首に関する記録が残されている。

「忠房被切首事」

忠房が首を斬られたという記事である。

この短い記録から、少なくとも文治元年12月には忠房の処刑が朝廷側にも伝わっていたことがわかる。

ただし、12月16日が処刑の実行日だったのか、それ以前に起きた出来事の知らせが記された日なのかは、慎重に検討する必要がある。

さらに『吾妻鏡』にも忠房の名前が現れる。

文治元年12月17日条である。

「小松内府息丹後侍従忠房、後藤兵衛尉基清預之」

重盛の息子である丹後侍従忠房が、後藤兵衛尉基清に預けられたという記事だった。

『吉記』の斬首記事よりも後の日付である。

12月16日に斬首の記事があり、翌17日には身柄が預けられたという記録がある。

両者の日付は、そのままでは一致しない。

『吾妻鏡』は鎌倉時代後期に編纂された歴史書であり、記事に記された日付と出来事の実際の順序には検討を要する場合がある。

一方、『吉記』も、斬首に関する短い記述だけで処刑の場所や詳しい経過まで明らかにしているわけではない。

『平家物語』では、忠房は鎌倉で頼朝に会い、帰京途中の瀬田で斬られた。

『吉記』は12月16日に斬首の記事を残し、『吾妻鏡』は翌17日に後藤基清への身柄の預託を記している。

処刑地や正確な実行日を確定するには、なお史料上の問題が残る。

しかし忠房が壇ノ浦を生き延び、文治元年12月に頼朝方の管理下へ入り、斬首されたという記録が残されていることは重要だった。

頼朝はなぜ忠房を処刑したのか

壇ノ浦で平氏が敗れた後も、頼朝方による一門の生き残りへの追及は続いていた。

宗盛は子の清宗とともに処刑された。

重衡も一ノ谷で捕らわれた後、南都へ送られて命を落とした。

京都では北条時政らが平氏の遺児たちを捜索していた。

重盛の長男・維盛の子である六代も捕らわれ、一時は処刑されそうになった。

六代は僧・文覚の助命によって救われたが、後年、頼朝の死後に処刑されたと伝えられている。

忠房は、まだ幼かった六代とは立場が違っていた。

すでに丹後侍従として宮廷で官職を得ていた人物であり、『平家物語』では三草山や藤戸で軍勢に加わったとされる。

さらに湯浅では、平氏の旧家人たちが忠房のもとへ集まったという。

頼朝方から見れば、清盛の孫であり、重盛の息子でもある忠房は、平氏の残党をまとめる存在になり得た。

ただし、忠房が実際にどれほどの兵を集め、どのように抵抗を続けていたのかは、軍記物語に伝わる部分が大きい。

頼朝が処刑を命じた理由を詳しく記した同時代の命令書も確認できない。

それでも、平氏一門の血筋を持つ人物が武士たちを集めていたとすれば、鎌倉にとって警戒すべき相手だっただろう。

『平家物語』は、頼朝が父・重盛への恩を利用し、忠房を欺いたと語る。

しかし頼朝自身が何を考えて処刑を決めたのかは、記録の残る範囲から推測するほかない。

忠房は壇ノ浦の敗戦から九か月ほど後に命を落とした。

その間にも、源氏方は西国の支配を広げ、平氏に従っていた武士たちを次々に組み込んでいた。

忠房を迎え入れた湯浅宗重も、その一人だった。

湯浅宗重のその後――紀伊国に残った湯浅党

忠房が処刑された後も、湯浅宗重は紀伊国で勢力を保った。

宗重は頼朝に従い、鎌倉幕府の御家人となった。

平治の乱では清盛に協力し、平氏の有力な家人となった宗重。

しかし平氏滅亡後は新しい支配者のもとで所領を守った。

その後、湯浅氏を中心とする武士団は湯浅党と呼ばれ、有田地方に広く勢力を持つようになる。

湯浅党は血縁で結ばれた一族に加え、婚姻や養子関係によって結びついた武士たちによって構成されていた。

一族は各地に城館や寺院を残し、鎌倉時代から南北朝時代にかけて紀伊国で活動した。

現在、湯浅城跡と藤並館跡は国指定史跡「湯浅党城館跡」として保護されている。

発掘調査では、鎌倉時代以降の城館の遺構や遺物が確認された。

湯浅氏が中世の紀伊国で有力な武士団を形成していたことは、現地の遺跡や古文書からも知られる。

ただし、忠房が1185年にどの城へ籠もり、八度の攻撃がどのように行われたのかは、現在の城跡から直接確かめることはできない。

湯浅城と岩室城には、それぞれ忠房の抵抗に結びつく伝承が残されている。

その地で忠房を迎え入れた宗重は、平氏の時代を越えて生き残った。

一方、忠房は文治元年12月、源氏方の手に渡った後に斬首されたと記録されている。

平忠房の最期――父の恩を信じて湯浅の城を出る

平忠房は、平重盛の息子として生まれた。

祖父は平清盛。

丹後侍従と呼ばれ、若いころは宮廷に仕える公達だった。

しかし治承3年(1179年)に父の重盛を失い、治承5年(1181年)には祖父の清盛も亡くなった。

寿永2年(1183年)7月、平氏一門は京都を離れた。

忠房も兄弟たちとともに西国へ向かった。

九州で大宰府を追われた後、平氏は屋島を拠点に反攻する。

翌寿永3年2月、忠房は資盛、有盛、師盛らとともに三草山で源義経軍を迎え撃った。

しかし夜襲によって敗走する。

忠房は資盛、有盛とともに高砂から屋島へ逃れた。

師盛は一ノ谷へ向かい、数日後の戦いで命を落とした。

同じ年の秋には、忠房は兄たちとともに藤戸の戦いにも加わったと『平家物語』は伝える。

平氏の水軍を率い、備前国児島で源氏の進軍を阻もうとしたという。

そして元暦2年(1185年)2月。

屋島が義経の急襲を受けると、忠房は一門から離れた。

頼ったのは紀伊国の湯浅宗重だった。

宗重は平治の乱以来、清盛に仕えてきた武士である。

その宗重のもとへ、清盛の孫が逃れてきた。

『平家物語』によれば、忠房が湯浅にいるという知らせを聞き、平氏の旧家人たちが集まった。

越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛らである。

忠房を中心に数百騎が籠もった城を、熊野別当の軍勢が攻めたという。

二、三か月の間に八度。

攻め手は繰り返し撃退されたと物語は記している。

しかし頼朝は、山と海の出入りを封じるよう命じた。

そして、重盛の息子であれば助けるという言葉を広めたと伝わる。

平治の乱で捕らわれた頼朝は、池禅尼らの助命によって命を救われた。

その助命に重盛も関わったという伝承があった。

頼朝は父への恩に報いるため、重盛の子供たちを助けると知らせたのである。

忠房は、その言葉を信じた。

湯浅の城を出て六波羅へ名乗り出たと『平家物語』は語る。

そして関東へ送られる。

物語では鎌倉で頼朝に対面し、都へ戻るよう勧められた後、近江国瀬田で斬られたという。

一方、『吉記』には、文治元年12月8日に忠房の関東への送致に関する記事があり、同月16日には斬首の記録が残されている。

『吾妻鏡』は17日に、忠房が後藤基清へ預けられたと記している。

最期の場所と詳しい経過には、今も解決していない史料上の問題がある。

しかし忠房が壇ノ浦後も生き延び、文治元年の暮れに命を落としたことは、歴史記録にも残されている。

湯浅宗重は源氏に従い、紀伊国の武士団として存続する道を選んだ。

平氏の旧家人たちも、各地で新しい時代を迎えていた。

その中で忠房は、最後まで重盛の息子として行動したと物語に描かれる。

兄たちと三草山で戦い、藤戸でも平氏の軍勢に加わった。

屋島を失うと紀伊国へ逃れ、祖父の代から縁のある湯浅宗重を頼った。

その城を八度攻められても、忠房は抵抗を続けたという。

しかし最後に城を出たのは、父・重盛の恩によって命を救われると信じたからだった。

文治元年12月。

壇ノ浦の戦いから、およそ九か月。

『平家物語』が伝える忠房の最期は、父が頼朝に施したという恩を頼りに投降し、その頼朝の命によって斬られるというものだった。

平氏の公達として育ち、西国を転戦した忠房の生涯は、父の名を頼った投降の後に終わった。

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