第131回
寿永3年(1184年)1月。木曾義仲の首が京都の大路を運ばれたとき、その後を歩く武将がいた。
樋口次郎兼光である。
兼光は義仲の重臣で、今井兼平の兄だった。主君とともに信濃から京都へ進み、平家との戦いを重ねてきたが、義仲が近江国粟津で討死したとき、兼光は別の任務で河内国へ出兵していた。
『平家物語』によれば、帰還途中で義仲と弟の死を知らされた兼光は、従っていた兵たちに逃げるよう告げ、自らは京都へ戻って討死しようとした。
ところが、兼光は敵方に降伏した。
武蔵国の児玉党が助命に動き、源義経もその願いを朝廷へ伝えたという。しかし、兼光を許すことへの反発は強く、最終的に死罪となった。
かつて義仲とともに京都へ入った兼光は、捕虜となって主君の首に付き従い、同じ都の大路を歩くことになったのである。
樋口兼光の出自――木曾義仲を育てた中原兼遠の子
樋口兼光は、平安時代末期に木曾義仲に仕えた武将である。
樋口次郎とも呼ばれ、義仲軍の有力な家臣として知られる。生年は明らかではなく、幼少期の活動を詳しく示す記録も残されていない。
一般に、信濃国の武士・中原兼遠の子とされる。
中原兼遠は、幼い木曾義仲を養育した人物だった。
義仲の父・源義賢は久寿2年(1155年)、武蔵国の大蔵合戦で源義平に討たれた。
幼くして父を失った義仲は信濃国へ逃れ、兼遠の庇護を受けて育ったと伝えられている。
兼遠の子として知られるのが、樋口兼光と今井兼平である。
兼光が兄、兼平が弟にあたる。
今井兼平は義仲の乳兄弟として知られ、後に義仲の最期まで付き従った。兼光も義仲と兄弟のように育ったと伝えられる。
長野県辰野町には樋口という地名が残り、兼光にゆかりのある土地として知られている。
ただし、兼光の出生地や幼少期の生活について、詳しい同時代の記録が残されているわけではない。
義仲とどのように育ち、いつから武芸を学んだのかも分かっていない。
今井兼平と巴御前との関係
兼光の弟・今井兼平は、義仲の最後の戦いで重要な役割を果たした人物である。
『平家物語』では、兼平は義仲と近江国粟津で再会し、最後まで主君を守ろうとした。
義仲が討たれた後、兼平も自害して果てたと語られている。
また、女武者として知られる巴御前も、中原兼遠の娘であり、兼光や兼平の姉妹だったという伝承がある。
しかし、巴の出自は『平家物語』の諸本によって異なっている。
『源平盛衰記』では中原兼遠の娘として描かれる一方、別の伝本では異なる系譜が語られる。
そのため、巴と兼光の正確な親族関係を確定することはできない。
兼光と今井兼平の兄弟関係については、『平家物語』巻九「樋口被討罰」にも記されている。
義仲にとって、中原兼遠の一族は幼少期から深い関わりを持つ人々だった。兼光と兼平は、後にその軍勢を支える有力武将となっていく。
木曾四天王の一人となった兼光
樋口兼光は、木曾四天王の一人に数えられる。
木曾四天王とは、義仲に仕えた重臣のうち、特に名高い四人を指す呼称である。
『平家物語』では、今井、樋口、楯、根井の四人が挙げられている。
今井兼平、樋口兼光、楯親忠、根井行親である。
根井行親は信濃国佐久地方の武士で、義仲の挙兵を支えた。
楯親忠はその子であり、父とともに義仲軍で戦ったと伝えられる。
兼光と兼平も、義仲の勢力拡大に重要な役割を果たした。
ただし、四天王という呼称は軍記物語に見られるもので、当時の正式な役職名ではない。
義仲軍には、この四人以外にも多くの有力武士が加わっていた。
義仲の挙兵と信濃の武士たち
治承4年(1180年)、平家政権に対する挙兵が各地で始まった。
伊豆では源頼朝が兵を挙げ、信濃でも木曾義仲が武士たちを集めた。
義仲は信濃の武士団を味方につけながら勢力を広げ、やがて北陸方面へ進出する。
中原兼遠の一族も義仲を支え、兼光や兼平はその軍勢に加わった。
義仲軍は横田河原の戦いなどで平家方の勢力を破り、北陸道での戦いを本格化させていく。
兼光が挙兵当初からすべての戦いに参加したかどうかは明らかではない。
しかし、後に義仲が独立した軍勢を預けて河内国へ派遣したことからも、軍の中で重要な立場にあったことが分かる。
倶利伽羅峠の戦い――搦手を率いた樋口兼光
寿永2年(1183年)、義仲は北陸へ派遣された平家軍と戦った。
両軍は越中国と加賀国の境に位置する倶利伽羅峠周辺で衝突した。
『源平盛衰記』によれば、義仲軍は複数の部隊に分かれて平家軍を攻撃した。
この戦いで兼光は、搦手を率いる武将として登場する。
搦手とは、敵の正面から攻撃する大手に対し、側面や背後へ回って攻撃する部隊のことである。
『源平盛衰記』には、兼光が三千余騎を率い、太鼓や法螺貝を用意して敵軍の背後へ迫る場面が描かれている。
兼光は林六郎光明や富樫入道らを伴い、中山を越えて平家軍へ接近したという。
さらに根井行親や今井兼平らの部隊も動き、複数の方向から平家軍を包囲するように攻撃したと語られる。
軍勢が一斉に鬨の声を上げ、太鼓や法螺貝を鳴らしたため、平家側には実際よりもはるかに大きな軍勢が迫っているように感じられたという。
この戦いでは、牛の角に松明を結びつけ、平家軍へ追い込んだという有名な逸話も伝えられている。
ただし、これらは『源平盛衰記』に描かれた戦闘の経過である。
兼光が実際に三千騎を率いたことや、牛を使った攻撃が行われたことを、同時代の記録から確定することは難しい。
倶利伽羅峠で義仲軍が平家軍を破ったことと、軍記物語に描かれた細かな戦術は分けて考える必要がある。
それでも、兼光が義仲軍の重要な指揮官として語り継がれたことは、この描写からよく分かる。
義仲軍は倶利伽羅峠で大勝し、続く加賀国の篠原の戦いでも平家軍を破った。
北陸の戦局は大きく変わり、義仲は京都へ向けて進軍を続けた。
京都進出と義仲軍の苦境
寿永2年7月、義仲の軍勢が京都へ迫るなか、平家一門は安徳天皇と三種の神器を伴って都を離れた。
義仲は入京を果たし、後白河法皇から平家追討の命を受けた。
しかし、京都での支配は長く続かなかった。
当時の京都では飢饉の影響が残り、食糧の調達も難しくなっていた。
義仲軍の兵士による乱暴狼藉は人々の反発を招き、朝廷との関係も悪化していく。
さらに、西国では平家が勢力を回復し始めていた。
備中国の水島の戦いでは、義仲方の軍勢が平家軍に敗北した。
義仲は平家への対応に追われる一方、源頼朝や後白河法皇とも対立を深めていった。
このころの兼光は、京都に残って義仲へ都の情勢を伝える役割を担ったとされる。
義仲館の解説でも、義仲が西国へ軍勢を向けていた際、兼光が都に残って情報を伝えていたことが紹介されている。
ただし、兼光が具体的にどのような連絡を行い、政治的な判断にどこまで関わったのかは明らかではない。
兼光は戦場での武勇だけでなく、京都における義仲の活動を支えた武将としても伝えられている。
法住寺合戦――兼光の運命を変えた戦い
寿永2年11月、義仲と後白河法皇の対立は武力衝突に発展した。
義仲は後白河法皇の御所である法住寺殿を攻撃した。
法住寺合戦である。
義仲軍は法皇方の軍勢を破り、御所は焼失した。戦いでは多くの人々が命を落とした。
後白河法皇は義仲の支配下に置かれ、朝廷の有力者も排除された。
義仲は一時的に京都の政局を掌握したが、法住寺合戦によって朝廷側の反発は決定的となった。
兼光もこの戦いに関わった武将として、軍記物語に登場する。
『平家物語』では、兼光が後に捕らえられた際、法住寺合戦での義仲軍の行動が問題になったと語られている。
御所の人々は、義仲軍が攻め寄せたとき、今井や樋口の名を叫ぶ声があちこちで聞こえていたと訴えたという。
『源平盛衰記』には、御所に仕える女性たちが捕らえられ、衣服を奪われるなどの辱めを受けたという、さらに詳しい描写もある。
ただし、兼光個人がどのような行為を命じ、実際に何を行ったのかまでは明らかになっていない。
軍記物語に描かれた個々の行為を、そのまま兼光本人の責任として断定することには注意が必要である。
法住寺合戦で義仲軍が後白河法皇の御所を攻撃したことは、朝廷側に強い恨みを残した。
その恨みが、翌年の兼光の処遇にも影響することになる。
源行家との対立――河内へ出兵した兼光
義仲が京都で追い込まれていくなか、叔父の源行家との関係も悪化していた。
以仁王の令旨を各地の源氏へ伝えた人物として知られ、反平家の挙兵にも関わっていた。
行家は当初、源頼朝のもとを訪れたが、所領をめぐる問題などから対立し、その後は義仲に協力した。
しかし、京都進出後は義仲とも不和になった。
行家は西国へ出兵し、播磨国の室山の戦いで平家軍に敗れた。
その後、河内国の長野城へ入り、独自の勢力を維持しようとしたと伝えられる。
河内国長野城と石川一族
富田林市史によれば、このころ行家の軍勢には、河内国の武士・石川義兼らが加わっていた。
石川義兼は、南河内に勢力を持っていた石川一族の人物である。
長野城は、行家に協力していた石川義兼の本拠、またはその勢力圏内にあったと考えられている。
行家は長野城に入った後、南河内から和泉方面に一定の支配を及ぼしていた。
和泉国の農民からの訴えに対して裁決を下したことも、後世の文書から確認されている。
行家は頼朝や義仲の指揮下を離れ、自らの勢力を確保しようとしていたのである。
京都に迫る頼朝軍への対応を進めていた義仲にとって、河内方面に残る行家方も警戒すべき存在だった。
そこで義仲は兼光を派遣した。
義仲が兼光に託した任務
『平家物語』巻九「樋口被討罰」によれば、兼光は五百余騎を率いて河内国長野城へ向かった。
討伐の対象は源行家だった。
しかし、行家はすでに長野城を離れており、兼光は捕らえることができなかった。
行家が紀伊国名草にいると聞いた兼光は、さらに追撃を続けたという。
一方、『吾妻鏡』寿永3年1月21日条には、兼光が石川判官代を討つため河内へ派遣されたと記されている。
石川判官代は、石川義兼の叔父にあたる石川義資と考えられている。
『平家物語』では源行家、『吾妻鏡』では石川判官代と、討伐対象の記述に違いがある。
ただし、行家と石川一族は河内で協力していた。
兼光が義仲の命令を受け、河内方面へ出兵したという点は共通している。
富田林市史では、『玉葉』などの記録を踏まえ、この出兵を寿永3年1月19日の出来事として整理している。
頼朝方の軍勢が京都へ攻め込む前日のことである。
義仲は河内方面の敵対勢力を討つため、有力武将である兼光を京都から離した。
しかし、その翌日、義仲軍は大きな敗北を喫することになる。
宇治川・勢多の敗戦――義仲と今井兼平の死
寿永3年1月20日、源範頼・源義経の軍勢が京都へ攻め込んだ。
範頼は近江国の勢多方面、義経は山城国の宇治方面から進軍した。
義仲は両方面に兵を配置し、京都への進入を防ごうとした。
『平家物語』では、勢多方面を今井兼平が守り、宇治方面では根井行親や楯親忠らが戦ったと語られている。
しかし、義経軍は宇治川を突破した。
勢多方面でも義仲軍は劣勢となり、京都の防衛線は崩壊した。
義仲は都を離れ、近江方面へ敗走する。
『平家物語』によれば、義仲は大津の打出浜付近で今井兼平と再会した。
二人は追撃する敵軍と戦い続けたが、味方は次々と討たれ、主従はわずか五騎になったという。
その中にいた巴は、義仲の命令で戦場を去った。
義仲と兼平はなお戦い続けたものの、義仲は近江国粟津で討たれた。
今井兼平も、主君の死を知った後、自害して果てたと伝えられる。
なお、義仲の討死は『吾妻鏡』では1月20日、『平家物語』覚一本では21日とする違いがある。
このとき、兼光は河内方面にいた。
義仲と兼平が最後の戦いを続けていたころ、兼光は別の軍勢を率いて源行家方を追っていたのである。
淀の大渡――主君と弟の死を知る
『平家物語』巻九「樋口被討罰」は、兼光が義仲と弟の死を知らされた場面から始まる。
河内方面へ出兵していた兼光は、京都で合戦が起こったと聞き、急いで引き返した。
その途中、淀の大渡の橋付近で今井兼平の家人と出会ったという。
兼光が京都の様子を尋ねると、家人は義仲がすでに討たれ、今井兼平も自害したと告げた。
兼光は涙を流した。
そして従っていた兵士たちに語りかけたという。
義仲への忠義を思う者は、ここからどこへでも落ち延び、生き延びて主君の菩提を弔ってほしい。
自分は京都へ向かい、敵と戦って討死する。
死後の世界でもう一度義仲に会い、弟の兼平にも会いたい。
『平家物語』には、そうした兼光の言葉が記されている。
主君と弟を失った兼光は、自らも戦場で命を落とすつもりだったと語られるのである。
ただし、この会話が実際に交わされたことを確認できる同時代の記録はない。
一方、『吾妻鏡』にも、兼光が帰還途中で義仲の敗死を知ったことが記されている。
同書では、兼光は山城国八幡の大渡付近で知らせを受け、それでも京都へ向かおうとしたという。
『平家物語』と『吾妻鏡』は細部が異なるものの、兼光が帰還途中で主君の死を知り、その後も京都へ進もうとした点で共通している。
五百余騎から二十余騎へ
『平家物語』によれば、兼光が河内へ出兵したときの軍勢は五百余騎だった。
しかし、義仲の死を知った後、兵士たちは次々と離れていった。
兼光は彼らを無理に引き留めなかった。
主君を弔うために生き延びる道もあると告げ、逃げる者たちを送り出したという。
こうして軍勢は減少し、鳥羽の南の門を過ぎるころには、わずか二十余騎になっていた。
これらの兵数は軍記物語の描写であり、実際の人数を確定するものではない。
義仲の敗死によって軍勢の結束が失われ、兼光に従う者が急速に減っていった様子が描かれている。
それでも、兼光とともに京都へ向かう武士たちは残っていた。
その一人が、信濃国諏訪の武士・茅野太郎光広である。
茅野太郎光広――弟に最期を見せようとした武士
『平家物語』によれば、兼光の軍勢には茅野太郎光広という武士が加わっていた。
光広は信濃国諏訪上宮の住人で、茅野大夫光家の子とされる。
兼光が京都へ近づくと、頼朝方の武士たちは七条、朱雀、四塚付近などに集まり、進路を阻もうとした。
そのとき、光広が一騎で敵軍へ駆け込んだ。
光広は大声で、甲斐の一条次郎忠頼の軍勢に属する者がいないかと尋ねた。
敵の武士たちは、なぜ一条次郎の軍勢だけを探すのかと笑った。
光広はそこで自分の名を名乗り、理由を説明したという。
一条次郎の軍勢には、自分の弟である茅野七郎がいる。
光広には信濃に残してきた二人の子供がいた。
父がどのような最期を迎えたのか、子供たちは後に知りたがるだろう。
そのとき弟から確かな話を聞けるよう、弟の前で討死するつもりだというのである。
光広はその後、敵軍へ突入した。
『平家物語』では、三人の武者を討ち取り、四人目の敵と組み合って落馬し、刺し違えて死んだと語られている。
この戦闘の細部が史実だったかどうかは確認できない。
しかし、同じ信濃の武士でありながら、義仲方と頼朝方に分かれて戦う者がいたことを示す場面となっている。
光広と茅野七郎は、兄弟でありながら敵味方に分かれた人物として描かれている。
義仲軍の敗北は、兼光だけでなく、従っていた武士たちにもそれぞれ異なる結末をもたらした。
児玉党とのつながり――兼光に差し伸べられた助け
義仲と弟の死を知っても京都へ向かった兼光だったが、最終的には頼朝方の捕虜となった。
『平家物語』は、その経緯を武蔵国の児玉党との関係から説明している。
児玉党は、武蔵国児玉郡を中心に勢力を持っていた武士団である。
現在の埼玉県北西部を本拠とし、関東の有力な武士団の一つとして知られる。
兼光はこの児玉党と深いつながりを持っていたという。
『平家物語』には、兼光が児玉党と縁を結んでいたことが記されている。
この関係は婚姻によるものと解釈されることもあるが、具体的な親族関係については伝本間の違いもあり、確かな系譜を示すことは難しい。
『吾妻鏡』にも、兼光が児玉党の人々と親しい間柄にあったと記されている。
児玉党が申し出た助命
『平家物語』によれば、児玉党の人々は兼光が京都へ戻ろうとしていることを知り、集まって相談した。
そして、兼光を助けようと決めた。
武士がほかの一族と縁を結ぶのは、万一の際に互いを助け合うためでもある。
兼光が自分たちと縁を結んだのも、そうした理由があったはずだと考えたという。
児玉党は兼光に使者を送った。
義仲はすでに討たれ、今井兼平も亡くなった。
これ以上戦い続けず、自分たちに降伏してほしい。
その代わり、今回の合戦で得た自分たちの勲功と引き換えに、兼光の命を助けてもらうよう願い出るという申し出だった。
兼光はこれを受け入れた。
『平家物語』では、名の知られた武者であった兼光が降伏したことを、運が尽きたための出来事として描いている。
兼光が何を考えて降伏を決めたのかは分からない。
ただ、児玉党の申し出を受け、生き延びる可能性に託したと物語は伝えている。
『吾妻鏡』では戦闘の末に捕縛された
一方、『吾妻鏡』寿永3年1月21日条では、兼光が捕らえられた経緯が異なっている。
兼光は八幡の大渡付近で義仲の敗死を知りながら、なお京都へ入ろうとした。
そこへ義経の家人たちが駆けつけ、戦闘の末に兼光を生け捕りにしたという。
『平家物語』では児玉党への降伏、『吾妻鏡』では義経の家人による捕縛として記されているのである。
ただし、『吾妻鏡』の2月2日条にも、児玉党が兼光の助命を願い出たことが記されている。
兼光が捕らえられた具体的な状況には相違があるものの、児玉党とのつながりが処遇に関わったことは複数の史料に見られる。
源義経も助命の願いを朝廷へ伝えた
児玉党は、兼光の命を救うために行動した。
『平家物語』によれば、児玉党からの申し出を受け、源範頼を通じて義経へ事情が伝えられた。
義経はその願いを後白河法皇のもとへ取り次いだという。
『平家物語』では、一度は兼光の死罪を免れることが認められたと語られている。
しかし、朝廷の人々から強い反対が起こった。
『吾妻鏡』2月2日条にも、児玉党が自らの勲功に対する恩賞として兼光の助命を願い出て、義経が朝廷へ奏聞したことが記されている。
ただし、『吾妻鏡』は一度助命が認められたとは記していない。
兼光の罪は軽くないと判断され、結局は許されなかったという。
義経が兼光の武勇を評価し、家臣に迎えようとしたという話も後世に伝わっている。
ただし、少なくとも『吾妻鏡』の当該記事から確認できるのは、義経が助命の願いを朝廷へ伝えたことまでである。
兼光の捕縛と処刑の間には、敵方の武士たちによる助命の働きかけがあった。
その中心となったのが、兼光と縁のあった児玉党だった。
法住寺合戦の恨み――助命を阻んだ朝廷側の反発
兼光の助命をめぐる動きは、朝廷側の強い反発に直面した。
問題となったのは、前年11月の法住寺合戦だった。
義仲軍は後白河法皇の御所を攻撃し、法皇方の人々を多数死なせていた。
『平家物語』では、兼光を許すという話が伝わると、公卿や殿上人、御所に仕える女性たちが強く反対したという。
法住寺殿が攻められたとき、御所では今井や樋口の名を叫ぶ声があちこちで聞こえていた。
その者を許すのは納得できないというのである。
『源平盛衰記』に描かれた御所の女性たち
『源平盛衰記』では、兼光への反発がさらに詳しく描かれている。
法住寺合戦の際、御所に仕えていた女性たちが捕らえられ、衣服を奪われるなどの辱めを受けたという。
彼女たちは兼光の助命を知ると、強く反対した。
もし兼光を生かすのであれば、自分たちは出家する、御所を出る、川へ身を投げるとまで訴えたと語られる。
ただし、これは軍記物語の描写である。
兼光本人がどのような行為を行い、誰に何を命じたのかまで、確かな記録によって確認できるわけではない。
そのため、女性たちが受けたとされる被害のすべてを、兼光個人の行為として扱うことはできない。
一方で、法住寺合戦によって朝廷側に深い恨みが残ったことは、兼光の処遇を考える際に重要な問題である。
義仲の家臣である兼光が助命を求められる一方、義仲軍から被害を受けた人々は処罰を望んでいた。
木曾四天王を生かす危険
兼光の助命が認められなかった理由として、もう一つ挙げられるのが、有力武将を生かしておくことへの警戒である。
『平家物語』では、兼光が木曾四天王の一人だったことが問題とされた。
今井、樋口、楯、根井。
義仲を支えた武将たちのうち、兼光を許してしまえば、後に災いを招くかもしれない。
その危険を、虎を飼うことにたとえている。
『源平盛衰記』にも同様の懸念が記されている。
兼光は義仲軍の有力武将であり、兵を率いる能力と他の武士団とのつながりを持っていた。
義仲が亡くなった後も、その家臣が再び兵を集める可能性を警戒したという説明である。
こうして兼光は、最終的に死罪とされた。
義仲の首に付き従った兼光
『平家物語』によれば、寿永3年1月24日、義仲とその家臣たちの首が京都の大路を引き回された。
兼光はすでに捕虜となっていた。
しかし、主君の首に付き従いたいと願い出たという。
その申し出は認められた。
兼光は藍摺の衣服を身につけ、立烏帽子をかぶり、義仲らの首とともに都の大路を歩いたと語られる。
一方、『吾妻鏡』では、義仲らの首がさらされた出来事を1月26日としている。
同書によれば、義仲や今井兼平、根井行親らの首が七条河原で引き渡され、獄門前にさらされた。
捕虜となった兼光も同行させられたと記されている。
『平家物語』と『吾妻鏡』では日付に違いがあり、兼光自身が同行を願い出たという説明も『吾妻鏡』には見られない。
それでも、兼光が捕虜として義仲らの首とともに都を歩いたという大きな流れは共通している。
『源平盛衰記』では、兼光は裸足で歩かされ、見物人から嘲笑されたと描かれている。
倶利伽羅峠の勝利を経て、義仲とともに入った京都。
その都で兼光は、主君の首に付き従う捕虜となった。
『平家物語』が描く兼光の姿は、義仲軍の繁栄と滅亡を重ね合わせるものとなっている。
樋口兼光の処刑――史料によって異なる日付
兼光は助命を認められず、京都で処刑された。
しかし、処刑の日付については史料間で違いがある。
『平家物語』の公開されている本文には、1月25日とするものと、26日とするものがあり、本文の異同に注意が必要である。
『源平盛衰記』では、1月27日に兼光が処刑されたと記されている。
一方、『吾妻鏡』では、2月2日の出来事として扱われている。
兼光が義仲の死後に捕らえられ、京都で処刑されたことは共通しているが、正確な日付を一つに定めるには慎重な検討が必要となる。
『吾妻鏡』に記された渋谷重国と高重
『吾妻鏡』2月2日条には、兼光の処刑に関する詳しい記述がある。
処刑を命じられたのは、相模国の武士・渋谷重国だったという。
重国は郎従の平太に兼光の首を斬らせようとした。
しかし、平太は斬首に失敗した。
そこで重国の子・渋谷高重が代わって兼光の首を斬ったと記されている。
高重は正月20日の合戦で負傷していたため、片手で斬首したという。
ただし、この記述には史料研究上の疑問がある。
処刑記事に残る問題
山口道弘の研究論文「吾妻鏡の渋谷氏記事に就いて――寿永3年2月2日条の解釈」では、兼光の処刑に関する『吾妻鏡』の記事が詳しく検討されている。
この研究では、『平家物語』諸本や『源平闘諍録』などとの比較から、2月2日という処刑日や、渋谷高重が片手で斬首したという描写の信頼性に疑問が示されている。
特に、渋谷氏の一族関係と処刑をめぐる記述が、どのような過程で形成されたのかが問題となる。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の成立期から時間を経て編纂された史書であり、その記述を一律に同時代の事実として扱うことはできない。
兼光が処刑されたことは複数の史料で伝えられている。
しかし、処刑の日付や執行者、具体的な方法については、史料間の相違を残したまま考える必要がある。
今井兼平と樋口兼光――異なる最期を迎えた兄弟
兼光と今井兼平は、同じ中原兼遠の子として木曾義仲を支えた。
義仲の挙兵から北陸での戦い、京都進出まで、兄弟は軍の中心となって活動した。
しかし、義仲軍が崩壊したとき、二人は別の場所にいた。
兼平は勢多方面を守り、敗走する義仲と近江国で再会した。
『平家物語』では、義仲が粟津で討たれた後、兼平も自害して果てたと語られる。
一方、兼光は河内国へ出兵していた。
帰還途中で義仲と弟の死を知り、京都へ戻ろうとした。
『平家物語』では、兼光は討死を望んだものの、児玉党の申し出を受けて降伏したとされる。
その後、助命の可能性が生まれながらも、最後には死罪となった。
弟は義仲と同じ戦場で命を落とし、兄は主君の死後に捕らえられ、京都で処刑された。
二人の最期の違いは、義仲軍が崩壊したとき、それぞれが任されていた役割の違いにも関わっている。
兼平は義仲の近くに残り、兼光は別の軍勢を率いていた。
また、兼光の助命に児玉党が動いたことからは、敵味方に分かれた武士たちの間にも、さまざまな縁故が残っていたことが分かる。
義仲の軍勢を構成していた武士たちは、義仲個人への主従関係に加え、地域や一族を通じたつながりも持っていた。
兼光の捕縛と助命嘆願は、そうした関係が表れた出来事でもあった。
『ひらかな盛衰記』に描かれた樋口兼光
樋口兼光の物語は、後世の人形浄瑠璃や歌舞伎にも受け継がれた。
その代表的な作品が『ひらかな盛衰記』である。
『ひらかな盛衰記』は源平合戦を題材とした作品で、木曾義仲の死後に残された人々の運命を描いている。
特に知られるのが「逆櫓」の場面である。
船頭・松右衛門の正体
物語は、摂津国福島に暮らす船頭の松右衛門を中心に展開する。
松右衛門は船頭権四郎の娘・およしの婿となり、船の操縦技術を学んでいた。
しかし、その正体は樋口次郎兼光だった。
義仲の死後も生き延び、主君の仇である義経を討つ機会をうかがっていたという設定である。
松右衛門は、船を後退させる逆櫓の技術を習得し、義経の乗る船の船頭となろうとする。
義経へ近づき、復讐を果たすためだった。
一方、権四郎の家では、子供の取り違えをめぐる騒動が起こっていた。
権四郎が孫と思って育てていた子供は、実は木曾義仲の遺児・駒若丸だったのである。
松右衛門は自らの正体を明かし、駒若丸を守ろうとする。
やがて周囲の人々にもその正体が知られ、兼光は捕り手に囲まれることになる。
物語では畠山重忠も登場し、兼光と義仲の遺児をめぐる出来事に関わっていく。
『ひらかな盛衰記』の兼光は、義仲の仇討ちを望みながら、その子供を守ろうとする武将として描かれている。
歴史上の兼光は、義仲の死後まもなく捕らえられ、処刑されたと伝えられている。
そのため、『ひらかな盛衰記』に登場する松右衛門の物語は、史実とは異なる江戸時代の創作である。
それでも、兼光が義仲への忠義を抱き続ける武将として描かれている点は、『平家物語』の人物像にも通じている。
樋口兼光ゆかりの地と伝承
長野県辰野町には、兼光ゆかりの地として知られる樋口地区がある。
義仲館では、兼光の名に結びつく土地として、この地域を紹介している。
また、木曽町の日義地区には、義仲や中原兼遠の一族に関する史跡が残されている。
兼光の居館があったと伝わる場所もあるが、そのすべてを同時代の史料によって確認できるわけではない。
後世の地誌や地域の伝承に基づく説明も含まれている。
兼光の子孫についても、各地に伝承が残る。
しかし、子供の名前やその後の家系を、確かな史料によって連続的にたどることは難しい。
兼光は京都で処刑されたと伝えられる武将だった。
その一方で、義仲の家臣としての姿は、信濃の伝承や『平家物語』、歌舞伎などを通じて後世にも受け継がれてきた。
樋口兼光の最期
寿永3年1月、樋口兼光は義仲の命令を受け、河内国へ出兵していた。
源行家や石川一族の勢力を討つためだった。
しかし、兼光が京都を離れている間に、範頼・義経の軍勢が都へ攻め込み、義仲軍は壊滅した。
兼光は帰還途中で主君と弟の死を知った。
『平家物語』では、兼光は従っていた兵士たちに逃げるよう告げ、自らは京都へ戻って討死しようとしたと語られる。
ところが、兼光は生きたまま捕らえられた。
児玉党が命を救おうと動き、義経も助命の願いを朝廷へ伝えた。
しかし、法住寺合戦で義仲軍の攻撃を受けた人々から強い反対が起こった。
義仲軍の有力武将を生かしておくことへの警戒もあった。
兼光は助命を認められず、処刑された。
『平家物語』には、捕虜となった兼光が、義仲の首に付き従って京都の大路を歩いた姿が描かれている。
兼光が主君の首に付き従いたいと願い出たという記述は、義仲との深い関係を伝える場面となっている。
かつては平家軍を破り、義仲とともに都へ入った兼光。
その都で、今度は捕虜として主君の首の後を歩くことになった。
処刑の日付や方法には史料による違いがあり、兼光が最後に何を考えていたのかも分からない。
ただ、義仲が亡くなった後、敵方の武士たちが兼光の命を救おうとしたこと、そして最終的に処刑されたことは、複数の史料に伝えられている。
『平家物語』巻九では、義仲と今井兼平の最期を描いた「木曾最期」の後に、兼光の処遇を扱う「樋口被討罰」が続く。
粟津で義仲の生涯が終わった後も、兼光の命をめぐる動きは続いていた。
そして義仲の死からほどなくして、兼光も京都で命を落としたのである。
主な参考史料・参考資料
基本史料
- 『平家物語』巻九「樋口被討罰」「木曾最期」
- 『源平盛衰記』倶利伽羅合戦および兼光処刑に関する各段
- 『吾妻鏡』寿永3年1月21日・26日、2月2日条
- 九条兼実『玉葉』寿永2年閏10月27日・寿永3年1月19日条
- 『源平闘諍録』
- 『延慶本平家物語』
研究・解説資料
- 富田林市史 第二巻「石川義兼と長野城」
- 山口道弘「吾妻鏡の渋谷氏記事に就いて――寿永3年2月2日条の解釈」『千葉大学法学論集』第32巻第1・2号、2017年
- 義仲館「樋口」
- 上田市「木曽義仲挙兵武者行列 関連人物紹介」
- 立命館大学アート・リサーチセンター「火牛」
- 歌舞伎演目案内『ひらかな盛衰記』
- 松竹「ひらかな盛衰記」作品解説
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