第162回
寿永3年(1184年)2月。
讃岐国屋島にいた平時子のもとへ、京都から一通の手紙が届いた。
差出人は、息子の平重衡。
一ノ谷の戦いで源氏に捕らえられ、京都へ連行されていた。
手紙には、もう一度母に会いたいのであれば、三種の神器を都へ返すよう宗盛に頼んでほしいと書かれていた。
『平家物語』巻第十「請文」によれば、時子は手紙を顔に押し当て、一門の人々が集まる部屋へ入った。
そして、息子の宗盛の前に倒れ伏した。
しばらくは何も言えなかったという。
やがて時子は、捕らわれた重衡を助けるため、神器を京都へ返してほしいと訴えた。
しかし宗盛は応じなかった。
京都を追われた平家にとって、幼い安徳天皇と三種の神器は、なお天皇を奉じていることの重要なよりどころだった。
神器を返しても、源頼朝が重衡を釈放する保証はない。
宗盛は母の願いを退けた。
時子は息子を取り戻せなかった。
それから一年余り。
元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦。
源氏の軍船が迫るなか、時子は八歳の安徳天皇を抱き上げたと『平家物語』は伝える。
安徳天皇は時子の孫だった。
「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」
どこへ連れていくのか。
幼い天皇は祖母に尋ねた。
時子は東へ向かって伊勢大神宮に別れを告げ、西へ向かって念仏を唱えるよう勧めたという。
そして最後に、こう語りかけたと伝わる。
「浪のしたにも都のさぶらふぞ」
波の下にも都がございます。
時子は安徳天皇を抱いたまま、海へ身を投げた。
『平家物語』に描かれた、平家滅亡の日の出来事である。
ただし、『吾妻鏡』には別の記録がある。
時子が宝剣を持って入水したことは共通しているが、安徳天皇を抱いていたのは按察局という女房だったと記されている。
最後の瞬間の様子は、史料によって異なる。
時子は平清盛の妻だった。
夫が太政大臣となり、娘の徳子が高倉天皇に嫁ぎ、孫の安徳天皇が即位するまでを見届けた。
清盛の死後、息子の宗盛や知盛らとともに京都を離れ、西国を転々とした。
そして六十歳で迎えた壇ノ浦。
時子は、清盛が亡くなってから守り続けてきた孫とともに、最後の戦場にいた。
平時信の娘として生まれる
平時子は大治元年(1126年)に生まれたとされる。
父は平時信。
兵部権大輔などを務めた朝廷の官人だった。
時信の家は桓武平氏高棟流に属する。
平清盛の家も桓武天皇を祖とする平氏だが、こちらは高望王の流れをくむ伊勢平氏である。
同じ平姓でも、二つの家は異なる系統に属していた。
清盛の父・忠盛は、白河院や鳥羽院に仕え、軍事力を背景に朝廷での地位を高めた武士だった。
一方、時子の父・時信は宮廷に仕える官人である。
時子の母については、藤原家範の娘とする系譜がある。その孫とする伝えもあり、詳しい続柄には異同が残る。
時子には弟の平時忠がいた。
二人は母を同じくする姉弟とされる。
さらに妹に平滋子がいた。
滋子は時子と父を同じくするが、母は異なると考えられている。
時忠は後に権大納言へ昇進し、清盛の政権で重要な役割を担った。
滋子は後白河上皇の寵愛を受け、後の高倉天皇を産む。
この姉弟妹の関係は、平家が朝廷で勢力を伸ばしていく過程に深く関わることになる。
時子自身も、若いころから宮廷と縁を持っていた。
美福門院に仕えた女房だったのである。
美福門院に仕えた時子
美福門院は鳥羽上皇の寵妃で、近衛天皇の母にあたる。
鳥羽院政のもとで大きな影響力を持ち、周囲には多くの貴族や女房たちが集まっていた。
時子もその一人だった。
いつ宮廷に出仕したのか、何歳まで美福門院のもとにいたのかは、詳しくわかっていない。
ただし、宮廷に仕えた経験を持つ時子が、後に清盛の妻となったことは、二人の家の関係を考えるうえで見逃せない。
当時、院や后妃に仕える女性たちは、主君の身の回りの世話だけをしていたわけではなかった。
儀礼や文書の取り次ぎに携わり、貴族社会の人間関係を結ぶこともあった。
天皇の乳母となった女性は、子どもの成長後も特別な立場を保つ場合がある。
乳母の夫や親族が、天皇の近臣として昇進することも珍しくなかった。
時子も後に、二条天皇の八十島祭に関わる典侍として記録に現れる。
清盛と結婚した時期は明らかでないが、時子が宮廷で得た経験は、平家の一員となってからも生かされることになった。
清盛の後妻となる
時子が清盛の妻となった正確な年月はわかっていない。
清盛には、時子以前にも妻がいたとされる。
高階基章の娘である。
清盛の長男・重盛と次男・基盛は、この女性との間に生まれたとする見解が有力である。
古い系譜や人物解説には時子を母とする記述もあり、清盛の子どもたちの母については、史料の違いに注意が必要となる。
時子の子として知られるのは、宗盛、知盛、重衡、徳子らである。
宗盛は久安3年(1147年)に生まれた。
その後、知盛や重衡、徳子らも生まれている。
清盛は保元・平治の乱を経て朝廷で勢力を強め、息子たちも成長すると官職を得るようになった。
宗盛は後に一門の中心となる。
知盛は源平合戦で軍勢を率い、一ノ谷や壇ノ浦の戦いに参加した。
重衡は南都攻撃を指揮し、平家の有力な武将となった。
徳子は高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産む。
時子は、そうした子どもたちの母だった。
しかし、後に二位尼として知られる時子の宮廷での地位は、清盛の妻であることだけによって得られたものではなかった。
八十島祭と従三位
永暦元年(1160年)12月。
時子は二条天皇の八十島祭に関わった。
八十島祭は、天皇の即位に伴って行われる重要な儀礼である。
摂津国難波の海辺に使者を派遣し、生島神・足島神や住吉神を祀った。
天皇が国土を治めることに関わる儀礼と考えられており、即位後、一代に一度行われた。
祭りでは、天皇の御衣を納めた箱を用いる。
天皇本人が難波へ向かうのではなく、その衣を通じて儀礼を行う仕組みだった。
重要な役割を担ったのが、天皇の乳母である典侍だった。
時子も八十島典侍として祭りに関わったとされる。
そして同年12月24日、従三位に叙された。
藤原忠親の日記『山槐記』に、この叙位に関する記録が残されている。
時子が清盛の妻であると同時に、朝廷の儀礼を担う女性でもあったことがわかる。
平治の乱が終わってから、まだ一年ほどしか経っていなかった。
清盛は源義朝らを破った後、朝廷で急速に昇進している。
その妻である時子も、二条天皇の宮廷で高い位階を得た。
平家が朝廷の中枢へ進んでいく時期、時子の名も宮廷の記録に現れていた。
妹・滋子と後白河上皇
永暦2年(1161年)。
時子の妹・滋子が、後白河上皇の皇子を産んだ。
憲仁親王である。
滋子は後白河上皇から深い寵愛を受けていた。
その皇子が生まれたことで、滋子の立場はさらに高まった。
しかし当時、皇位継承は穏やかに進んでいたわけではない。
二条天皇と後白河上皇の間には政治的な対立があった。
憲仁親王を皇太子に立てようとする動きが問題となり、応保元年(1161年)には平時忠らが処罰された。
時子の弟も、この対立に巻き込まれたのである。
後白河上皇の皇子である憲仁親王をめぐっては、二条天皇の側と後白河上皇の側との間で激しい駆け引きが続いた。
二条天皇が亡くなった後、情勢は変わる。
仁安3年(1168年)、憲仁親王が高倉天皇として即位した。
滋子は天皇の母となった。
翌嘉応元年(1169年)、滋子は建春門院の院号を受ける。
時子にとって、高倉天皇は妹の子にあたる。
その高倉天皇が、やがて時子の娘・徳子を中宮に迎えることになる。
西八条第――時子が暮らした屋敷
清盛が朝廷で勢力を広げるなか、平家一門は京都に大きな屋敷を構えるようになった。
よく知られるのが六波羅である。
現在の京都市東山区周辺にあたる。
清盛の一門や家人たちが集まり、政治や軍事の拠点となっていた。
しかし清盛の屋敷は六波羅だけではなかった。
平安京の西八条にも広大な邸宅を構えていた。
西八条第である。
現在の梅小路公園周辺にあたり、広い敷地に清盛の邸宅や一門の建物が並んでいた。
清盛は仁安3年(1168年)に出家した後、福原で暮らすことが増えた。
その一方、西八条第には時子が住んでいた。
京都市の史跡解説にも、清盛の出家後は主に時子がこの屋敷で暮らしたことが記されている。
屋敷は「八条亭」とも呼ばれた。
時子が二位に叙された後は、「八条二位」という呼称にも結びつく。
後に平家が都落ちする際、時子が去ることになるのは、この屋敷だった。
清盛が福原にいても、京都には時子が暮らす大きな邸宅があった。
そこには一門の女性たちや女房、家人たちも出入りしていたと考えられる。
時子の暮らしを伝える記録は少ないが、西八条第の存在によって、彼女が平家一門の中で占めた位置を具体的にたどることができる。
清盛の病と出家
仁安3年(1168年)2月、清盛が病に倒れた。
清盛は出家し、浄海と名乗るようになる。
すでに太政大臣を辞していたが、出家後も一門の中心として大きな影響力を持ち続けた。
時子も清盛と同じころに出家したとする記録がある。
一方、清盛の死後に剃髪したと説明する辞典もあり、出家時期については記述が一致していない。
いずれにしても、後年の時子が尼となり、二位尼と呼ばれていたことは確かである。
清盛は福原を重視するようになった。
瀬戸内海の航路を利用し、大輪田泊の整備にも関わっている。
福原は、清盛が宋との交易を進めるうえでも重要な場所だった。
清盛の生活の中心が福原へ移っても、京都の西八条第には時子がいた。
そのころ平家にとって大きな問題となっていたのが、高倉天皇の后を誰にするかということだった。
清盛は自分の娘を天皇に嫁がせようとしていた。
選ばれたのが、時子の娘・徳子である。
徳子が高倉天皇に入内する
承安元年(1171年)12月。
徳子が高倉天皇に入内した。
徳子は後白河法皇の猶子となったうえで、天皇の女御として宮廷に入った。
翌承安2年(1172年)2月、中宮に立てられる。
当時の高倉天皇は、後白河法皇と建春門院滋子の子だった。
つまり時子の甥にあたる。
その高倉天皇に、時子の娘である徳子が嫁いだ。
平家と皇室との関係は、さらに深まった。
平安時代の朝廷では、天皇の后となった女性が皇子を産み、その皇子が即位すれば、母方の一族が外戚として大きな地位を得ることができた。
藤原摂関家が長く権勢を保った背景にも、天皇との婚姻関係があった。
清盛も娘の徳子を高倉天皇に嫁がせた。
その子が皇位を継げば、清盛自身が天皇の外祖父となる。
徳子の入内は、平家にとって重要な出来事だった。
ただし、その実現に向けて時子がどのような交渉を行ったのかは、詳しくわかっていない。
時子の妹・滋子は高倉天皇の母であり、後白河法皇の近くにいた。
時子の娘・徳子は、その高倉天皇の中宮となった。
三人の女性を通じて、清盛の家と皇室は深く結びつくことになった。
建春門院滋子の死
安元2年(1176年)7月8日。
建春門院滋子が亡くなった。
三十五歳だった。
高倉天皇の母であり、後白河法皇の寵愛を受けていた女性の死だった。
時子は妹を失った。
滋子の死後、後白河法皇と清盛の関係は急速に悪化していく。
その背景には、平家の勢力拡大に対する朝廷内の不満や、後白河法皇と清盛の政治的な利害の違いがあった。
翌治承元年(1177年)には、鹿ケ谷事件が起こる。
後白河法皇の近臣である藤原成親らが、平家打倒を企てたとして捕らえられた。
西光は処刑され、成親も後に殺害された。
平康頼、藤原成経、俊寛らは鬼界ケ島へ流されることになる。
この事件には、清盛の弟・教盛の娘婿である藤原成経も関わっていた。
教盛は成経の命を救うため、清盛に必死に嘆願したと『平家物語』は伝える。
時子が事件について何を語ったのかは、記録に残っていない。
しかし、後白河法皇は妹・滋子の夫であり、清盛は時子自身の夫だった。
滋子が生きていたころ、両者は彼女を通じて結びついていた。
その関係が崩れ、朝廷では平家と後白河法皇の対立が深まっていった。
六波羅で皇子が生まれる
治承2年(1178年)11月12日。
徳子が皇子を産んだ。
言仁親王。
後の安徳天皇である。
出産の場所は、京都の六波羅にあった徳子の御所だった。
徳子の出産は、朝廷を挙げた大きな出来事となった。
藤原忠親の日記『山槐記』には、この日の様子が記されている。
徳子に産気が訪れると、近臣や中宮職の役人たちは慌ただしく動いた。
祈祷のために僧侶たちも集まり、朝廷の人々が皇子の誕生を待っていた。
出産は容易には進まず、周囲は気をもんだ。
やがて午後になって、無事に皇子が誕生した。
『平家物語』巻第三「御産」には、皇子誕生の知らせを聞いた清盛が、喜びのあまり涙を流したという逸話が残る。
長年望んでいた皇子の誕生だった。
時子にとっても、娘の徳子が天皇の子を産んだ日である。
皇子誕生の翌日、高倉天皇は守覚法親王に感謝の手紙を送っている。
出産に際して祈祷を行ったことへの礼状だった。
高倉天皇の直筆の手紙は現在も伝わり、国宝に指定されている。
言仁親王の誕生が、同時代の記録や実際の書状からも確かめられる出来事であることがわかる。
皇子は翌治承3年(1179年)、皇太子となった。
清盛の望んでいた皇位継承が、いよいよ現実のものとなろうとしていた。
三歳の安徳天皇
治承3年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入った。
後白河法皇を幽閉し、多くの公卿を解官する。
治承3年の政変だった。
朝廷の人事は大きく変わり、清盛の意向を無視して政治を進めることは難しくなった。
翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位する。
即位したのは言仁親王だった。
安徳天皇である。
まだ数え三歳。
清盛は天皇の外祖父となった。
時子も安徳天皇の外祖母となった。
時子が清盛の妻となってから、すでに長い年月が過ぎていた。
清盛は保元・平治の乱で勝利し、太政大臣へ昇り、娘を天皇の中宮にした。
そして今、その娘が産んだ皇子が即位した。
時子の息子たちも朝廷で高い官職を得ていた。
宗盛は内大臣、知盛や重衡も一門の有力者として活動している。
時子自身も高い位階を持ち、平家の女性たちの中で重んじられていた。
准后と二位尼
安徳天皇が即位した治承4年(1180年)、時子は准后の待遇を受けた。
三后に准じる特別な扱いである。
三后とは太皇太后、皇太后、皇后を指す。
天皇の外祖母となった時子の地位を示すものだった。
時子は二位の位階にも昇り、後年「二位尼」と呼ばれるようになる。
位階の昇進時期については人物辞典や系譜で記述に違いがあるが、清盛の晩年には「八条二位」などの呼称で知られるようになっていた。
『平家物語』に登場する「二位殿」「二位尼」は、この時子である。
時子は天皇の祖母であり、清盛の妻であり、平家の主要な武将たちの母だった。
しかし、そうした立場にあったからといって、清盛の軍事や政治の判断を直接指揮していたと断定することはできない。
彼女の名が具体的な行動とともに現れるのは、宮廷儀礼や家族に関する場面が多い。
その最も詳しい記録の一つが、後に『平家物語』に残された重衡助命の嘆願である。
福原へ移った幼帝
安徳天皇が即位した年、平家への反抗が各地に広がり始めた。
治承4年4月、以仁王が平家追討の令旨を発する。
5月には源頼政とともに挙兵したが、宇治で敗れて命を落とした。
そのころ清盛は、福原への遷都を進めていた。
同年6月、安徳天皇や高倉上皇らが京都を離れ、福原へ移った。
清盛が長く拠点としてきた土地である。
しかし、都としての施設は十分に整っていなかった。
京都を離れることへの反発も強く、朝廷の人々は新しい生活を余儀なくされた。
東国では源頼朝が挙兵した。
10月には富士川で平家の追討軍が敗走する。
清盛は福原での遷都を断念し、11月に安徳天皇らを京都へ戻した。
即位したばかりの幼い天皇は、わずか数か月の間に都を移され、再び京都へ戻された。
時子がこの遷都についてどのような意見を持っていたのかは、記録されていない。
しかし、移動を余儀なくされた安徳天皇は時子の孫であり、その母の徳子も時子の娘だった。
やがて平家は、今度は京都へ戻れないまま西国へ下ることになる。
高倉上皇、そして清盛の死
治承5年(1181年)正月14日。
高倉上皇が亡くなった。
数え二十一歳だった。
徳子の夫であり、安徳天皇の父だった。
時子にとっては、妹・滋子の息子でもある。
滋子はすでに亡くなっていた。
その息子の高倉上皇も、若くして世を去った。
徳子は幼い安徳天皇を残して夫に先立たれたことになる。
そして高倉上皇の死から間もなく、清盛が病に倒れた。
治承5年閏2月4日。
清盛は六十四歳で亡くなった。
『平家物語』には、清盛が激しい熱病に苦しみ、冷水をかけてもすぐ湯になったという逸話が残されている。
その死に際して、源頼朝の首を墓前に供えるよう望んだとも語られる。
清盛の激しい怒りを描いた軍記物語の場面であり、実際の病状や遺言をそのまま確定できるものではない。
時子は夫を失った。
清盛が福原で暮らすことが増えてからも、時子は西八条第に住んでいた。
その屋敷にも、清盛の死からわずか二日後、火災が起こった。
西八条第の火災
養和元年(1181年)閏2月6日。
清盛の死から二日後、西八条第が火災に遭った。
放火によるものと伝えられている。
清盛が福原を主な住まいとするようになった後、時子が暮らしていた屋敷だった。
京都市の史跡解説にも、この火災の記録が残されている。
西八条第は平家一門の大きな邸宅群であり、広い敷地に建物が並んでいた。
火災によって被害を受けた後も、屋敷は平家の京都での拠点として使われた。
しかし二年後の都落ちの際には、再び火が放たれることになる。
清盛が築いた西八条の暮らしも、平家の政治的な立場とともに失われていった。
宗盛に託された平家
清盛の死後、一門の中心となったのは宗盛だった。
清盛の長男・重盛は治承3年(1179年)に亡くなり、次男の基盛もそれ以前に死去していた。
宗盛は時子の息子である。
朝廷では内大臣にまで昇っていた。
弟の知盛や重衡も、平家を支える有力な武将だった。
時子の弟・時忠は政治面で一門を支えた。
一方、源氏との戦いは続いていた。
東国では頼朝が勢力を固め、北陸では木曾義仲が軍勢を集めていた。
平家は各地へ追討軍を派遣したものの、戦況を容易には変えられなかった。
清盛の死後、一門を率いる宗盛には、朝廷との交渉と軍事指揮の両方が求められた。
時子が宗盛に何を助言したのか、詳しい記録は少ない。
しかし宗盛と知盛、重衡は時子の息子だった。
清盛が生きていたころには父のもとで活動していた息子たちが、今度は平家の存亡をかけた戦いを担うことになった。
そして寿永2年(1183年)、北陸で平家軍が大敗する。
京都を離れなければならない日が迫っていた。
寿永2年7月、都落ち
寿永2年5月。
平維盛らが率いた追討軍は、倶利伽羅峠で木曾義仲に敗れた。
続く篠原の戦いでも平家軍は敗北する。
義仲の軍勢は京都へ迫った。
7月24日夜から25日未明にかけて、後白河法皇は都を離れ、比叡山方面へ逃れた。
宗盛は安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ退くことを決めた。
時子も同行した。
その傍らには徳子と安徳天皇がいた。
安徳天皇は数え六歳。
つい三年前には、京都で天皇に即位したばかりだった。
『平家物語』巻第七「一門都落」には、平家の人々がそれぞれの屋敷に火を放ち、都を去る様子が描かれている。
六波羅も西八条も、平家が長く暮らした土地だった。
父の忠盛から清盛へと受け継がれた権勢の中心である。
清盛はすでに亡くなっていた。
時子は息子たちとともに、夫の築いた京都の屋敷を離れた。
一門の中には、別の道を選んだ人々もいた。
清盛の弟・頼盛は西国へ向かわず、京都に残った。
忠度は藤原俊成のもとへ自作の歌を託したと伝わる。
重盛に仕えた平貞能は、主君の墓を掘り返して遺骨を移したという逸話を残している。
時子は安徳天皇を連れて、一門とともに西へ向かった。
清盛が出家して福原へ移った後も、時子が暮らしていた西八条第。
そこへ再び戻ることはなかった。
二人の天皇
平家が京都を離れた後、後白河法皇は新しい天皇の擁立を進めた。
安徳天皇は西国へ移っていた。
しかも三種の神器も平家が持ち去っていた。
寿永2年8月、京都では後鳥羽天皇が即位する。
神器を受け取らないままの即位だった。
京都には後鳥羽天皇。
西国には平家が奉じる安徳天皇。
二人の天皇が並び立つ異例の状況となった。
平家が神器を保持し続けたことには、大きな意味があった。
三種の神器は、皇位継承に深く関わる宝物である。
安徳天皇が京都を離れた後も、平家は神器と幼帝を奉じることで、自分たちの立場を保とうとした。
その安徳天皇は、時子の孫だった。
時子は清盛とともに、徳子を高倉天皇に嫁がせ、その子の即位を見届けていた。
しかし今は、その孫を京都へ帰すことができない。
宗盛らは安徳天皇を中心に、西国で勢力を立て直そうとしていた。
九州から屋島へ
平家は福原を経て九州へ向かった。
大宰府周辺を拠点として再起を図ろうとしたが、九州の武士たちは必ずしも平家に従わなかった。
豊後国では緒方惟義らが反抗した。
平家は大宰府を離れ、九州の沿岸を移動することになる。
安徳天皇や徳子、時子も一門と行動をともにした。
時子が九州でどこに滞在し、何を語ったのか、詳しい記録は残されていない。
『平家物語』には、一門の人々が遠く離れた京都を懐かしみ、月を眺めて和歌を詠む場面がある。
かつて宮廷で暮らした人々は、今や見知らぬ土地を転々としていた。
九州での再起が難しくなると、平家は讃岐国屋島へ移った。
屋島から反撃を始めた平家は、寿永2年閏10月、備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破った。
11月には播磨国室山で源行家軍にも勝利する。
平家は一時的に勢力を回復し、福原まで進出した。
しかし翌寿永3年2月、源範頼・義経の軍勢が迫った。
平家は一ノ谷で決戦を迎える。
一ノ谷で捕らえられた重衡
寿永3年(1184年)2月7日。
源氏軍が生田森から一ノ谷にかけて布陣した平家軍を攻撃した。
平家は大敗した。
そして時子の息子・平重衡が源氏方に捕らえられた。
重衡は治承4年(1180年)、奈良の寺社勢力を攻撃する軍勢を率いた人物だった。
この南都攻撃では、東大寺や興福寺の堂塔が焼失している。
重衡は南都の僧侶たちから強い恨みを受けていた。
その重衡が、今度は源氏の捕虜となった。
京都へ連行され、後白河法皇の側と源氏方の判断によって命運を決められる立場に置かれた。
一ノ谷で多くの平家一門が討たれた中、重衡は生きていた。
しかし、いつ処刑されてもおかしくない。
時子は、その知らせを屋島で受けた。
やがて京都から、重衡の命と三種の神器をめぐる交渉が持ち込まれることになる。
三種の神器と重衡の身柄
一ノ谷の戦いが終わった後、後白河法皇は平家に神器の返還を求めた。
その際、交渉の材料とされたのが重衡だった。
『平家物語』巻第十「八島院宣」によれば、寿永3年2月14日付の院宣には、三種の神器を京都へ返すなら重衡を許すという趣旨が記されていた。
院宣は同月28日、屋島の平家のもとへ届けられたという。
宗盛らは一門の公卿を集め、対応を協議した。
平家には安徳天皇と三種の神器があった。
一方、京都では後鳥羽天皇が即位していた。
神器を返すことは、後白河法皇の求めに応じるだけでなく、安徳天皇を奉じる平家の立場を大きく変えることになる。
しかも重衡の命が助かるという確かな保証はなかった。
後白河法皇が助命を認めても、頼朝や南都の寺院勢力がどう動くかわからない。
宗盛らは難しい判断を迫られた。
そのころ重衡も、自分の命を助けるために一門が神器を返すことは難しいと考えていたらしい。
『平家物語』「内裏女房」には、重衡が自分一人の命と引き換えに朝廷の重宝を返すことは、一門の者たちが承知しないだろうと語る場面がある。
それでも重衡は、母の時子に手紙を書いた。
京都から届いた母への手紙
『平家物語』巻第十「請文」。
重衡は時子に、もう一度会いたいのであれば、神器を京都へ返すよう宗盛へ働きかけてほしいと頼んだ。
そうしなければ、この世で再び会うことはできないだろう。
時子に届いた手紙には、そのように記されていたという。
時子は手紙を開いた。
読んだ後、しばらく言葉を発しなかった。
やがて手紙を懐に入れ、うつ伏してしまった。
『平家物語』は、その様子を詳しく描いている。
しばらくして一門の公卿たちが集まり、院宣への返答を話し合い始めた。
その中には宗盛や時忠らがいた。
時子は重衡の手紙を顔に押し当てた。
そして、人々が座る部屋の障子を開け、宗盛の前に進み出た。
そのまま倒れ伏したという。
母の突然の行動に、一門の人々も驚いたことだろう。
時子はしばらく何も言えず、やがて涙を押さえながら語り始めた。
京都から届いた重衡の手紙が、あまりにも痛ましい。
あの子は、どれほど苦しんでいることだろう。
そして宗盛へ、神器を京都へ返してほしいと願った。
「ただ我に思ひ許して内侍所を都へ返し入れ奉れ」
どうか自分の願いを聞き入れて、内侍所を都へ返してほしい。
『平家物語』の流布本には、このような言葉が残されている。
ここでいう内侍所は神鏡を指し、神器返還交渉をめぐる文脈で語られている。
本文の異なる諸本には、三種の神器を返すよう求める表現も見られる。
時子は、一門の前で息子の助命を願ったのである。
宗盛が拒んだ理由
宗盛は母の願いを聞いた。
重衡を助けたい気持ちは自分にもある。
しかし神器を返すことはできない。
『平家物語』は、宗盛がそう答えたと伝える。
宗盛が恐れていたのは、世間からどう見られるかという問題だけではなかった。
平家は安徳天皇を奉じている。
神器を都へ返せば、安徳天皇を奉じる立場を大きく失いかねない。
それに、神器を返したところで重衡が無事に戻るとは限らない。
さらに宗盛は、重衡一人のために、ほかの子どもたちや親しい人々を犠牲にしてよいのかと母に問いかけたという。
一ノ谷ではすでに多くの一門が命を落としていた。
宗盛にも、自分の子どもや弟たち、安徳天皇を守る責任があった。
重衡を助けるために神器を返すか。
安徳天皇を奉じ続けるために神器を守るか。
母と息子は意見を異にした。
宗盛の答えは、時子にとって厳しいものだった。
清盛の死後も生きてきた理由
時子は宗盛の返答を聞き、さらに訴えた。
『平家物語』「請文」に、時子の長い言葉が残されている。
清盛が亡くなった後、自分は片時も生きていたいとは思わなかった。
しかし安徳天皇が都を離れ、いつ終わるとも知れない旅を続けている。
幼い天皇を再び京都へ戻し、天皇としての地位を守りたい。
その願いのために今日まで生きてきた。
時子はそう語ったという。
そのうえで、一ノ谷で重衡が捕らえられたと聞いてからは、胸が苦しく、食事ものどを通らないと訴えた。
重衡が死んだという知らせを聞けば、自分も後を追うつもりだ。
それほど苦しい思いをしている。
時子は泣き叫んだと伝わる。
この場面の会話は『平家物語』に描かれたものであり、実際にその場で同じ言葉が交わされたと確定できるわけではない。
ただし、軍記物語が時子の心情をどこに見いだしたのかは、はっきりしている。
清盛の死後も生き続けたのは、安徳天皇を都へ戻すためだった。
その一方で、源氏に捕らえられた重衡を取り戻したいという願いもあった。
時子は息子の命を救うために、安徳天皇の立場を支えていた神器の返還を求めた。
宗盛はそれを拒んだ。
清盛の妻だった時子は今、清盛の後継者となった息子に願い出なければならなかった。
知盛の言葉
時子の嘆願を受けても、宗盛の判断は変わらなかった。
そして知盛も、神器の返還に反対した。
『平家物語』によれば、知盛は、たとえ神器を返したとしても、重衡が戻ってくる保証はないと述べた。
源頼朝がどのように判断するかわからないからである。
知盛は、返答を文書に記して京都へ送るべきだと進言したという。
一門の人々もこれに従った。
宗盛は神器を返さない旨の請文を作成した。
時子の願いは退けられた。
『平家物語』では、時子は涙に暮れながら、重衡への返事を書いたと記されている。
筆を執ることも難しかったが、息子への思いを込めて手紙を書いたという。
重衡の妻もその場にいた。
大納言佐と呼ばれた女性である。
彼女は何も言えず、衣をかぶって伏していたと伝わる。
母の時子と妻の大納言佐。
二人は京都に捕らわれた重衡の帰還を願っていた。
しかし平家は神器を手放さず、戦いを続ける道を選んだ。
重衡の帰還はかなわず
重衡はその後、源氏方の管理下で京都から東国へ送られた。
源頼朝と対面したことも『吾妻鏡』に記されている。
しかし母のもとへ帰ることはなかった。
元暦2年(1185年)6月、重衡は南都の寺院勢力へ引き渡され、処刑されることになる。
南都焼討ちへの責任を問われたためだった。
ただし、そのころ時子はすでにこの世にいない。
時子が亡くなったのは同年3月24日。
重衡の処刑より三か月近く前である。
時子は息子がどのような最期を迎えたのか、知らないまま亡くなった。
『平家物語』には、重衡が南都で処刑される前、妻と最後の別れを交わした場面も残されている。
しかし母の時子と再会する場面はない。
屋島で手紙を受け取った時子が願った、もう一度息子に会うという望み。
それは最後までかなわなかった。
屋島を失う
一ノ谷の敗戦後、平家は再び讃岐国屋島を拠点とした。
安徳天皇と徳子、時子も屋島にいた。
宗盛や知盛らは西国の武士を集め、源氏への抵抗を続けていた。
しかし状況は悪化していく。
元暦2年(1185年)2月、源義経が四国へ渡った。
義経の軍勢は屋島へ急速に迫る。
平家は攻撃に備える余裕を失い、船に乗って海上へ退いた。
『平家物語』には、平家が義経の兵力を実際より多く見誤ったという話も残る。
一門は屋島を離れ、長門国方面へ向かった。
九州では源範頼の軍勢が活動していた。
瀬戸内海でも源氏方に加わる水軍が増えていた。
安徳天皇を伴う平家に、もはや安定した拠点はなかった。
時子は夫の清盛を失い、京都の屋敷を失い、重衡を捕虜として奪われた。
今度は屋島も失った。
それでも安徳天皇は平家の船にいた。
宗盛や知盛らも、最後の戦いを前に一門を率いていた。
長門国彦島
屋島を追われた平家は、長門国彦島方面に拠点を移した。
現在の山口県下関市周辺にあたる。
彦島は関門海峡に近く、九州と本州を結ぶ海上交通の要所だった。
平家はその周辺で源氏の軍勢を迎え撃つことになる。
かつて清盛が築いた勢力は、瀬戸内海の航路と深く結びついていた。
福原、大輪田泊、九州への航路。
平家は海上交通を利用して各地の武士や物資を動かしてきた。
しかし最後の戦いを迎えたころには、西国の水軍も次々と源氏方へ加わっていた。
安徳天皇と三種の神器は、なお平家の手元にあった。
時子も孫の天皇とともに船に乗っていた。
京都を離れてから、一年八か月。
安徳天皇は数え八歳となっていた。
壇ノ浦の海戦
元暦2年3月24日。
源氏と平家の船団が、壇ノ浦の海上で激突した。
源氏方を率いたのは源義経である。
平家は彦島周辺を拠点として、海戦に臨んだ。
『平家物語』には、戦いの初め、平家方が源氏を押していたとする描写がある。
しかし戦況は次第に変わっていった。
源氏方の攻撃が強まり、平家の船は追い詰められていく。
戦いの途中、平家に従っていた武士が源氏方へ寝返ったとする話も残る。
阿波民部重能の離反は、その代表的な逸話である。
ただし、実際の離反の経過や戦況への影響については、史料によって説明が異なる。
潮流の変化が平家の敗北を決めたという説もよく知られているが、勝敗を潮の流れだけで説明することはできない。
源氏方の軍事力、西国の水軍の動向、平家側の指揮や兵力など、複数の要因が関わっていた。
戦いの末、平家は敗れた。
源氏方の兵が平家の船へ乗り込んでくる。
安徳天皇を奉じた船にも危険が迫った。
平家一門は、いよいよ最後の瞬間を迎えた。
知盛が告げた敗北
『平家物語』巻第十一「先帝御入水」。
平家の敗北が決まると、知盛が安徳天皇のいる船へやって来た。
知盛は船の中にあった見苦しいものを海へ投げ捨て、自ら掃除を始めたという。
女房たちは不思議に思い、何が起こるのかと尋ねた。
知盛は、これから珍しい東国の武士たちを見ることになるだろうと答えた。
源氏方の兵が船へ乗り込んでくることを、皮肉を込めて告げたのである。
意味を悟った女房たちは泣き叫んだ。
その場に時子もいた。
『平家物語』によれば、時子はすでに海へ入る覚悟を決めていた。
鈍色の衣をまとい、練袴の裾を高く整える。
そして神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差した。
神璽は八尺瓊勾玉。
宝剣もまた三種の神器の一つである。
時子は安徳天皇を抱き上げ、船端へ向かった。
自分は女であっても敵の手にはかからない。
安徳天皇のお供をする。
そう言って歩き出したと『平家物語』は伝える。
「尼ぜ、われをばいづちへ」
安徳天皇は数え八歳だった。
『平家物語』では、年齢よりも大人びた、美しい幼帝として描かれている。
黒い髪は背中を越えて垂れていたという。
その天皇が、祖母の時子に抱き上げられた。
しかし、なぜ船端へ向かうのかわからなかった。
「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」
安徳天皇は尋ねた。
時子は幼い天皇に向かい、涙を押さえて語りかけたという。
天皇として生まれたのは、前世で善い行いを積んだためである。
しかし、その運命も尽きようとしている。
まず東へ向かい、伊勢大神宮に別れを告げるよう勧めた。
続いて西へ向かい、念仏を唱えるよう告げた。
西方浄土へ迎えられることを願うためだった。
安徳天皇は祖母の言葉に従い、小さな手を合わせた。
まず東を拝み、その後、西へ向かって念仏を唱えたという。
時子は再び天皇を抱き寄せた。
そして最後に、こう語りかけた。
「浪のしたにも都のさぶらふぞ」
波の下にも都がございます。
時子は安徳天皇を抱いたまま、深い海へ入った。
『平家物語』に残る、二位尼と幼帝の最期である。
『吾妻鏡』に残る別の記録
時子と安徳天皇の入水については、『吾妻鏡』にも記録がある。
元暦2年3月24日条である。
『吾妻鏡』では、時子は「二品禅尼」と記されている。
そして次のような内容が記されている。
時子は宝剣を持った。
按察局という女房は安徳天皇を抱いた。
二人はともに海へ入った。
徳子も入水したが、源氏方の兵によって救い上げられた。
按察局も生き残った。
しかし安徳天皇は、ついに海から浮かび上がらなかった。
『平家物語』では、時子自身が安徳天皇を抱き上げている。
一方、『吾妻鏡』では、安徳天皇を抱いていたのは按察局だった。
時子が宝剣を持って入水したことは、両方の記録に見える。
しかし幼い天皇を最後に抱いていた人物については、記述が一致しない。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の歴史を後世に編纂した史書である。
壇ノ浦の戦場で、その場にいた人物が直接書き残した日記ではない。
一方の『平家物語』も、戦いの後に成立した軍記物語だった。
時子が安徳天皇に何を語りかけたのか、誰が最後に天皇を抱いていたのか。
その場面を完全に再現することはできない。
時子と安徳天皇が壇ノ浦で亡くなったことは、複数の記録に残されている。
ただし、その最後の様子は史料によって異なるのである。
海に沈んだ宝剣
壇ノ浦の戦いでは、三種の神器のうち宝剣が失われた。
『吾妻鏡』には、戦いの後、内侍所と神璽は確保されたものの、宝剣は見つからなかったと記されている。
内侍所は神鏡。
神璽は勾玉である。
いずれも皇位継承に深く関わる品だった。
源氏方は海中の捜索を続けたが、宝剣を回収することはできなかった。
ここでいう宝剣は、皇位継承に伴って宮中に伝えられていた剣である。
熱田神宮に祀られる草薙剣の本体と、宮中にあった形代の剣は区別する必要がある。
壇ノ浦で失われたのは宮中に伝来した宝剣だった。
時子が腰に差して海へ入ったと『平家物語』が描いた剣であり、『吾妻鏡』でも時子が持っていたと記されている。
宝剣の喪失は、平家滅亡後の朝廷にも影響を残した。
後鳥羽天皇は三種の神器を受け取らないまま即位していた。
壇ノ浦の後、鏡と神璽は戻った。
しかし宝剣は海に沈んだままだった。
時子が最後まで手放さなかったと伝わる神器は、回収されなかったのである。
海から引き上げられた徳子
壇ノ浦では多くの一門が命を落とした。
清盛の弟・経盛と教盛は、互いの手を取って入水したと『平家物語』は伝える。
知盛も敗北を悟り、海へ沈んだという。
宗盛とその子・清宗は捕虜となった。
時子の娘・徳子も海へ身を投げた。
しかし徳子は源氏方の兵に救い上げられた。
『吾妻鏡』にも、徳子が救助されたことが記されている。
徳子は夫の高倉上皇に先立たれ、壇ノ浦では母の時子と息子の安徳天皇を失った。
源氏方の捕虜となった後、京都へ戻される。
やがて出家し、平家一門の菩提を弔うことになった。
後年、大原の寂光院に隠棲した姿は『平家物語』灌頂巻などに描かれている。
時子が壇ノ浦で亡くなった後も、徳子の生涯は続いた。
一方、宗盛と清宗は近江で処刑され、重衡も南都で処刑された。
弟の時忠は能登へ流されることになる。
時子は、そうした家族のその後を知ることはなかった。
二位ノ浜の伝承
山口県長門市には、二位ノ浜と呼ばれる海岸がある。
壇ノ浦で入水した時子の遺体が流れ着いたという伝承が残されている場所である。
時子は二位尼と呼ばれていた。
その名にちなみ、二位ノ浜という地名になったと伝わる。
ただし、時子の遺体が実際にこの海岸へ流れ着いたことを示す確かな同時代史料はない。
壇ノ浦で亡くなった二位尼の名が、後世の伝承の中に残されたものである。
安徳天皇を祀る場所としては、下関市の赤間神宮が知られる。
壇ノ浦を望む場所にあり、安徳天皇の阿弥陀寺陵に隣接している。
赤間神宮では、安徳天皇や平家一門を慰霊する先帝祭が行われている。
時子が安徳天皇へ語りかけたという「浪のしたにも都のさぶらふぞ」の言葉も、壇ノ浦の物語とともに伝えられてきた。
「浪のしたにも都のさぶらふぞ」
治承2年(1178年)11月12日。
徳子が言仁親王を産んだ日、六波羅には朝廷の人々が集まり、皇子の誕生を喜んだ。
清盛は歓喜したと『平家物語』は伝える。
時子はその皇子の祖母だった。
治承4年、言仁親王は安徳天皇として即位する。
わずか三歳だった。
やがて清盛が亡くなり、宗盛が一門を率いるようになった。
寿永2年7月、平家は安徳天皇を連れて都を離れた。
時子も徳子も、幼い天皇とともに西国へ下った。
翌年、一ノ谷で重衡が捕らえられた。
時子は息子を助けようと、宗盛の前に倒れ伏して神器の返還を願ったという。
しかし宗盛は応じず、重衡は戻らなかった。
平家は屋島を失い、最後は長門国壇ノ浦へ追い詰められた。
元暦2年3月24日。
『平家物語』では、時子は神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差して、安徳天皇を抱き上げたと記されている。
一方、『吾妻鏡』には、時子が宝剣を持ち、安徳天皇を抱いたのは按察局だったという記録が残る。
その違いを越えて、時子と安徳天皇が同じ戦場で命を落としたことは伝えられている。
かつて清盛とともに孫の誕生を喜んだ時子は、その七年後、同じ孫を連れて壇ノ浦にいた。
『平家物語』には、安徳天皇が祖母に尋ねた言葉が残る。
「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」
時子は幼い天皇に東を拝ませ、西へ向かって念仏を唱えさせたという。
そして、そのまま海へ入った。
「浪のしたにも都のさぶらふぞ」
【PR】
【PR】
![]()
元祖 瓦そば たかせ 4人前 麺200g ×2袋 つゆ250g×2袋 山口県下関名物 家庭用 瓦そばセット 元祖のほこり


コメント