【人物編Vol.68】平忠度――都落ちの途中、俊成へ託した百首の歌と一ノ谷の最期

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人物

第138回

寿永2年(1183年)7月、平家一門は京都を離れ、西国へ向かっていた。

北陸で木曾義仲に大敗し、都を守るだけの軍勢を失った平家は、安徳天皇と三種の神器を伴って落ち延びることになった。

その途中、一人の武将が馬を引き返したという。

薩摩守・平忠度。

平清盛の異母弟で、和歌の名手としても知られた人物である。

『平家物語』によれば、忠度はわずかな供を連れて京都へ戻り、歌の師である藤原俊成の屋敷を訪ねた。

鎧の合わせ目から取り出したのは、一巻の巻物。

そこには忠度が長年詠み続けてきた和歌のうち、優れていると思う百余首が書き集められていたという。

忠度は俊成に、その歌を託した。

これから西国で戦えば、再び京都へ戻れる保証はない。せめて自分の歌を一首でも勅撰和歌集に残してほしい。

俊成は巻物を受け取り、別れを惜しんだと伝わる。

それから半年余りが過ぎた寿永3年(1184年)2月7日。

忠度は一ノ谷の戦いで源氏方の岡部六弥太に討たれた。

『平家物語』には、忠度が組討ちの最中に右腕を斬り落とされ、最後に念仏を唱えて首を取られる場面が描かれている。

そして、討ち取った武士が忠度の箙に結びつけられた紙を開くと、一首の和歌が書かれていたという。

「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」

その下には「忠度」の名があった。

一方、忠度の死後に編まれた『千載和歌集』には、彼の作品と伝わる歌が一首だけ採られた。

しかし、作者の欄に忠度の名は記されなかった。

「よみ人しらず」

平家の武将として戦い、朝廷の敵となった忠度は、作者の名を伏せられたまま勅撰集に歌を残すことになったのである。

平忠盛の六男として生まれる

平忠度は天養元年(1144年)、平忠盛の六男として生まれた。

父の忠盛は伊勢平氏を率いた武士で、鳥羽上皇の信任を得て勢力を伸ばしていた。

瀬戸内海での海賊追討や院の警備などに関わり、朝廷で官位を高めていった人物である。

忠盛の子には、清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛らがいる。

忠度は清盛の異母弟で、一門の中では年少の世代に属していた。

清盛は元永元年(1118年)の生まれ。忠度より26歳年長となる。

忠度が生まれたころ、清盛はすでに成人し、朝廷の官人として活動していた。

一方、忠度の母については複数の説が伝わる。

系譜類には藤原為忠の娘とする記述があり、別の女性を母とする異説もある。

藤原為忠は平安時代後期の歌人で、その子である寂念・寂超・寂然も和歌に親しんだ人物として知られる。

また、『平家物語』巻第一「鱸」には、忠盛と宮中の女房との交流を描いた逸話がある。

忠盛はあるとき、女房の部屋へ月の絵を描いた扇を忘れたという。

ほかの女房たちが扇の持ち主をからかうと、その女性は和歌で応じたと伝えられる。

忠盛の名と月の光を掛けた、機知に富む歌だった。

『平家物語』は、この女房が忠度の母になったとしている。

ただし、女房の実名や出自について詳しい記録は残されていない。

忠度の母をめぐる逸話や系譜には違いがあり、誰であったのかを確定することは難しい。

熊野で育ったという伝承

忠度には、紀伊国の熊野で生まれ育ったという伝承がある。

現在の和歌山県南部にあたる地域である。

熊野は平安時代、皇族や貴族が参詣する重要な信仰の地だった。

熊野本宮、熊野新宮、熊野那智を中心とする熊野三山には、白河上皇や鳥羽上皇、後白河法皇らが繰り返し参詣している。

忠度の父・忠盛も鳥羽上皇に仕え、熊野との関係を持っていた。

現在の和歌山県新宮市熊野川町には、忠度の生誕地と伝わる場所がある。

地域の伝承では、忠度は熊野川沿いの音川で生まれたという。

母は熊野にゆかりのある女性で、忠度は幼いころから当地で成長したと伝えられている。

18歳ごろまで熊野で暮らし、熊野参詣に訪れた兄の清盛に伴われて京都へ上ったという話も残る。

ただし、出生地や幼少期の詳しい経過を裏付ける同時代の記録は乏しい。

母を熊野別当湛快の娘とする地域の伝承もあるが、『吾妻鏡』には湛快の娘が忠度の妻になったことが記されている。

母と妻に関する伝承が混同されてきた可能性も考えられる。

一方、『平家物語』「忠度最期」には、忠度を「熊野育ち」とする記述が見える。

力が強く、素早い動きのできる武将だったと描かれている。

忠度が熊野と結びつけられてきた歴史は古く、後年の婚姻関係からも熊野別当家とのつながりが確認できる。

父・忠盛の死と清盛の台頭

仁平3年(1153年)1月15日、平忠盛が死去した。

忠度は数え10歳だった。

父の死後、平家一門の中心となったのは長兄の清盛である。

保元元年(1156年)、京都では保元の乱が起こった。

後白河天皇と崇徳上皇の対立を背景に戦いが始まり、清盛は後白河天皇方として勝利に貢献した。

源義朝も同じ陣営に加わり、崇徳上皇方の源為義らを破っている。

さらに平治元年(1159年)、平治の乱が勃発した。

清盛は藤原信頼や源義朝らの軍勢を破り、京都での軍事的な地位を高める。

義朝は敗走の末に殺害され、その子の頼朝は伊豆国へ流された。

平治の乱が終わったころ、忠度は数え16歳である。

この二つの内乱に忠度自身がどのように関わったのか、詳しい記録は確認できない。

しかし、清盛は戦乱を経て権力を拡大し、平家一門の子弟も朝廷で高い地位を得るようになっていく。

仁安2年(1167年)、清盛は太政大臣に就任した。

その後も清盛の子や弟たちが朝廷の要職を占め、平家は宮廷政治に大きな影響力を持つようになる。

忠度も一門の有力者として官職を得て、朝廷に仕えるようになった。

右衛門佐から薩摩守へ

忠度は武士の家に生まれながら、朝廷の官人としても活動していた。

嘉応2年(1170年)には右衛門佐を務めていたことが知られている。

右衛門佐は右衛門府の次官で、宮中の警備などに関わる官職である。

治承2年(1178年)には従四位上となった。

翌治承3年11月には伯耆守に任じられ、治承4年には薩摩守となる。

伯耆国は現在の鳥取県西部、薩摩国は鹿児島県西部にあたる。

「薩摩守忠度」という呼び名は、この官職によるものだった。

当時、地方の国司に任じられた貴族や武士が、必ずしも現地へ赴任するとは限らなかった。

忠度についても、薩摩国へ下向して現地の行政を担当したことを示す記録は乏しい。

平家一門には京都にいながら各国の国司に任じられた人物が多く、忠度も官職を持ちながら一門の政治や軍事に関わっていたと考えられる。

最終的な位階については、従四位上とする記録と、『尊卑分脈』のように正四位下とする系図がある。

一般には正四位下・薩摩守として紹介されることが多い。

忠度が宮廷社会で親しんでいたのは、官職や儀式だけではなかった。

和歌もまた、その生涯の重要な部分を占めていた。

藤原俊成に学んだ和歌

忠度が和歌を学んだ師として知られるのが、藤原俊成である。

俊成は永久2年(1114年)生まれ。

忠度より30歳年長で、平安時代末期の歌壇を代表する歌人だった。

後に『新古今和歌集』の撰者となる藤原定家の父でもある。

当時の貴族社会では、和歌を詠む能力が重要な教養となっていた。

歌会や歌合では、四季や恋などの題に合わせて歌を詠み、その表現や技巧を競い合う。

歌合では左右に分かれて歌を出し、判者が勝敗を決めた。

忠度はこうした歌壇の活動に継続して参加していた。

承安元年(1171年)には、兄の平経盛が催した歌合に出詠している。

経盛も和歌や音楽に親しみ、宮廷歌壇との関係を持っていた人物だった。

忠度はさらに、藤原為業の歌合や、治承2年(1178年)の別雷社歌合にも参加した。

別雷社は現在の上賀茂神社にあたる。

仁和寺の守覚法親王が開く歌会にも参加し、自邸で歌合を催したこともあったという。

忠度にとって、和歌は宮廷での交際に欠かせないものだった。

同時に、自作を歌会へ出し、優れた歌人から評価を受ける活動を重ねていた。

後に俊成へ百余首の巻物を託すという逸話は、こうした長年の歌道への取り組みと結びついている。

『忠度集』に残る梅と蛍の歌

忠度の和歌は、後世に『忠度集』や『平忠度朝臣集』と呼ばれる家集にまとめられた。

現在も複数の写本が残り、その作品を知る手掛かりとなっている。

ただし、家集の成立や伝来には不明な点があり、写本によって詞書や歌の本文に違いが見られる。

忠度は春の花や夏の蛍、秋の月、恋の思いなど、さまざまな題材で歌を詠んでいた。

梅を詠んだ一首がある。

「梅の花夜は夢にも見てしがな闇のうつつのにほふばかりに」

梅の花を、夜には夢の中でも見たい。

現実の夜は暗く、花の姿が見えない。しかし、その香りだけは闇の中に漂っている。

忠度は、目に見える花と香りだけが残る夜の様子を重ねた。

蛍を題材にした歌もある。

「身のほどに思ひあまれるけしきにていづちともなくゆく蛍かな」

小さな体に抱えきれないほどの思いを宿したように、蛍が行方も定めず飛んでいく。

「思ひ」には「火」の意味も重ねられ、蛍の光と人の心が結びついている。

こうした歌からは、忠度が伝統的な和歌の表現や技巧を学んでいたことがわかる。

また、『忠度集』には、秋の夜に目を覚ました心情を詠んだ歌もある。

「風のおとに秋の夜ふかく寝覚して見はてぬ夢のなごりをぞ思ふ」

この歌は鴨長明の『無名抄』でも取り上げられている。

長明は、際立った趣向がある歌というよりも、言葉の続き方や表現の趣に深みがある歌として評価した。

忠度の和歌は、同時代から鎌倉時代にかけての歌人たちにも知られていたのである。

熊野別当湛快の娘との婚姻

忠度は熊野別当家と婚姻関係を結んでいた。

妻として記録されているのは、熊野別当湛快の娘である。

湛快は熊野三山に関わる有力な僧で、宗教的な権威だけでなく、各地の所領とも深く結びついていた。

『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月19日条によれば、湛快の娘は最初、行快僧都の妻だった。

行快も熊野別当家に属する人物である。

その後、女性は忠度と再婚した。

婚姻によって、忠度は熊野別当家が管理していた所領の権利を得ることになる。

結婚した正確な時期や、妻の実名については記録が乏しい。

忠度の子としては忠行の名が系図に残されているが、その母や詳しい経歴も明らかでない。

一方、熊野別当湛快の娘との婚姻は、所領に関する記録から具体的に確認できる。

平家一門は熊野の寺社勢力や海上交通との関係を持っていた。

忠度も婚姻を通じて、熊野の有力者たちとの結びつきを強めていたのである。

そして、この婚姻によって移動した土地には、忠度の和歌の師・藤原俊成が深く関わっていた。

藤原俊成が開発した三河国の荘園

忠度と藤原俊成には、和歌以外の接点もあった。

三河国の竹谷荘と蒲形荘である。

現在の愛知県蒲郡市周辺にあたる土地だった。

『吾妻鏡』元暦2年2月19日条には、この二つの荘園の成立から忠度の死後に至るまでの経過が記されている。

もともと両荘を開発したのは、藤原俊成だった。

俊成は久安年間に三河守を務めており、そのころ現地の開発に関わったと考えられている。

俊成は竹谷荘と蒲形荘を熊野社へ寄進した。

その後、熊野別当湛快が両荘を領有し、娘へ譲り渡す。

娘は最初の夫・行快へ権利を移した。

しかし、忠度と再婚したことで、その権利は忠度へ渡ったという。

俊成が開発した土地が、熊野別当家の婚姻関係を通じて忠度へ伝わったのである。

この所領の移動と、二人が和歌の師弟関係を結んだ時期との詳しい関係はわからない。

忠度は宮廷歌壇で長く活動しており、俊成とも和歌を通じて交流していた。

一方で、師がかつて開発した荘園を、弟子が婚姻によって取得していたことになる。

この二つの荘園は、忠度の死後、源頼朝のもとで再び問題となる。

戦場で忠度が失ったものは命だけではなく、婚姻によって得ていた所領にも及んでいた。

以仁王の挙兵と源氏との戦い

治承4年(1180年)、平家に対する反抗が各地で始まった。

5月には後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が挙兵した。

両者は園城寺を経て南都へ向かおうとしたが、宇治川付近で平家軍に追いつかれる。

平家方はこれを破り、頼政は平等院で自害した。

以仁王も奈良へ向かう途中で討ち取られる。

『平家物語』には、忠度も追討に関わる平家の武将として登場する。

ただし、宇治川でどの部隊を率い、どのような働きをしたのか、詳しい記録は限られている。

挙兵そのものは鎮圧されたが、平家への抵抗は各地へ広がった。

8月には伊豆国で源頼朝が挙兵する。

信濃国では木曾義仲が勢力を伸ばし、東国や北陸でも反平家の武士たちが集まり始めた。

清盛は頼朝を討つため、東海道へ大軍を派遣する。

忠度もこの遠征に加わることになった。

富士川の戦い――甥の維盛とともに東国へ

治承4年10月、平家は源頼朝の軍勢を討つため、東海道へ軍勢を進めた。

総大将を務めたのは平維盛。

清盛の嫡男だった重盛の子で、一門の次世代を担う武将だった。

忠度もこの軍勢に加わり、副将格として行動したと伝えられている。

維盛は忠度にとって甥にあたる。

年齢では忠度の方が上だったが、清盛の嫡流につながる維盛が軍勢の総大将を任されていた。

平家軍は駿河国の富士川付近に陣を構えた。

頼朝も軍勢を率いて西へ進み、両軍は川を挟んで対峙する。

『平家物語』では、平家軍が東国の武士たちの勢いを恐れ、戦闘が始まる前から動揺していたと描かれている。

そして夜間、水鳥が一斉に飛び立つ音を源氏軍の襲撃と勘違いし、混乱して退却したという。

有名な富士川の水鳥の逸話である。

ただし、平家軍が退却した理由を水鳥の羽音だけに求めることは難しい。

東国武士の動向や兵站、軍勢内部の事情なども関わっていたと考えられている。

平家軍は頼朝軍との本格的な決戦に至らず、京都へ戻った。

忠度にとっても戦果を得られない遠征となった。

一方、頼朝は東国で勢力を拡大し、平家に従わない武士たちを集めていく。

清盛の死と墨俣川の戦い

治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛が死去した。

平家一門を率いる立場となったのは、清盛の子・平宗盛である。

軍事面では知盛や重衡らも重要な役割を担い、忠度も引き続き一門の有力者として活動した。

同年3月、尾張国の墨俣川付近で平家軍と源行家の軍勢が衝突した。

行家は源為義の子で、頼朝や義経の叔父にあたる。

以仁王の令旨を各地の源氏へ伝え、平家打倒を呼びかけた人物でもあった。

平家方では重衡を中心とする軍勢が行家軍を迎え撃った。

軍記などには忠度も平家方の武将として登場するが、同時代の記録から忠度自身の役割を詳しく追うことは難しい。

『吾妻鏡』によれば、行家軍は夜間に墨俣川を渡り、平家の陣へ奇襲を仕掛けようとした。

しかし、その動きを察知した平家軍が反撃し、行家方は敗れたという。

行家は敗走し、頼朝の異母弟・源義円も討死した。

平家は墨俣川で勝利したものの、東国における頼朝の勢力を弱めることはできなかった。

北陸では木曾義仲が勢力を伸ばしており、平家は再び大軍を派遣することになる。

忠度も次の北陸遠征へ向かった。

倶利伽羅峠――北陸での大敗

寿永2年(1183年)、平家は木曾義仲を討つため北陸道へ大軍を派遣した。

総大将は平維盛。

忠度も副将格として加わり、平家軍の一翼を担ったとされる。

平家軍は越前国へ進み、火打城を攻めた。

火打城は義仲方の軍勢が守っていた拠点で、平家はこれを破ってさらに北上する。

その後、加賀国から越中国方面へ進んだ。

一方、義仲は北陸の在地武士たちを集め、平家軍を迎え撃つ準備を進めていた。

5月11日、加賀国と越中国の境に近い倶利伽羅峠付近で、両軍が激突した。

平家軍は義仲方の攻撃を受け、大敗する。

『平家物語』には、義仲が軍勢を分けて平家軍を取り囲み、谷へ追い落としたという話が残る。

また、牛の角に松明をつけて敵陣へ追い込んだという火牛の逸話も知られている。

こうした戦法の詳しい経過は軍記物語の描写による部分が大きく、実際の兵力や戦闘の状況には不明な点が残る。

忠度がこの戦いでどの部隊を率いたのかについても、詳しい記録は乏しい。

しかし、平家軍が北陸で大きな損害を受け、義仲の進撃を止められなくなったことは確かである。

その後、平家軍は加賀国の篠原でも義仲方の追撃を受けた。

北陸遠征は失敗に終わり、平家は京都へ退却する。

これが都落ちにつながることになった。

京都を離れる平家一門

倶利伽羅峠で勝利した義仲は、北陸道から近江国へ進んだ。

平家は主力軍の多くを失い、京都を守ることが難しくなっていた。

寿永2年7月、後白河法皇はひそかに都を離れ、比叡山へ移る。

法皇を確保できなくなった平家は、安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ向かうことを決めた。

7月25日、平家一門は京都を離れた。

六波羅や西八条の邸宅には火が放たれ、長年にわたって築かれてきた平家の拠点が失われていく。

忠度もこの一門の都落ちに従った。

数え40歳。

富士川や北陸遠征に参加し、平家の武将として戦ってきた忠度は、今度は都を追われる立場になった。

西国で軍勢を立て直す計画はあったものの、いつ京都へ戻れるかはわからない。

そのような状況で忠度が気にかけたのは、長年取り組んできた和歌だった。

『平家物語』によれば、忠度は一度は都を出たものの、途中で馬を返したという。

行き先は五条京極。

藤原俊成の屋敷だった。

五条京極の俊成邸へ戻る

『平家物語』巻第七「忠度都落」には、忠度が都へ引き返す場面が描かれている。

忠度は侍5騎と童1人を連れ、自分を含む7騎で京都へ戻ったという。

俊成の屋敷へ到着すると、門は固く閉ざされていた。

平家一門が都を離れ、京都では源氏方の進軍が迫っている。

その混乱のさなか、平家の有力武将が戻ってきたのである。

忠度が名乗ると、屋敷の中では人々が騒ぎ始めたという。

落人が戻ってきた。

そのように受け止められたと『平家物語』は記している。

忠度は馬から下り、俊成へ伝えたいことがあるので、門の近くまで来てほしいと呼びかけた。

俊成は忠度の声を聞き、門を開かせた。

二人は対面を果たす。

『平家物語』では、俊成が久しぶりの対面を喜びながらも、忠度が再び都を去らなければならないことを悲しんだと描いている。

実際に7騎で引き返したのか、門前でどのようなやり取りがあったのかを同時代の記録から確かめることはできない。

しかし、この場面は忠度の生涯の中でも最もよく知られる逸話となった。

そして忠度は、持参していた巻物を取り出す。

鎧の中から取り出した百余首

『平家物語』によれば、忠度は鎧の合わせ目から一巻の巻物を取り出した。

そこには、日ごろ詠み重ねてきた和歌のうち、優れていると思う百余首が書き集められていたという。

忠度はその巻物を俊成へ差し出した。

俊成は寿永2年2月、後白河法皇から勅撰和歌集の編纂を命じられていた。

しかし、源平の戦乱によって作業は思うように進んでいなかった。

忠度はそれを知っていた。

そこで、戦乱が収まり、再び勅撰和歌集の編纂が進められるときには、自分の歌を一首でも選んでほしいと願ったという。

平家はこれから西国で戦う。

そのまま海へ沈み、二度と京都へ戻れないかもしれない。

それでも、自分の作品が勅撰和歌集に残れば、長年和歌を学んできた甲斐がある。

忠度はそのような思いを俊成へ伝えたと『平家物語』は記している。

俊成は巻物を受け取り、粗略には扱わないと約束したという。

また、危険な状況でわざわざ訪ねてきた忠度の行動に、感涙を抑えられなかったと伝わる。

百余首を収めた巻物そのものは、現在確認されていない。

また、俊成が後に『千載和歌集』へ忠度の歌を採った際、この巻物を直接用いたのかどうかも明らかでない。

一方、忠度が以前から多くの歌を詠み、俊成と交流していたことは、歌合への参加や伝わる作品から確認できる。

『平家物語』は、その和歌への思いを都落ちの場面に重ねて描いている。

俊成との別れ――西へ向かった忠度

忠度は巻物を託すと、俊成へ別れを告げた。

『平家物語』には、これで思い残すことはなくなったという趣旨の言葉が記されている。

西国の海へ沈むことになっても、山野に屍をさらすことになっても構わない。

そう語り、忠度は馬に乗ったという。

俊成は屋敷の門から、その後ろ姿を見送った。

忠度は兜の緒を締め直し、西へ向かって進み始める。

しばらくすると、遠くから声が聞こえてきた。

「前途程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」

大江朝綱の漢詩に由来する言葉で、『和漢朗詠集』にも収められている。

これから進む道は遠く、思いははるか彼方へ向かうという趣旨だった。

『平家物語』では、俊成がその声を聞き、さらに別れを惜しんだと伝えている。

こうして忠度は、再び平家一門のもとへ向かった。

俊成は京都に残り、やがて勅撰和歌集の編纂を再開することになる。

一方、忠度は西国での戦いへ向かった。

九州から屋島へ――平家の立て直し

都落ちした平家は、まず九州で勢力を立て直そうとした。

しかし、豊後国の緒方惟栄ら在地勢力の抵抗を受け、安定した拠点を築くことができなかった。

その後、一門は讃岐国の屋島へ移る。

屋島は現在の香川県高松市にあたり、瀬戸内海の海上交通を利用できる重要な場所だった。

平家は四国や中国地方の武士たちを集め、軍勢を再編する。

寿永2年閏10月には備中国の水島で、木曾義仲が派遣した軍勢を破った。

さらに11月、播磨国の室山では源行家の軍勢を撃破する。

こうした勝利を重ね、平家は再び播磨から摂津方面へ進出していった。

忠度も一門とともに西国で行動していたと考えられるが、水島や室山で具体的にどの部隊を率いたのか、詳しい記録は乏しい。

一方、京都では木曾義仲と後白河法皇の対立が激しくなっていた。

寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼と義経の軍勢が義仲を破る。

義仲自身も近江国の粟津で討死した。

京都を確保した源氏軍は、続いて平家追討へ向かった。

平家は福原周辺に防衛線を築き、源氏軍を迎え撃つことになる。

忠度はその西側を守る大将として布陣した。

一ノ谷の西側を守った忠度

寿永3年2月、平家は福原から一ノ谷にかけて軍勢を配置していた。

東の生田の森には平知盛や平重衡ら。

西の一ノ谷方面には忠度らが陣を構えていた。

北には山地が迫り、南には瀬戸内海が広がる。

平家はこの地形を利用し、源氏軍の進撃を防ごうとしていた。

『平家物語』では、忠度は一ノ谷の西側を守る大将軍として登場する。

数え41歳。

一門の中でも年長の武将であり、東海道や北陸での軍事行動を経験していた。

一方、源氏軍は複数の方面から攻撃を仕掛けようとしていた。

範頼の率いる大手は東から福原へ進む。

義経は丹波方面を経て、平家の西側へ回り込んだ。

2月4日から5日にかけて、義経軍は三草山で平資盛・平有盛らの軍勢を夜襲し、これを破った。

平家は山側の進路を守る軍勢を失い、義経軍の接近を許すことになる。

そして2月7日、源平両軍は一ノ谷で激突した。

2月7日――崩れた平家の防衛線

寿永3年2月7日、一ノ谷の戦いが始まった。

東の生田の森では範頼軍が平知盛・重衡らと交戦した。

西の一ノ谷口では熊谷直実や平山季重らが先陣を争っている。

さらに山側からも源氏方の軍勢が迫った。

『平家物語』には、義経が険しい坂を騎馬武者とともに駆け下り、平家の陣地を急襲したと描かれている。

後世に鵯越の坂落としとして知られる場面である。

一方、九条兼実の日記『玉葉』には、多田行綱が山手の陣地を破ったという記述が残る。

義経と行綱の役割や、実際の攻撃経路については議論がある。

平家の防衛線は複数の方面から破られ、武将たちは海岸へ退いた。

沖には平家の船団が浮かんでいたものの、すべての者が船で脱出できたわけではなかった。

忠度も敗走する軍勢の中にいた。

『平家物語』によれば、忠度は百騎ほどの武士に囲まれながら、黒い馬に乗って退却していたという。

紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧。

馬には立派な鞍が置かれていた。

忠度は慌てて逃げる様子もなく、ときおり馬を止めて追撃する源氏軍に応戦していたと伝えられる。

その姿に目を留めたのが、武蔵国の武士・岡部六弥太だった。

岡部六弥太が忠度を見つける

岡部六弥太は、武蔵国の猪俣党に属する武士である。

一般には岡部忠澄の名で知られている。

一方、『平家物語』の覚一本などでは「岡部六弥太忠純」と記されており、名前の表記には違いがある。

岡部氏は武蔵国榛沢郡岡部を本拠とする武士の一族だった。

六弥太は源頼朝の軍勢に従い、一ノ谷の戦いにも参加していた。

『平家物語』によれば、六弥太は敗走する平家軍の中に、立派な装束の武将を見つけたという。

軍勢を率いる有力者と考え、馬を走らせて追いついた。

六弥太は相手に名を尋ねた。

ところが忠度は、自分は味方だと答えたという。

そのとき、忠度が顔を上げた。

六弥太は兜の内側から見える歯が黒いことに気づく。

お歯黒である。

当時、お歯黒は宮廷に仕える人々の身だしなみとも関係していた。

六弥太はその様子から、相手が平家の公達であると判断した。

そして馬を並べ、忠度へ組みかかったと伝えられている。

右腕を斬られた忠度

『平家物語』「忠度最期」では、忠度は非常に力の強い武将として描かれている。

熊野育ちで、優れた腕力と素早い動きを備えていたという。

六弥太に組みかかられると、忠度は太刀を抜いて反撃した。

馬上で二度、さらに馬から落ちたところでもう一度攻撃したと伝えられる。

しかし、最初の二撃は鎧に阻まれ、最後の一撃も浅い傷を負わせるにとどまった。

やがて二人は馬から落ち、地面での組討ちとなる。

忠度は六弥太を押さえつけ、首を取ろうとした。

そのとき、六弥太の郎党が駆けつけたという。

『平家物語』では、郎党は背後から近づき、忠度の右腕を肘のあたりから斬り落としたと描かれている。

腕を失った忠度は、もはや戦いを続けられなかった。

それでも残った左手で六弥太をつかみ、弓の長さほど遠くへ投げ飛ばしたと伝わる。

そして忠度は、しばらく退くよう求めた。

最後に念仏を唱えたいと願ったのである。

念仏を唱えたと伝わる最期

『平家物語』によれば、忠度は西方へ向かい、念仏を唱えた。

さらに、

「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」

と唱えたという。

阿弥陀仏の光はあらゆる世界を照らし、念仏を唱える人々を救い取って見捨てないという趣旨の言葉である。

その言葉を唱え終わらないうちに、六弥太が近づき、忠度の首を斬ったと伝わる。

数え41歳だった。

忠度が一ノ谷で討死したことは『吾妻鏡』にも記録されている。

一方、六弥太との組討ちの詳しい経過や、右腕を斬り落とされた場面、最後に唱えた言葉については『平家物語』の描写が中心となる。

実際にどの地点で戦い、どのような言葉を交わしたのか、細かな状況は明らかになっていない。

ただし、忠度を討った人物として岡部六弥太の名は広く伝えられ、その出身地である武蔵国にも忠度を供養したという伝承が残された。

六弥太は首を取ったものの、相手が誰だったのかを知らなかったと『平家物語』は記している。

その正体を明らかにしたのが、箙に結びつけられた一首の和歌だった。

箙に結ばれた「旅宿の花」

忠度の首を取った六弥太は、相手が平家の有力な武将だったことを確信していた。

しかし、名を聞き出すことはできていない。

『平家物語』によれば、六弥太は忠度の箙に結びつけられた紙を見つけたという。

箙は矢を収めて背負う武具である。

六弥太が紙を開くと、一首の和歌が書かれていた。

題は「旅宿の花」。

「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」

旅の途中で日が暮れ、桜の木陰を宿にするなら、今夜は桜の花が宿の主人になって迎えてくれるだろう。

そのような意味を持つ歌である。

そして紙には「忠度」と書かれていた。

六弥太はそこで初めて、討ち取った相手が薩摩守平忠度だったと知ったという。

『平家物語』では、六弥太が忠度の首を高く掲げ、自分が討ち取ったと名乗る場面が続く。

その声を聞いた人々は、武芸にも和歌にも優れた忠度を惜しんだと伝えられる。

この歌が実際に忠度の箙へ結びつけられていたことを示す同時代の記録は確認できない。

しかし、「旅宿の花」は忠度の最期を語る上で欠かせない歌として、長く読み継がれてきた。

この歌には、藤原公任の歌に通じる表現もある。

古くから詠まれてきた桜の歌を踏まえ、旅の宿を花に求める趣向である。

一ノ谷で討死した武将の名は、軍記物語の中で一本の矢や太刀によって明らかになったのではなく、和歌によって示されたのである。

京都の八条河原へ送られた首

一ノ谷で勝利した源氏軍は、討ち取った平家武将たちの首を京都へ送った。

『吾妻鏡』によれば、朝廷では平家一門の首を市中でさらすかどうかについて議論が行われている。

平家の武将たちは長く朝廷に仕え、高い官位を得てきた人物でもあった。

その首をさらすことには慎重な意見もあったという。

しかし、範頼や義経らの要請を受け、最終的には首をさらすことが認められた。

2月13日、平家武将たちの首が京都の八条河原へ運ばれた。

その中には忠度の名もあった。

ほかにも平通盛、平経正、平敦盛、平師盛らの首が並べられたと記されている。

忠度だけでなく、清盛の弟や子、孫にあたる多くの武将が一ノ谷で命を落としていた。

一方、平宗盛や平知盛、経盛、教盛らは海上へ逃れ、屋島方面で抵抗を続ける。

平家はなお安徳天皇と三種の神器を保持していた。

源氏との戦いは、翌年の壇ノ浦まで続くことになる。

しかし、忠度自身が京都へ戻ることはなかった。

和歌を学んだ俊成の屋敷にも、再び立ち寄ることはかなわなかった。

忠度の死後、三河国の荘園はどうなったのか

忠度が一ノ谷で討死した翌年、三河国の竹谷荘と蒲形荘をめぐる問題が記録されている。

元暦2年(1185年)2月19日のことである。

『吾妻鏡』には、藤原俊成が開発した両荘の権利が移動してきた経緯が詳しく記されている。

俊成が熊野社へ寄進した土地は、熊野別当湛快から娘へ譲られた。

娘は最初の夫・行快へ権利を移し、その後、忠度と再婚したことで土地の権利も忠度へ渡った。

ところが、忠度は平家一門とともに朝廷の敵となり、一ノ谷で討死した。

両荘は没収され、源頼朝のもとへ渡ったという。

そこで忠度の妻だった女性が、土地の回復を求めた。

女性は前夫の行快に協力を頼み、頼朝へ訴えるよう求めたと記されている。

その代わり、土地の権利が回復された場合には、将来、自分と行快との間に生まれた子へ譲るという条件も示した。

行快は源為義の外孫にあたり、頼朝と血縁関係を持つ人物でもあった。

『吾妻鏡』によれば、その縁もあって頼朝は行快からの訴えを受け入れ、両荘の権利を認めたという。

忠度が婚姻によって得ていた土地は、彼の死後、熊野別当家の関係者へ戻ることになった。

この出来事は壇ノ浦の戦いよりも前、平家一門がまだ西国で抵抗を続けていた時期に記録されている。

『千載和歌集』に残った一首

一方、京都では藤原俊成が勅撰和歌集の編纂を進めていた。

後白河法皇から撰進を命じられたのは寿永2年(1183年)2月。

平家が都落ちする数か月前のことである。

その後、源平の戦乱によって作業は停滞したが、平家滅亡後に編纂が進められた。

文治3年(1187年)9月には序が記され、形式的な奏覧が行われる。

翌文治4年(1188年)4月22日には本格的な奏覧が行われ、その後も改訂が加えられた。

『千載和歌集』は全20巻、約1288首からなる勅撰和歌集である。

その巻第一「春歌上」の第66首に、忠度の作品と伝わる歌が収められた。

「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」

詞書には「故郷花といへる心をよみ侍りける」と記されている。

志賀の都は、天智天皇の時代に置かれた近江大津宮を指す。

かつて都があった場所は荒れ果て、昔の姿を失っている。

しかし、近くの長等山には、以前と変わらず山桜が咲いている。

忠度はその様子を詠んだ。

「さざなみや」は志賀にかかる枕詞である。

「昔ながら」には、昔のままという意味と、長等山の地名が掛けられている。

荒れた旧都と、変わらず咲く桜。

その対照によって、過ぎ去った時代への思いが表現されている。

この歌は『忠度集』にも残されており、藤原為業の歌合で「故郷の花」を題として詠まれた作品と伝わる。

忠度が都落ちの際に即興で詠んだ歌ではなく、以前から歌壇で詠み重ねてきた作品の一つだった。

「よみ人しらず」とされた理由

『千載和歌集』に収められたこの歌には、作者の名が記されていない。

「よみ人しらず」

そのように記されている。

『平家物語』は、俊成が忠度の歌を選びながら名前を明らかにしなかった理由について語っている。

忠度は平家一門とともに都を離れ、源氏軍と戦って一ノ谷で討死した。

朝廷の敵となった人物であるため、勅撰和歌集に名前を載せることがはばかられたという。

『平家物語』によれば、俊成は都落ちの途中で訪ねてきた忠度の姿を思い出し、託された巻物から一首を選んだ。

しかし、その作者を「よみ人しらず」として記したと伝えられる。

一方、俊成自身がその判断の理由を詳しく説明した同時代の記録は残されていない。

忠度が朝敵となったために名前を伏せたという経緯は、『平家物語』が伝えるものである。

また、俊成が選歌の際に用いた資料についても、具体的なことはわからない。

それでも、『千載和歌集』には実際に忠度の作と伝わる歌が一首収められ、作者名が記されなかった。

都落ちの途中で巻物を託したという逸話は、この一首が残された経緯を説明する物語として広まっていった。

後の勅撰集では忠度の名が記される

忠度の和歌は、『千載和歌集』の一首だけに限られていない。

その後に編まれた勅撰和歌集にも作品が採られている。

『新勅撰和歌集』には、次の恋の歌が収められた。

「たのめつつ来ぬ夜つもりのうらみてもまつより外のなぐさめぞなき」

来ると期待させながら、相手は訪ねてこない。

その夜が積み重なり、恨めしく思っても、結局は待つほかに慰めがない。

そうした恋心を詠んだ歌である。

「つもり」には夜が積もる意味と、摂津国の歌枕である津守が重ねられている。

さらに「うらみ」と「浦」、「まつ」と「松」を掛け、一首の中に複数の意味を組み込んでいる。

忠度はこうした技巧を用いながら、恋の歌も詠んでいた。

その後も『玉葉和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』『新拾遺和歌集』などに作品が採られている。

勅撰和歌集に入った忠度の歌は、『千載和歌集』の一首を含めて計11首に及ぶ。

後世の勅撰集では、忠度の名を明らかにした作品も収められるようになった。

また、家集『忠度集』も写本によって伝えられた。

能『忠度』――名を残せなかった歌人の執念

忠度の物語は、室町時代の能にも取り上げられた。

世阿弥の作とされる能『忠度』である。

物語の舞台は、忠度が命を落とした一ノ谷の古戦場。

一人の僧が須磨を訪れ、桜の木の下で老人と出会う。

老人はそこが忠度の墓に関わる場所だと語り、供養を頼んで姿を消す。

その夜、僧が読経を続けていると、武将の姿をした亡霊が現れた。

忠度である。

亡霊は、都落ちの途中で俊成へ和歌を託したことを語る。

そして、自分の歌が『千載和歌集』に採られながら「よみ人しらず」とされたことを嘆くのである。

能では、作者の名を残せなかったことが、忠度の強い執念として描かれている。

亡霊は僧に、俊成の子・藤原定家へ伝言してほしいと頼む。

勅撰集に自分の名を書き加えてもらいたいという願いだった。

さらに忠度は、一ノ谷で岡部六弥太と組み合い、討ち取られた場面を語る。

その後、回向を願って姿を消していく。

能『忠度』は、『平家物語』の「忠度都落」と「忠度最期」をもとに作られた作品である。

実際に忠度の亡霊が現れたという記録ではなく、歌への未練を残した武将を描く芸能として受け継がれてきた。

近代の唱歌「青葉の笛」

忠度の名は、近代の唱歌にも登場する。

「青葉の笛」である。

作詞は大和田建樹、作曲は田村虎蔵。

明治39年(1906年)、当初は「敦盛と忠度」という題で発表され、その後「青葉の笛」の名で広まった。

第一節では平敦盛が取り上げられ、笛を携えた若武者の最期が歌われる。

第二節では忠度と俊成の別れが題材となった。

都落ちの途中で師の屋敷を訪ね、和歌を託す。

『平家物語』に描かれた場面が、短い唱歌の中に収められたのである。

この唱歌は学校教育などを通じて親しまれ、平敦盛と平忠度の名を多くの人々へ伝えることになった。

二人はいずれも一ノ谷で討死した平家一門の人物だった。

敦盛は笛、忠度は和歌と結びつけられ、それぞれの最期が後世の文学や音楽の題材となっていく。

忠度塚と腕塚――明石に残る伝承

忠度の最期に関わる史跡は、現在の神戸市や明石市に残されている。

特に知られるのが、明石市天文町付近の忠度塚と腕塚神社である。

『平家物語』では、忠度は岡部六弥太との組討ちの際に右腕を斬り落とされた。

腕塚神社は、その右腕を供養した場所と伝えられている。

また、近くには忠度の遺体を葬ったという忠度塚が残されている。

明石市には、忠度と六弥太が戦った場所に由来するという「両馬川」の伝承もある。

両者が馬を並べて争ったことから、川の名がついたという話である。

現在は川の多くが暗渠となっているが、旧跡を示す石碑が残されている。

一方、神戸市長田区にも忠度の腕塚や胴塚と呼ばれる史跡が伝わる。

忠度が実際にどの地点で討たれ、遺体がどこへ葬られたのかについては、確実な記録が乏しい。

各地に残る腕塚や墓所には、後世の供養や地域の伝承が重なっている。

また、忠度を討った岡部忠澄の本拠だった武蔵国岡部にも、忠度の供養塔が伝わる。

現在の埼玉県深谷市にある清心寺には、岡部忠澄が忠度の菩提を弔うために建てたとされる石塔が残されている。

忠度を討ち取った武士の故郷にも、敗れた平家の武将を供養する伝承が残されたのである。

忠度の死後、残された歌と所領

忠度が一ノ谷で討死した後も、平家と源氏の戦いは続いた。

元暦2年(1185年)2月、義経軍が屋島を急襲し、平家はさらに西へ退く。

3月24日、長門国の壇ノ浦で源平最後の決戦が行われた。

平家軍は敗れ、安徳天皇は海へ沈んだ。

平知盛も入水し、宗盛は捕虜となる。

忠度の兄である教盛や経盛も、壇ノ浦で命を落としたと伝えられている。

一方、忠度が生前に関わっていた三河国の竹谷荘と蒲形荘では、熊野別当家の人々が土地の権利を取り戻そうとしていた。

元暦2年2月19日、『吾妻鏡』には、かつて忠度の妻だった女性と行快が、頼朝へ両荘の回復を求めたことが記されている。

そして京都では、藤原俊成が和歌集の編纂を続けていた。

文治4年(1188年)、『千載和歌集』は奏覧される。

その巻第一「春歌上」の第66首には、忠度がかつて詠んだと伝わる歌が収められた。

「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」

作者の欄には「よみ人しらず」と記されていた。

その後の勅撰和歌集では忠度の名を明らかにした作品も採られ、『忠度集』の写本も伝えられていく。

さらに室町時代には能『忠度』が作られ、歌に自分の名を残したいと願う亡霊の姿が舞台に登場した。

そして一ノ谷の戦場に由来する忠度塚や腕塚の伝承は、須磨から明石にかけての土地に残された。

平家の都落ちから5年後、俊成が編んだ勅撰和歌集には、忠度が生涯をかけて学んだ和歌の一首が、作者名を伏せられたまま収められたのである。

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