第134回
寿永3年(1184年)2月7日、摂津国の福原周辺に源氏の軍勢が迫っていた。
『吾妻鏡』によれば、その日は雪が降っていたという。
東の生田の森には源範頼の軍勢が押し寄せ、西の一ノ谷では熊谷直実や平山季重らが先陣を争っていた。
さらに北方の山中には、源義経が率いる70余騎の精鋭が進んでいたと伝わる。
後世に名高い「鵯越の坂落とし」である。
平家軍は海岸沿いの福原を中心に防衛線を築き、源氏の進撃に備えていた。しかし、東西からの攻撃に加えて山側の陣地も破られ、各地で敗走を始める。
この戦いで平忠度、平通盛、平敦盛らが討死し、平清盛の子・重衡は生け捕りとなった。
清盛がかつて遷都を進めた福原。都落ちから半年余りを経て、平家がようやく取り戻した拠点である。
その福原が、わずかな時間の戦闘によって再び源氏の手に渡ることになった。
都落ちから半年、福原へ戻った平家
寿永2年(1183年)7月、平家一門は安徳天皇と三種の神器を伴い、京都を離れた。
同年5月、北陸の倶利伽羅峠で木曾義仲の軍勢に大敗。続く篠原の戦いでも苦戦し、京都を守ることが難しくなっていた。
平宗盛らは西国へ向かい、九州で勢力の立て直しを図る。
ところが、豊後国の緒方惟栄ら在地勢力の抵抗を受け、安定した拠点を築くことができなかった。
その後、平家は讃岐国の屋島へ移り、瀬戸内海沿岸の武士たちを集めながら軍事力を回復させていく。
転機となったのは、同年閏10月の水島の戦いである。
備中国の水島で、平家軍は義仲が派遣した矢田義清、海野幸広らの軍勢を撃破した。
翌11月には備前国の室山で源行家の軍勢を破り、平家は西国での優位を取り戻していく。
一方、京都では義仲と後白河法皇の対立が深刻化していた。
11月19日、義仲は法住寺殿を攻撃し、後白河法皇を武力で制圧する。
これに対し、源頼朝は弟の範頼と義経を派遣。翌寿永3年1月20日、義仲方は宇治・瀬田方面で敗北し、義仲自身も近江国の粟津で討死した。
京都は頼朝方の支配下に入ったものの、西国では平家がすでに播磨から摂津へ勢力を伸ばしていた。
その中心となったのが福原である。
現在の神戸市兵庫区周辺にあたる福原は、平清盛が治承4年(1180年)に遷都を進めた土地だった。
大輪田泊を中心とする海上交通の拠点でもあり、瀬戸内海から軍勢や物資を運ぶうえで重要な位置を占めていた。
『吾妻鏡』によれば、平家は摂津と播磨の境にある一ノ谷に城郭を構え、西海・山陰両道の軍勢を集めていたという。
京都への帰還をうかがいながら、源氏軍の攻撃に備えていたのである。
東の生田の森、西の一ノ谷――平家軍の布陣
平家の防衛線は、現在の神戸市街地にあたる広い範囲に及んでいた。
東側の要地となったのが生田の森である。
現在の生田神社付近には、当時さらに広い森林が存在していたと考えられている。
付近には旧生田川も流れており、北の山々と南の海岸に挟まれた地形は、東から進む敵を迎え撃つのに適していた。
ともに平清盛の子であり、平家一門の有力武将として軍勢を指揮していた。
一方、西側の防衛拠点となったのは一ノ谷。
現在の神戸市須磨区付近に位置し、北には鉢伏山や鉄拐山などの山地が迫り、南には瀬戸内海が広がる。
山と海岸に挟まれた狭い場所を押さえれば、西側から接近する敵の進軍を妨げやすい。
『平家物語』では、この方面の守将として平忠度らが登場する。
忠度は清盛の弟で、薩摩守を務めた武将である。和歌にも優れ、藤原俊成に学んだ人物として知られていた。
また、平通盛や平盛俊らは山側の守備を担っていたと伝わる。
『平家物語』には陣地の木戸や柵についての描写があり、平家が防御施設を設けていた様子がうかがえる。ただし、施設の具体的な構造や規模は判明していない。
当時の福原周辺では、陸上だけでなく海上にも平家の船が配置されていた。
『玉葉』には一ノ谷、福原、山手、浜地、島辺などの名が見え、平家軍が複数の場所に展開していたことがわかる。
こうした陣地へ向けて、源氏軍は二つの方面から進軍した。
範頼は大手、義経は搦手を担当
『吾妻鏡』によれば、寿永3年1月29日、源範頼と源義経は平家追討のため京都を出発した。
一方、『平家物語』では同日に後白河法皇へ出陣を奏上し、2月4日に出発したと記されており、日付には違いがある。
源氏軍は大きく二手に分かれた。
大手を率いるのは源範頼。
武田信義、加賀美遠光、梶原景時、小山朝政らが従い、摂津の海岸沿いを進んで福原の東側へ迫った。
搦手の大将となったのが源義経である。
義経の軍勢には土肥実平、田代信綱、三浦義連、安田義定、熊谷直実、平山季重らが加わった。
範頼軍と異なり、義経軍は北方の丹波路へ入る。
山間部を通って平家軍の西側へ進み、海岸沿いの防衛線へ攻撃を仕掛けるためである。
『吾妻鏡』は範頼軍を5万6000余騎、義経軍を2万余騎と記す。
これに対し、『平家物語』の覚一本では範頼軍が5万余騎、義経軍が1万余騎となっている。
ところが、同時代の九条兼実の日記『玉葉』には、源氏軍が分散した結果、一方面の兵力は1000~2000騎ほどという情報が見える。
兵力には大きな開きがあり、実際の人数を確定することは難しい。
『玉葉』は平家軍についても四国や紀伊国などの軍勢を合わせて数万に及ぶと伝えているが、こちらも報告された数字である。
ただし、京都の貴族たちが平家の軍事力を警戒していた様子は読み取れる。
源氏軍の勝利が確実視されていたわけではなく、平家も西国で相当の軍事力を回復していたと考えられる。
三草山を突破した義経軍
2月4日から5日にかけて、義経軍は三草山付近で平資盛・平有盛らの軍勢と衝突した。
平家側は山の西側に布陣し、義経軍の進撃を阻止しようとしていた。
『平家物語』によれば、義経は田代信綱や土肥実平の意見を聞き、夜襲を決断したという。
暗い山道を進むため、実平が小野原の民家に火を放ち、野山の草木を燃やして進軍路を照らしたと伝えられる。
放火の描写は『吾妻鏡』には見えず、実際の規模や経過は確認できない。
両史料に共通するのは、義経軍が夜間の攻撃によって平家の陣を破ったという点である。
敗れた平資盛・有盛らは播磨国の高砂から船で屋島へ逃れ、平師盛は一ノ谷へ退いたと『平家物語』は伝えている。
この敗北によって、平家は山側の進路を守る軍勢を失った。
『平家物語』では、三草山の敗報を受けた宗盛が平通盛らに山手の守備を命じたと記されている。
通盛は清盛の弟・教盛の子であり、平家一門の有力武将だった。
出陣前には妻の小宰相局と名残を惜しみ、弟の平教経から気を緩めていると戒められたという逸話も残る。
三草山の敗北によって、義経軍はさらに一ノ谷方面へ進むことが可能となった。
合戦前日に届いた後白河法皇の書状
源平両軍が決戦へ向かう一方、京都の朝廷では平家との和議も検討されていた。
後白河法皇にとって重大な問題となっていたのが、安徳天皇と三種の神器である。
平家を攻撃しても、神器が失われてしまえば朝廷にとって深刻な事態となる。
『玉葉』によれば、法皇は平家追討の軍勢を派遣する一方、和議の使者を送ろうとしていた。
しかし、使者に選ばれた僧は、源氏軍が進軍している状況では交渉に赴けないとして辞退したという。
また、2月2日の段階でも、源氏軍の一部は京都西方の大江山付近にとどまっていた。
軍勢の幹部には和平交渉を支持する者もいたが、後白河法皇の側近たちは強硬な攻撃を求めていたと伝えられる。
実際に平家へ停戦の知らせが届いたことを示すのが、合戦後に平宗盛が送った書状である。
『吾妻鏡』に収録された宗盛の返書によれば、合戦前日の2月6日、後白河法皇から平家へ連絡が届いたという。
内容は、2月8日に使者を派遣するため、その使者が帰京するまでは戦闘を行わないよう求めるものだった。
宗盛は、源氏軍にも同じ命令が伝えられていると理解していたと主張する。
ところが翌7日、源氏軍が攻撃を開始した。
宗盛は書状の中で、法皇の命令が源氏に届かなかったのか、それとも命令を無視して攻撃したのかと問いただしている。
この停戦の知らせを利用し、後白河法皇が平家を油断させようとした可能性も指摘されている。
しかし、法皇の真意は明らかでない。
平家はすでに一ノ谷周辺に防衛施設を築き、三草山にも軍勢を配置していた。
宗盛が主張するように、平家側に戦闘の意思がまったくなかったとは考えにくい。
それでも、合戦直前に停戦の知らせが届いていたことは、平家の判断に影響した可能性がある。
なお、この宗盛の返書には2月23日の日付があり、『吾妻鏡』の収録日との間に食い違いがある。研究上は2月下旬の書状として扱われている。
源氏軍が福原へ迫っていたころ、朝廷と平家の間では和平をめぐる交渉も続いていたのである。
熊谷直実と平山季重、一ノ谷の先陣争い
2月7日の早朝、一ノ谷の西側では源氏方の武士たちが敵陣へ迫っていた。
その先頭に立とうとしたのが、熊谷直実と平山季重である。
熊谷直実は武蔵国熊谷郷を本拠とする武士で、息子の直家とともに義経軍へ加わっていた。
『平家物語』「一二之懸」によれば、熊谷は山側から攻撃する義経の軍勢を離れ、一ノ谷の西口へ向かったという。
山中での奇襲では、誰が最初に敵陣へ入ったのか判然としない。
そこで敵の正面へ進み、自ら名乗りを上げて先陣の功名を得ようと考えたのである。
同じく先陣を狙っていたのが平山季重だった。
熊谷は平山の動向を気にしながら、息子とともに夜道を進んだ。
『平家物語』によると、熊谷父子は夜明け前に一ノ谷の西口へ到着。敵陣に向かって大声で名乗りを上げたという。
武蔵国の住人、熊谷次郎直実。
その息子、小次郎直家。
源氏の先陣として駆けつけたことを知らせ、平家方へ応戦を呼びかけた。
しかし、平家の武士たちはすぐには出てこなかった。
熊谷らの馬を疲れさせ、矢を消耗させようと考えていたと物語は伝える。
やがて平山季重も到着した。
夜が明けると平家方が木戸を開き、源平両軍の戦闘が始まる。
『平家物語』には、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らが平家方として応戦したと記されている。
熊谷の乗馬は矢を受けて倒れ、息子の直家も負傷したという。
一方、平山は敵が開いた木戸へ攻め込み、先陣の功名を得ようとした。
『吾妻鏡』にも熊谷父子と平山による先陣争いが見える。ただし、戦闘の詳しい順序や個々の行動には史料間で違いがある。
一ノ谷の西口では、源氏方の武士たちが平家の防衛施設を突破しようとしていた。
生田の森で範頼軍を迎え撃つ平知盛・重衡
一ノ谷の西側で戦闘が始まるころ、東の生田の森にも源範頼の軍勢が迫っていた。
『平家物語』によれば、生田の森では平家軍が木戸を設け、源氏方の攻撃を防いでいた。
源氏軍からは河原太郎・次郎の兄弟が先陣を務めようとしたが、平家方の真名辺五郎の強弓によって討ち取られたと伝えられる。
さらに、梶原景時と息子の景季に関する「梶原二度の懸け」の逸話も残る。
景時は一度敵陣へ攻め込んだ後に引き返した。
ところが、息子の景季が敵中に取り残されていることに気づく。
『平家物語』では、景時が再び敵陣へ突入し、味方とともに景季を救い出したと描かれている。
景季が箙に梅の枝を挿して戦ったという伝承も、この合戦に関係するものである。
現在の生田神社には、梶原父子にまつわる「箙の梅」の伝承が残されている。
こうした細かな戦闘経過は軍記物語による描写だが、範頼軍が生田の森から平家の防衛線へ攻撃を仕掛けたことは、『玉葉』が伝える福原方面への攻撃とも符合する。
平家方は東の生田の森、西の一ノ谷で源氏軍を迎え撃っていた。
しかし、その間にある山手の陣地にも敵が迫りつつあった。
義経は70余騎を選び、険しい山へ向かった
三草山を突破した義経軍は、一ノ谷へ向かう途中でさらに軍勢を分けたと伝えられる。
『平家物語』では、土肥実平に7000余騎を率いさせて一ノ谷の西側へ向かわせ、義経自身は3000余騎を率いて山中へ入ったという。
一方、『吾妻鏡』2月7日条では、義経が勇敢な武士70余騎を選び、一ノ谷の背後の山へ向かったと記されている。
義経軍全体の兵力と、険しい山へ向かった精鋭部隊の人数は分けて考える必要がある。
『吾妻鏡』によれば、義経が山上へ到着したのは寅の刻。
現在のおおむね午前3時から5時にあたる。
義経は三浦義連らを伴い、険しい山道を進んだ。
『平家物語』「老馬」には、道を見失わないよう、年老いた馬を先に進ませたという逸話が残る。
また「鵯越」では、義経が土地の地形に詳しい猟師を探し、その息子を案内役に迎えたと伝えられている。
この若者は後に鷲尾三郎義久と名乗ったという。
ただし、延慶本『平家物語』では、播磨国安田荘の武士・多賀久利が案内役を務めたと記され、諸本によって人物が異なる。
険しい山道を進むために、土地に詳しい武士や住民の協力を得た可能性は考えられる。
『吾妻鏡』が伝える一ノ谷の背後の山は、猪や鹿、兎、狐などの獣しか通わないような険しい場所だった。
義経は、そこから平家の陣へ攻撃を仕掛けることになる。
鵯越の坂落とし――平家の背後へ駆け下りた源氏軍
『平家物語』「坂落」は、一ノ谷の戦いでも特に有名な場面である。
義経軍は、平家の陣地を見下ろす山上へ到着した。
眼下には険しい斜面が続き、騎馬武者が下るには危険な場所もあったという。
そこで義経は、鹿が通る道なら馬も通れるはずだと考えた。
『平家物語』によれば、何頭かの馬を先に斜面へ落とし、通行できるかを確かめたと伝わる。
無事に下りた馬の様子を見て、義経は進撃を決断する。
しかし、斜面の途中にはさらに険しい岩場が待ち構えていた。
そこで進み出たのが三浦一族の佐原義連である。
義連は相模国三浦氏の一族で、義経軍に従っていた武士だった。
『平家物語』には、故郷の三浦ではこの程度の坂は馬場も同然だと豪語し、真っ先に駆け下りたと描かれている。
これに続いて義経の軍勢も斜面を下り、平家の陣へ攻め込んだ。
山側から突然現れた源氏軍に、平家方は大きく動揺したという。
ただし、馬を試しに落としたという話や、義連の発言については、同時代の記録で裏付けることができない。
『吾妻鏡』にも、義経が三浦義連らとともに険しい山から攻撃したことは記されている。
しかし、『平家物語』のように大軍が次々と急斜面を駆け下りる場面を、そのまま史実として再現することは難しい。
義経が率いたという70余騎についても、どの地点からどのように攻め込んだのか、詳しい経路は確定していない。
それでも、源氏方が山側から平家の防衛線を攻撃し、戦況に大きな影響を及ぼしたことは、『玉葉』の記録からもうかがえる。
坂落としの場所は一ノ谷か、鵯越か
坂落としをめぐっては、攻撃が行われた場所にも諸説がある。
『平家物語』には、義経が「一ノ谷のうしろ鵯越」へ向かったと記されている。
ところが、現在の鵯越は神戸市兵庫区と長田区の境界付近を通る山道であり、須磨区の一ノ谷からは7~8キロメートルほど離れている。
地名をそのまま現在の地理へ当てはめると、位置関係に疑問が生じる。
そのため、坂落としの場所については複数の見解が示されてきた。
一つは、現在の須磨区一ノ谷町の背後にある鉢伏山・鉄拐山付近とする説である。
この付近は山地が海岸へ迫る地形であり、一ノ谷の防衛施設を背後から攻撃する経路として考えやすい。
一方、現在の鵯越付近を重視する説もある。
この場所から山を下れば、福原や大輪田泊に近い地域へ進むことになる。
さらに議論を複雑にしているのが、同時代史料『玉葉』の記述である。
九条兼実は2月8日、前日の合戦について京都へ届いた報告を日記に記した。
その内容によれば、義経軍はまず丹波城を攻略し、続いて一ノ谷を落としたという。
また、範頼軍は浜地から福原へ迫ったとされる。
そして山手の陣地を最初に攻略した人物として、別の武将の名が挙げられている。
多田行綱である。
多田行綱が最初に破った山手の陣
多田行綱は、摂津国多田荘を本拠とした摂津源氏の一族である。
治承元年(1177年)の鹿ヶ谷の陰謀では、藤原成親らが平家打倒を企てていることを清盛へ密告した人物として知られる。
その後は京都周辺で活動し、義仲や平家との関係を経て、一ノ谷の戦いでは源氏方の軍事行動に関わった。
『玉葉』2月8日条には、多田行綱が山方から攻め寄せ、最初に山手を攻略したと記されている。
この記述を重視すれば、平家の山側の防衛線を破った武将として、行綱の役割を無視することはできない。
義経が一ノ谷の背後を攻撃し、行綱は別の地点から山手へ迫ったとする見解もある。
具体的には、行綱が現在の鵯越付近から福原方面へ下り、義経は須磨側の一ノ谷を攻撃したと考える説である。
一方、近藤好和は『吾妻鏡』の記述を再検討し、義経が鉢伏山・鉄拐山付近から坂落としを行ったとする説を提示している。
この考え方では、義経は少数の精鋭を率いて一ノ谷の背後へ向かい、残る軍勢は安田義定らが指揮して正面を攻撃した可能性がある。
いずれも史料に基づく解釈であり、義経と行綱の進軍経路を確定することはできていない。
また、『玉葉』の記事は京都へ届いた第一報に基づくため、各部隊の行動が正確に伝えられていたかにも検討の余地がある。
『平家物語』に描かれる坂落としの光景と、『玉葉』が伝える多田行綱の山手攻略。
両者を照らし合わせると、一ノ谷の戦いでは複数の源氏方の軍勢が山側から攻撃していた可能性が浮かび上がる。
山手の陣地が破られ、平家軍は敗走を始める
山側からの攻撃は、平家の防衛態勢に大きな影響を及ぼした。
東では範頼軍が生田の森を攻撃し、西の一ノ谷口でも熊谷直実や平山季重らが激しく戦っている。
そこへ山手の陣地を破った源氏方の軍勢が加わった。
平家は東西の防衛線だけでなく、背後からの攻撃にも対応しなければならなくなった。
『平家物語』では、山側から進んだ義経軍によって平家の陣地に火が放たれ、各所で混乱が広がったと描かれている。
生田の森で戦っていた平知盛は、西方から上がる黒煙を見て、味方の陣が破られたことを知ったという。
もっとも、火災の範囲や発生地点については、史料から詳しく確認することができない。
山手の守備に関わっていた平盛俊も、この戦いで命を落とした。
『平家物語』「越中前司最期」によれば、盛俊は源氏方の猪俣小平六則綱と組み合い、相手を取り押さえた。
しかし則綱は降伏するふりをして命を助けるよう願い、盛俊が気を緩めたところを突いて討ち取ったという。
この逸話の細部は軍記物語によるものだが、盛俊が一ノ谷で討死したことは『吾妻鏡』にも記されている。
平家方の武将たちは、各地で源氏軍の追撃を受け始めた。
船へ逃れようと海岸へ向かう者もいれば、陸路で西へ退こうとする者もいる。
陣地を離れた武将たちの多くは、そこで源氏方の武士に追いつかれることになった。
平忠度の最期――箙に残された和歌
一ノ谷の西側を守っていた平忠度も、源氏軍の追撃を受けた。
忠度は平清盛の弟であり、武将として活動する一方、和歌にも優れた人物だった。
都落ちの際には、歌の師である藤原俊成を訪ね、自らの歌を託したという逸話が『平家物語』に残る。
一ノ谷での敗北後、忠度は西へ逃れようとしていた。
そこへ追いついたのが、源氏方の岡部六弥太忠澄である。
『平家物語』「忠度最期」によれば、忠度は自分の正体を明かさず、そのまま逃れようとした。
しかし、忠澄は高貴な武将の様子を見抜き、追撃を続ける。
やがて両者は組み合い、忠度は忠澄を馬から引き落として取り押さえたという。
ところが、忠澄の従者が駆けつけ、忠度の右腕を切り落とした。
抵抗できなくなった忠度は念仏を唱えた後、忠澄に討ち取られたと伝わる。
忠澄が相手の正体を知ったのは、その後だった。
忠度の箙には、和歌を書いた紙が結びつけられていたという。
「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」
旅の途中で日が暮れ、木陰を宿とするなら、花が今宵の主人として迎えてくれるだろうという歌である。
『平家物語』では、この歌を見た忠澄が、討ち取った相手は平忠度であると知ったと描かれている。
忠度は歌人としても後世に名を残した。
藤原俊成が編纂した『千載和歌集』には、忠度の歌が作者名を伏せた「読人知らず」として収められている。
忠度の最期は、後に能の『忠度』などにも取り上げられた。
一ノ谷で命を落とした武将の中でも、その死は和歌とともに語り継がれることになる。
平重衡、生田の森から逃れて生け捕りとなる
一ノ谷の戦いで源氏軍が捕らえた重要人物が、平重衡である。
重衡は清盛の子であり、宗盛や知盛の兄弟にあたる。
治承4年(1180年)には以仁王・源頼政らの挙兵を鎮圧する軍事行動に関わり、同年末の南都攻撃では軍勢を率いた。
その際、東大寺や興福寺の堂塔が焼失し、多くの人々が犠牲となった。
一ノ谷では生田の森の副将軍を務めていたと『平家物語』に記されている。
源氏軍の攻撃によって平家の陣地が崩れると、重衡も退却を始めた。
『平家物語』「重衡生捕」によれば、重衡は乳母子の後藤兵衛盛長とともに二騎で逃れていたという。
重衡が乗っていたのは「童子鹿毛」と呼ばれる名馬。
足の速い馬を頼りに西へ向かったものの、梶原景季らが追撃してきた。
景季は遠くから矢を放ち、重衡の馬を射たと伝わる。
馬が弱ると、重衡は盛長の馬を借りようとした。
しかし盛長は、自分の馬を差し出すことを恐れ、そのまま逃げ去ったという。
主人を置き去りにして逃れる乳母子の姿は、『平家物語』の中でも厳しく描かれている。
一方、重衡は敵の接近を知り、自害しようとした。
そこへ源氏方の庄四郎高家が駆けつけ、重衡を取り押さえたと伝えられる。
乳母子とのやり取りや逃走の細かな経過については、軍記物語の描写として扱う必要がある。
ただし、重衡が一ノ谷で生け捕りにされたことは『吾妻鏡』などにも記されている。
清盛の子である重衡の捕縛は、源氏にとって大きな戦果となった。
重衡は京都へ送られ、後白河法皇が平家に安徳天皇と三種の神器の返還を求める交渉にも利用されることになる。
平知章、父・知盛を守って討死
生田の森で平重衡とともに軍勢を指揮していた平知盛は、敗戦後に海岸へ向かった。
知盛も清盛の子であり、平家一門の中枢を担う武将である。
『平家物語』「知章最期」には、知盛が息子の平知章、家人の監物太郎頼方とともに逃れる場面が描かれている。
海岸へ向かう途中、源氏方の騎馬武者たちが追撃してきたという。
頼方は弓で応戦したものの、敵の追撃は続いた。
そこで息子の知章が引き返し、追手に立ち向かったと伝えられる。
知章が敵を食い止めている間に、父の知盛は逃れた。
しかし、知章はその場で討死したという。
『平家物語』では、知盛が後にこの出来事を振り返り、息子を見捨てて逃げたことを悔やむ場面も描かれている。
詳しい会話や心情は軍記物語の描写によるものだが、知章が一ノ谷で討死したことは『吾妻鏡』にも記されている。
知盛は船で海上へ逃れ、宗盛らと合流した。
その後も平家軍の中心人物として活動し、翌年の壇ノ浦の戦いまで戦い続けることになる。
熊谷直実と平敦盛――海岸で討たれた若武者
一ノ谷の戦いで最もよく知られる逸話の一つが、熊谷直実と平敦盛の対決である。
『平家物語』によれば、合戦当時17歳だったという。
平家軍が敗走すると、敦盛も船へ逃れようとして海岸へ向かった。
馬を海へ入れ、沖の船へ近づこうとしたところ、熊谷直実が呼び止めた。
『平家物語』では、直実が若武者を大将軍と見込み、敵に背を向けず戻ってくるよう呼びかけたと描かれている。
若武者はその声に応じ、岸へ引き返してきたという。
直実は相手に組みつき、馬から引き落として押さえつけた。
兜を上げて顔を見ると、まだ16、17歳ほどの少年だった。
自分の息子・直家と同じくらいの年齢である。
直実は若武者を助けようと考えたものの、背後から源氏方の軍勢が迫っていた。
このまま逃がしても、別の武士に討ち取られてしまう。
『平家物語』は、直実が涙を流しながら少年の首を取ったと伝えている。
その後、遺体を改めた直実は、若武者が腰に笛を差していることに気づいた。
錦の袋に入った笛である。
『平家物語』によれば、この笛は祖父の平忠盛が鳥羽院から賜ったもので、父の経盛を経て敦盛へ伝えられたという。
名は「小枝」。
後世には「青葉」の名でも知られるようになった。
直実は、戦場に笛を携えていた若武者の姿に心を打たれたと描かれている。
討ち取った相手が平敦盛であると知ったのは、その後だったという。
この逸話は、熊谷直実が出家を志すきっかけとして広く知られるようになった。
ただし、直実の出家には所領をめぐる争いや頼朝との関係など、別の事情も指摘されている。
また、敦盛の最期の詳しい会話や笛をめぐる描写についても、『平家物語』を中心とする伝承として考える必要がある。
敦盛の最期は、能の『敦盛』や幸若舞などにも受け継がれた。
若い平家の公達を討った東国武士の苦悩は、後世の文学や芸能で繰り返し描かれることになる。
平通盛の戦死と小宰相局の入水
山手の守備に関わっていた平通盛も、一ノ谷の戦いで命を落とした。
通盛は平清盛の弟・教盛の子であり、平家一門の有力武将だった。
『平家物語』には、決戦前に妻の小宰相局と名残を惜しんでいた姿が描かれている。
小宰相局は上西門院に仕えた女房で、通盛との結婚に至るまでの経緯も同書に記されている。
源氏軍によって山手の防衛線が破られると、通盛も戦闘に巻き込まれた。
『平家物語』では、源氏方の武士たちに囲まれて討ち取られたと伝えられる。
一方、海上へ逃れた小宰相局にも、夫の戦死が知らされた。
『平家物語』「小宰相身投」には、夫を失った悲しみから、彼女が船上で思い悩む場面がある。
乳母は、小宰相局が身を投げないように説得したという。
しかし小宰相局は夜中に船から海へ身を投げ、乳母らが救おうとしたものの、その姿を見失ったと伝えられる。
通盛と小宰相局の物語は、平家一門の敗北が家族に及ぼした悲劇として後世まで語り継がれた。
小宰相局の詳しい心情や最期は『平家物語』の描写による部分が大きい。
一方、通盛が一ノ谷で討死したことは『吾妻鏡』にも記されている。
父の教盛は、この戦いで息子を失ったのである。
三草山から逃れた平師盛も討死
平師盛も一ノ谷の戦いで命を落とした。
わずか数日前、三草山で義経軍の夜襲を受けた師盛は、伊賀平内兵衛清家らを伴って一ノ谷へ退却していた。
しかし、2月7日の戦いでは再び源氏軍に攻められることになる。
『吾妻鏡』によれば、師盛を討ち取ったのは遠江守安田義定の軍勢である。
義定は甲斐源氏の一族で、富士川の戦いや義仲追討にも関わった有力武将だった。
義経の軍勢に加わっていた義定については、一ノ谷の正面攻撃で重要な役割を果たした可能性も指摘されている。
三草山で敗れた資盛・有盛らは、すでに屋島へ逃れていた。
一方、師盛は一ノ谷へ戻り、源氏軍との戦いで討死する。
同じ三草山から敗走した兄弟たちも、その後の運命は大きく分かれた。
平教経は一ノ谷で討死したのか
一ノ谷の戦死者については、史料間で食い違いが見られる。
その代表的な人物が平教経である。
『吾妻鏡』2月7日条には、教経が安田義定の軍勢によって討ち取られたと記されている。
同書では一ノ谷の戦死者として扱われ、その後の戦闘には登場しない。
しかし、『平家物語』では教経は一ノ谷を生き延び、平家軍の有力武将としてその後も戦い続ける。
壇ノ浦の戦いでは源氏方の武士を相手に奮戦し、最期には入水したと描かれている。
さらに『玉葉』2月19日条には、教経について「一定現存」とする情報が記されている。
この「現存」は解釈に注意を要するものの、教経の生存を示す記述と考える見解がある。
『吾妻鏡』の戦死記事が誤報に基づいていた可能性も指摘されている。
当時の戦場では、討ち取った人物の身元を正確に確認することが難しい場合もあった。
勝利の報告が京都へ届くまでに、人物の名前や戦果が取り違えられた可能性も考えられる。
教経の動向については、後世の軍記物語と編纂史料、同時代の記録を比較しながら検討する必要がある。
『玉葉』が伝える短時間の決着
一ノ谷の戦いについて、『玉葉』2月8日条には興味深い記述がある。
九条兼実が京都で聞いた報告によれば、戦闘は辰の刻から巳の刻にかけて行われ、一時にも満たないうちに決着したという。
この時代の一時は、現在のおおむね2時間に相当する。
つまり、平家の防衛線は2時間にも満たないほどの短時間で崩れたと伝えられているのである。
ただし、『玉葉』の記事は戦場から届いた報告に基づくものであり、すべての戦闘が正確にその時間内に終わったと断定することはできない。
生田の森、一ノ谷、山手では、それぞれ異なる軍勢が戦っていた。
各部隊がいつ攻撃を始め、どの順番で陣地を破ったのかについても、詳しい経過は明らかでない。
『玉葉』は義経による一ノ谷攻略、範頼による福原方面への攻撃、多田行綱による山手の攻略を区別して記している。
平家軍が大きな損害を受けたことは確かだが、敗北の原因を一つの出来事に絞り込むことは難しい。
平家の防衛線は東西に広がり、山側にも軍勢が配置されていた。
源氏軍が複数の方面から攻撃したことで、平家は各地で対応を迫られた。
とりわけ山手の陣地が破られたことは、防衛態勢に大きな影響を及ぼしたと考えられる。
さらに後白河法皇による停戦の知らせが、平家側の判断を鈍らせた可能性も残る。
こうした状況のなか、平家軍は広い範囲で敗走し、海岸に用意していた船へ向かうことになった。
平宗盛と平知盛、海上へ逃れる
一ノ谷での敗北を受け、平宗盛らは海上へ退却した。
平家は瀬戸内海の海上交通を利用し、軍勢の移動や物資の輸送を行ってきた。
福原周辺にも船が用意されており、陸上での戦闘が不利になると、一門の武将たちは船での脱出を図った。
しかし、すべての兵が船に乗れたわけではない。
海岸へ向かう途中で討たれた者や、船へ逃れようとして源氏軍の追撃を受けた者もいたと『平家物語』は伝えている。
『玉葉』には、海上に残された船の一部が逃げ場を失い、火を放ったという報告も記されている。
ただし、誰が船に火を放ったのか、実際にどの程度の被害が生じたのかは明らかでない。
源氏軍は福原周辺の陣地を奪ったものの、平宗盛や平知盛らを捕らえることはできなかった。
安徳天皇と三種の神器も、引き続き平家の手中にあった。
『玉葉』2月8日条では、京都に勝利の報告が届いた時点でも、神器の安否については確かな情報が入っていなかった。
宗盛らは讃岐国の屋島へ退き、残存する軍勢をまとめて抵抗を続ける。
三草山の戦いで先に屋島へ逃れていた資盛・有盛らも、平家一門と行動をともにしていた。
一ノ谷での敗北によって福原を失った平家は、再び瀬戸内海へ活動の中心を移すことになった。
京都へ送られた平家武将たちの首
2月8日、源氏軍の勝利は京都へ伝えられた。
『吾妻鏡』は、平家の大将軍9人が討ち取られ、その他にも1000人余りが討たれたという報告を記している。
ただし、これらの数字も戦勝報告に基づくものであり、実際の戦死者数を確定することは難しい。
京都では、討ち取られた平家武将たちの首を市中でさらすかどうかが議論された。
平家一門は長く朝廷に仕え、高い官位を得てきた人々である。
その首を一般の武士と同じようにさらすことには、慎重な意見もあった。
しかし、最終的には首をさらすことが認められたと『吾妻鏡』は伝えている。
2月13日には、平家武将たちの首が京都の八条河原へ運ばれた。
平通盛、平忠度、平経正、平師盛、平敦盛、平知章らの名が記録に見える。
これらの首には名前を書いた札が付けられ、獄門にさらされたという。
ただし、先に触れた平教経のように、生死に関する記録が食い違う人物も含まれている。
首の一覧についても、すべてを確実な戦死者名簿として扱うことはできない。
かつて京都の朝廷で高い官位を得ていた平家一門。
その武将たちの首が、今度は敗軍の将として都へ運ばれたのである。
一方、捕虜となった平重衡は京都へ送られ、後白河法皇による平家との交渉に利用されることになった。
法皇は重衡を通じ、安徳天皇と三種の神器の返還を平家に求める。
しかし宗盛は要求に応じず、停戦の知らせが届いた後に源氏軍が攻撃したことについても、朝廷への抗議を続けた。
福原を失った平家、戦場は屋島へ
一ノ谷の敗北によって、平家は福原周辺に築いた防衛線を失った。
平忠度、平通盛、平敦盛、平知章、平師盛らが討死し、平重衡は捕虜となった。
一門を支えてきた武将たちが相次いで失われ、宗盛らは再び西国で軍勢を立て直す必要に迫られた。
その一方、源氏軍も一ノ谷での勝利だけで追討を終えることはできなかった。
安徳天皇と三種の神器は依然として平家が保持しており、宗盛や知盛らも屋島へ逃れている。
平家は瀬戸内海に多くの船を持ち、海上交通を利用して活動を続けていた。
源氏軍は陸上で大勝したものの、すぐに海上の平家軍を追撃できる状況にはなかった。
その後、範頼は西国方面への進軍を続けるが、兵糧や船の確保に苦しむことになる。
義経も一ノ谷の戦いの後、京都周辺での任務を経て、翌元暦2年(1185年)には再び平家追討へ向かった。
同年2月、義経は摂津国の渡辺津から船で四国へ渡り、讃岐国の屋島を急襲する。
一ノ谷で敗れた宗盛や知盛らは、屋島でも源氏軍の攻撃を受け、さらに西へ退くことになる。
そして3月24日、長門国の壇ノ浦で源平最後の決戦が行われた。
一ノ谷で生き延びた知盛は壇ノ浦で入水し、宗盛は源氏軍に捕らえられる。
安徳天皇も海へ沈み、平家が保持していた三種の神器のうち宝剣は失われた。
一方、一ノ谷で捕虜となった重衡は、平家の敗亡後、南都の僧徒の要求によって処刑されることになる。
寿永3年2月7日、一ノ谷で敗れた平家の武将たち。
その後も瀬戸内海で戦い続けた者、京都へ捕虜として送られた者、戦場で家族を失った者たちは、それぞれ異なる結末を迎えていった。
【PR】
【PR】
![]()
神戸中央市場 淡路島近海の瀬戸内産 いかなごのくぎ煮 お試し300g 無添加 いかなごくぎ煮 イカナゴ 釘煮 いかなご釘煮


コメント